恋するだけでは、終われない / 告白したって、終われない
第七話
「ほとんどひとりでいただいてしまって……。す、すいません」
誇張、ではなくて。
三藤先輩が、僕のお皿に休みなくのせてくれるので。
おいしくてつい、たくさん食べてしまった。
「味見でお腹いっぱいだったから。構わないわ」
素っ気なく答えるけれど、その顔はうれしそうで。
おかげで僕は、心もいっぱいになりそうだ。
「……あら月子、本当は味見どころではないでしょう? 昨日の昼から、何度も作り直しているうちに……」
「いきなり現れないで! 落ち着かないでしょう!」
いつのまにか、近づいていた三藤母を。
先輩は、両耳を真っ赤にしながら慌てて押し戻す。
「ほんとうに、騒がしい母でごめんなさい」
三藤先輩がぶつぶついいながら、僕を見る。
「量は足りた? もう少し多めに作ったほうが、よかったかしら?」
「とんでもないです! 美味しすぎてこれ以上食べたら……。あとで夕ご飯が食べられなくなっちゃいます」
すると先輩が一瞬、固まって。
「ごめんなさい。夕ご飯までは用意していなくて……」
「そ、そういう意味じゃ、ないんですけど……」
あぁ、三藤先輩はやっぱり。
……ときどき、真面目すぎるのだ。
「少し片付けてくるわね。あの、よかったらこれ……」
ふたりで、ごちそうさまをしたあとで。
三藤先輩が、いつものように律儀に両手を添えて。
小豆色のブックカバーがかかった文庫本を、差し出してくれる。
「あ、ありがとうございます」
僕が無意識のうちに、タイトルページを開くと。
なんだか先輩にしては、珍しい出版社の……。
「前にここでお話ししたときに、教えてくれた本があったでしょ? その出版社の中から、探してみたのよ」
僕の好きなジャンルの、新鋭の作家の最新作か。
「三藤先輩、もう読んだんですか?」
「え、ええ……」
「感想は……って、まぁそれは僕が読んでからにしますね」
その表情から、いいそうなことはなんとなく理解できたけれど。
いまはまだ、口に出さないでおこう。
なぜなら、僕も……。
「実は、僕も先輩の好みのジャンルから、一冊持ってきました。ただ、申しわけありませんが、書店のカバーのままですけれ……」
僕がいい終わる前に、先輩は正座し直すと。
そのままスッと両手を伸ばして僕から本を取り、カバーを外して表紙を見る。
続けて明らかな疑問系の声で、僕に聞く。
「これ、本当に自分で買ったの?」
そう、いくら古典とはいえ。
このジャンルは苦手だ、特に表紙が僕にとっては……。
「女子感満載よね……」
そう、そうなんだ。
花柄満載なのはともかく。
美少女と美青年が見つめ合う、いかにも女子が好みそうな装丁で……。
書店のレジで出すのが、正直恥ずかしかった。
先輩が、ちょっとイタズラっぽい笑みを浮かべて、僕を見る。
「ねぇ海原くん。この本ね、もっとスタンダードな表紙のもあるのよ」
「そうなんですか? ……ってまさか先輩、持ってます?」
「実は、ごめんなさい……」
「で、ですよね。古典なんだから、文庫化されているものって限られますよね!」
「でも、わたしのとは別の現代語訳版だから。きっと雰囲気が違うでしょうし、きちんと読ませてもらうわ」
そういって、笑顔になった先輩が。
一度奥へと、昼食を片付けにいく。
……それからそれほど、長くは経っていないけれど。
預かった本に、集中していると。
ふと、隣にやわらかな香りを感じた。
……あれ?
どこかで感じたことがあるけど、少し違う気もする……。
「お待たせ。遅くなってごめんなさい」
もちろん、現れたのは三藤先輩だけれど。
この香りって、僕の知っている三藤先輩の香りとは違うよなぁ……。
「先輩、お風呂入ってたんですか?」
「えっ?」
そんなわけないだろう、と自分でも思う。
でもほかに、言葉が見つからなかったのだ。
「もしかして、気がついてくれたのかしら?」
ところが珍しいことに、先輩はあきれるわけでもなく。
なにやら少し、うれしそうだ。
「海原くん。響子先生からプレゼントもらった日のこと、覚えているかしら?」
そういえば、そんなことがあった。
一学期の終業式前に、僕がパンを買ってこいといわれたあの日だ。
「僕だけが、プレゼントがなかった日ですね」
「商品券があったじゃない。それであのとき、いただいたのが……」
「シャンプーですか?」
「違うわ、香水よ」
「『コウスイ』って、あの?」
「そう、香りの水と書く、香水。でも、ほかになにかあるかしら?」
三藤先輩が、真面目に考え込む。
いや、いきなり香水っていわれたので。
こうなんか、大人のつけるものだよなぁ、と思っただけで……。
あと、もっといえば。
僕は、学校で。
「暑いっ!」
そういいながら高嶺由衣が、シュージュワーっと。
まるで殺虫スプレーみたいに教室中に巻き散らかしてるやつとは違う。
……そんなことをふと、考えただけなのだ。
「海原くん……」
「はい」
「いま。ほかの女の子のこと、考えていなかったかしら?」
「へ?」
三藤先輩の瞳が、少し不満げに僕を見ている。
「ここはわたしの家ですけれど……。ちょっとひどくない?」
ま、まずい!
怒られる前に、話題を戻さないと。
「そ、それで。どうして香水をもらったんですか?」
先輩は、それでもまだ不満げだったけれど。一応話しを戻してくれるらしく。
「ずっと前、それこそまだ海原くんたちと一緒に通う前にね……」
それは、高尾先生とふたりで隣同士、座ってた頃のことだと教えてくれた。
「……あらごめん。もしかして、香りが苦手だった?」
珍しく、高尾響子が話しかけてきた。
もっともそのころは、まだ名前もなにも知らない。
ただの『朝のお隣さん』、だったのだけれど。
「い、いえ。本なのに、いい香りがしたので少し驚いただけです」
いま思えば、あの意味ありげな笑顔はさながら。
「やったー、気づいてくれたー!」
……みたいな感じだと思う。
とにかく、あのとき。
響子先生はとってもうれしそうだった。
「これはねぇ〜。和紙の栞に、お気に入りの香水をちょっとつけてみたの」
「えっと、それは……。百貨店の一階で、よく化粧品売り場のかたがされてるようなものですか?」
「そうそう。まぁ百貨店じゃなくてもいいんだけれど、ムエットっていうんだよ」
先生はそういうと、栞をひらひらとさせてわたしを見る。
「……もしかして、香水好きなの?」
「いいえ、持っていません」
「でも、デパートにはいくんでしょ?」
「基本は母親の買い物です。それに、わたしでは使う機会もありませんから……」
いま思えばあのとき。
響子先生が、もう一段階ギアをあげた気がする。
「じゃあよかったら、これあげる!」
「え、でも?」
「わたしの好きな香水を、気に入ってくれたお礼だよ!」
「……なるほど、そんなことがあったんですねぇ」
海原くんが、妙に感心してくれるのはうれしいけれど。
……本当はね、この話しには続きがあるの。
「……あとね、いつかあなたに必要になりそうだなと思ったら」
「は、はい……」
「わたしにぜひ! 香水、選ばせてくれない?」
だからね、高尾先生から一学期の終業式前にいただいたこれは。
その約束の、証なの。
かわいい小瓶に入った、その香りは。
先生のものとは、少し違うけれど。
とてもわたしの、好きな香りよ。
……ついでだから、ここだけのはなし。
あのとき、わたしが慌ててしまったのは。
プレゼントの中身が、香水だったからではない。
「そろそろ必要かな? まずは小瓶から!」
手書きのそんなメッセージが、添えられていたから。
……海原くんにみられるわけには、いかなかったのよ。
それからふと、海原くんの顔を見て思った。
「ねぇいま……。随分と熱心に、響子先生のこと考えてなかった?」
「あ、それですよ! 高尾先生の香りとの違いを考えていました!」
ああホント、それをいまいうの……?
響子先生の話しを出したのは、確かにわたしだけど……。
なにもそこまで熱心に、思い出さなくてもいいんじゃない?
もう一度いいますけれど。
わたしの家よ、ここ。
目の前にいるの、わたしなのよ!
「……でも、やっぱり違いますよね」
「えっ?」
「先輩の香りは、もっと先輩に似合っています」
「あ、ありがとう……」
海原くんが意識して、話していないからこそ。
いわれたこちらは、意識してしまう……。
……それからしばらくは、本の話をふたりでした。
今回は、海原くんが無理して買って、読んでくれただけあって。
古典の本について一緒に色々語り合えたのが。
わたしはとっても、楽しかった。
……それからふと、空を見る。
そろそろ、次に進めるかしら?
「ねぇ海原くん……」
「はい」
「三十分、いや二十分もかけないので。ここでもう一度待っていてもらえる?」
「いいですけど?」
そういって、不思議な顔をする彼を残して。
わたしは自室へと駆け上がる。
あと、ひとつだけ。
わたしはきょう、どうしてもやりたいことがある。
……あらあら、階段を走るなんて珍しいこと。
さてさて。
あの子の母親として、ひとつ頑張らせてもらうわよ。
わたしは、ゆっくりと階段をのぼると。
娘の部屋を、ノックする。
「月子、お手伝いしましょうね」
「うん、ありがとう。お母さん」
……やさしい返事ができる娘に、育ってくれた。
いえ、そうではなくて。
あなたの、『初恋』の相手が。
あなたを変えたのかしら?
「……お待たせしました。玄関にいらしてもらえる?」
熱心に本を読んで、娘との会話の準備に忙しい彼の背中に。
わたしはそっと、声をかける。
「どうかしましたか?」
のんびりと、そんなふうに答えて。
そのあと玄関にいる娘を見たときの、あなたの顔ときたら……。
母親としては、そうね。
……心の中で、思わずガッツポーズをしてしまったわ。