その天才外科医は甘すぎる~契約結婚のはずが溺愛されています
 会場内のメインホールは、すでに満席に近かった。
 多国籍の参加者が耳にイヤホンをつけ、同時通訳や資料に目を落としている。

 司会者が登壇して英語で真澄の名前を紹介した瞬間、ステージ上のスクリーンに彼の名前と演題が映し出される。

 いつもよりさらに引き締まって見える背中が、ステージ中央の演台へと歩を進めていく。
 壇上に現れた真澄は、黒のスーツに身を包み、スライドのリモコンを手にしていた。その顔には、少しの迷いも見えなかった。

 「Thank you for the introduction. I'm Masumi Hiiragi, from Tokyo Sourin Medical University Hospital.」

 滑らかな英語が、マイクを通して会場に響く。

 発音も、抑揚も、堂々とした間の取り方も―― 世界中のどんな医師たちにも引けを取らない堂々とした姿。

 (……すごい)

 堂々と世界の医師たちの前で発表するその背中に、嘘はない。けれど同時に、胸の奥にじくりと広がっていく感情があった。

 (あんなふうに話す人と……私、並んで歩いてたんだっけ)

 まるで別の世界の住人を見ているような、現実感の薄さ。
 スライドを切り替えながら語られる症例報告、データ、そして独自の手術アプローチ――周囲の医師たちがメモを取り、頷き、真剣に聴き入っている。

 質疑応答では、英語で質問を飛ばす欧米の医師に対して、真澄は少しも動じることなく、的確に返答を重ねていった。

 壇上を降りたあとも、彼の周りには次々と人が集まってくる。
 名刺交換、握手、話しかける声。誰もが彼に一目置いていて、その中心に立つ真澄は、どこか別の場所にいるようにさえ思えた。

 (すごい人だって分かってたはずなのに……今、どうしてこんなに苦しいんだろう)

 Spouse Pass――妻としてこの場にいる。

 でも今、自分が手にしているその言葉すら、どこか借り物のように感じてしまう。澪はふと目を伏せて、胸の奥に湧いてきた小さな劣等感を、誰にも気づかれないように、ぎゅっと飲み込む。

 真澄が、ふとこちらに気づいたのか目が合った。

 軽く顎を引きながら、ほんの一瞬だけ、彼は澪にだけ向けて口元をゆるめたようにみえて、澪は思わず顔を逸らしてしまった。


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