その天才外科医は甘すぎる~契約結婚のはずが溺愛されています
 高層階の静けさの中、優しい明かりがリビングの奥から漏れている。その奥からふわりと漂ってくるのは、炊き立ての炊き込みご飯と味噌汁の香りだった。

 「……ただいま帰りました」
 「おかえり」

 低く穏やかな声に、思わず肩が跳ねる。リビングに入ると、真澄はシャツの袖をまくったまま、テーブルに味噌汁を並べていた。

 「柊木さん、もう帰ってたんですか?」
 「ほらまた名前」
 「あ、……真澄さん」

 ぼんやりしていて、またうっかり名字で呼んでしまった。最近は間違えることも減ってきていたのに。ぎこちなく返すと、真澄は頷きながら「ちょうど夕食ができたところだ」と言った。

 テーブルに並べられたのは、栄養士顔負けの和定食。ちょうど今のささくれだった心に染み入るような、そんな献立。

 「これ、全部真澄さんが…?」
 「当然だ。摂取カロリーは650キロカロリー、塩分2.3グラム以下。吸収効率も考慮した」

 そこまで言ったところで、真澄がすっと手を伸ばしてくる。

 「な、なんですか…?」
 「手が冷たい。それに低血糖気味だ、昼を抜いたな?それから足首のむくみ。今日は移動が多かったのか」

 (……ああ、またいつものが始まった)

 「それやめてくださいって言いましたよね?これじゃ私が患者みたいじゃないですか」
 「なるほど、家では『妻と夫』でいたいということか。悪かった気づけなくて」
 「〜〜ち、違います!そうじゃなくてっ」

 真澄は少しだけ目を細めた。
 そして不意に距離を詰めたかと思うと、真澄の指先がそっと澪の頬に触れる。

 「それからもう一つ。無理な強がりをやめること」
 「……っ」
 「君は嘘が下手だ。手の温度も目の充血も、ため息の深さも――体は全部、正直に教えてくれる」

 (どうして、この人には……)

 祖母の前でも、ひよりの前でも、平気なふりをした。
 大丈夫だと笑って実家を出てきた。

 (でも本当は、全然大丈夫なんかじゃない――)

 全部見抜かれてるんだ。
 どこかで誰かに気づいてほしかった気持ちまで、すべて。

 これは、契約結婚。利害が一致しただけの、ただの取り決め。
 そう思っていたはずなのに。

 胸の奥が、ふわりとほどけるような感覚。じわじわと広がる温かさが、逆に怖かった。

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