荒廃した世界で、君と非道を歩む
 海辺で志筑に背後から抱きつかれた時は心臓が爆発しそうになるくらいドキドキしたのに、今は女将に肩を掴まれていても心臓が暴れることはない。
 むしろゆっくりと、じっくりと身体中に血液を送るために脈打っていた。
 これは、恐怖だ。
 女将は蘭と志筑の関係性に勘づいている、そしてそれは恐らく新汰も同じだ。夕餉の時に新汰が言おうとした言葉、あれは志筑が“そう”であると気づいていなければ出てこないはずだろう。
 蘭が口を滑らせれば、怪しまれるような行動を取れば、二人に警察へ通報されるかもしれない。
 そうなれば志筑と離れ離れになる。それだけは絶対に避けたい。

「お風呂、入ってきます」

 肩を掴んでいた女将の手を振り払い、逃げるように暖簾を潜る。女将は呼び止めることも追いかけることもしなかった。
 気づかれてしまった恐怖と焦りが背中を押す。脱衣所へ勢いよく飛び込むと、外と中を隔てる扉を閉めた。
 無駄に広い脱衣所へと足を踏み入れ、籠が等間隔に並べられた棚が壁を埋める空間を見渡す。静かで誰もいない空間は落ち着くはずなのに、今は恐怖で逃げ出したかった。
 大きな鏡の前を通り過ぎ、棚から籠を取り出して布切れのようなシャツを脱ぐ。着ていたものを全て籠の中に入れて身体の前をバスタオルで隠し、大浴場への扉へ向かう。
 壁一面を埋める鏡にガリガリに痩せ細った少女が映った。目と目が合い、数秒見つめ合う。
 鏡に映る少女が自分自身であると気がつくのに、少しばかり時間が必要だった。

「……気持ち悪い」

 傷だらけで骨が浮き出た身体も、バスタオルでは隠せない露出した肌も何もかもが不快でならない。
 
 ズキン。

 頭に走った鋭い痛みと共に、脳裏にいつの日か見た光景がフラッシュバックする。
 生暖かい吐息、下腹部に感じる違和感、頭の上で固定された手に感じる圧迫感、身体全体に伸し掛かる威圧感。
 裸の中年男性とまだ幼い中学生ほどの少女が重なり合う光景が脳裏いっぱいに映る。
 やっと忘れられていたのに自分の裸を見て思い出すなんて。父親に虐待されていた頃の記憶が今も残っていたなんて。

 吐き気がした。

 バスタオルに顔を埋め、誰もいない静かな脱衣所に嗚咽が響く。
 
 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。

 夕餉が胃の中で暴れ回り、今にも溢れてきそうだった。涙で歪む視界を動かせば、脱衣所の端にトイレがある。
 その場にバスタオルを残し、四つん這いでトイレへ向かうと便器の中に胃の中の物を吐き出した。

 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。

「……気持ち、悪い…………」

 胃から食道を逆流する吐瀉物の感覚が消えるまで、父親の気持ち悪い笑みが脳裏に張り付いていた。
< 42 / 105 >

この作品をシェア

pagetop