その天才外科医は甘すぎる~契約結婚のはずが溺愛されています
 すると、真澄がふと横目で澪を見た。

 「けれど、君の妹さんはなかなか鋭いな。名前の呼び方に関しては完全に失念していた」
 「あっ、それはすみません…ついいつも通りで」
 「責めているわけじゃない。ただ交際半年という設定なら、君が名字で呼ぶのはやはり不自然だ」

 そう言った真澄が、不意に立ち止まった。

 「澪」

 静かな空気を震わせるように、真澄の声が澪の名を呼ぶ。
 突然のことすぎて、澪は固まってしまった。

 「えっ!?……あ、あの、」
 「ほら、俺のことも名前で呼んで」
 「そんな急に言われても…!?」
 「慣れていないなら、なおのこと練習が必要だろ」

 夕方の住宅街は静まり返っていて、他に誰もいない。それが逆に恥ずかしさを引き立てる。でも真澄の眼差しは容赦なく見逃してはくれなさそうだ。
 灯り始めた街灯の光が淡く足元を照らす中で、澪はためらいがちに唇を開く。

 「……ま、真澄さん……」

 口にした瞬間、自分の声が思った以上に震えていたことに気づいてますます恥ずかしくなる。声は小さかったけれど真澄には届いたらしいことが、緩く上がった口角を見て分かった。

 「悪くない」
 「な、何がですか!?」
 「君が俺の名前を呼ぶ声、想像していたより――いい」

 (想像していたよりって何!?)

 言葉を続けようとしたそのとき、真澄がすっと手を伸ばして澪の髪の横に触れた。

 「これくらいの距離にも慣れておかないと、またボロが出るぞ?」

 指先が、耳の辺りにかかった髪を直してから、頬を撫でた。
 男の人なのに整った綺麗な指。いつもはその手で患者を治す『神の手』が、今自分の頬を撫でている。

 そう意識するだけで、心臓がバクバクと音を立てる。

 頬が熱くなりすぎて、隠したいのに隠せない。
 視線を逸らしたままきゅっと唇を結ぶと、真澄の手が頬から離れて手を握った。

 「スキンシップも演技の一部だろ?」
 「こういうところで完璧主義を出さないでください……!」
 「君が照れるのも分かるが、どちらかが慌てていると『夫婦』には見えない」

 その声はどこまでも静かで、冷静で。
 けれど、重ねられた手のひらは、確かに温かかった。

 (……こんなのずるい)

 そのまましばらく手を引かれたまま、ゆっくりと歩き出した。

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