恋するだけでは、終われない / 告白したって、終われない
第八話
花紺青色の世界に、桔梗の花が。
華やかに咲き誇っている。
「あ、あの……。そ、そろそろ動いてもいいかしら……」
そうだった。
あまりの光景に、時間が経つのを忘れていた。
……こ、これは現実だ。
両耳を赤くした三藤先輩が、ぎこちなく右腕を上げながら。
少し顔を横に向けて、紅赤色の玉かんざしに手を伸ばす。
「お、お団子……」
横に控えていた三藤母が、思わず吹き出す。
「……もう、海原君。なにをいうかと思ったら」
「し、失礼しました! あまりに別世界だったので、驚きすぎて……」
「少し前に月子が、いきなり浴衣が着たいといい出したのよ……。でも、ほめていただけてうれしいわ」
「は、はい……」
「それで……。海原君がほめてくれたのは。浴衣の柄かしら? それとも娘のために頑張った母親?」
「……いえ、それを着ている。……な、中身です」
一瞬、沈黙が流れ。
それからもう一度、三藤母が吹き出した。
「まぁ月子……。あなたですって!」
「もう、わざとらしくいわないで! それに海原くん!」
「は、はい」
「そこは浴衣を着たこともほめてから、わたしをほめてよね……」
「す、すいませんでした!」
突然カシャッという音がしたので、驚いて振り向くと。
三藤母がスマホで、僕たちの写真を撮ったらしい。
「お、お母さん!」
「なかなかよく撮れたわ。はい、じゃぁもういいから! いってらっしゃい!」
そのまま僕たちは玄関から押し出されると。
三藤先輩が続けて、なにかいおうとする前に。
大きな音でガシャッと、玄関の鍵がかかる音がした。
……少し陽の傾いた玄関先は、まだまだ暑さが強いけれど。
でも、先輩の顔が真っ赤なのは。
暑さのせいでないことくらい。
……さすがの僕でも理解した。
駅の反対側へと渡る踏切で、列車がとおり過ぎるのを待つ。
隣の三藤先輩は相変わらず、視線を下にしたままで。
家を出てから、ひとこともしゃべらない。
進入速度を下げた列車が、僕たちの目の前をゆっくりと通過する。
二両目の窓から、外を見ていた小さな女の子が。
三藤先輩の姿に、気がついて。
隣のおばあちゃんらしき人に、慌てて声をかける。
おばあちゃんがこちらを見て、目を細めたのがわかった。
小さな女の子は、キラキラと目を輝かせたままで。
見えなくなるまでずっと、窓に張り付いたままだった。
遮断機が、上がる。
「先輩の浴衣姿が、注目の的でしたよ」
でも返答は、特にない。
もしかして、余分なひとことだったのだろうか?
そんなことを考えながら、僕が歩き始めようとしたそのとき。
……小さな声が、耳に入ってきた。
「ん」
「ん?」
「ん」
「へ?」
「ん!」
顔を、踏切の先に向けたまま。
三藤先輩が、右手の小指だけを僕に差し出している。
「……包むのは、三本まででしたね」
「ん」
先輩は、もう一度短く答えると。
僕が包み込んだ小指に力を入れて、爪を僕の指に突き刺してくる。
「……注目の的に、ならなくていいの」
「へ?」
「海原くんが、見てくれればそれでいい……」
「え? いまなんて?」
声が、小さすぎて。
最後に聞こえた言葉が本当だったのか、自信がない。
「先輩、もう一度最後の部分を……」
「もぅ。そこ! 右に曲がって!」
さすがの、僕でも。
いまからのふたりのいき先は、とっくにわかっているのだけれど。
……僕たちの行く末は、まだわからなかった。
神社につき、鳥居の前に立つと。
三藤先輩はそっと、小指を抜く。
「会いにいくわよ、はい一礼」
浴衣姿で、丁寧にお辞儀する先輩のうしろ姿を。
僕はこの目に、しかと焼き付ける。
「この砂利、頑張ったわね」
「なんかこうやって歩くと、ちょっとだけ楽しいです」
「どうして?」
「お参りする人たちの道をつくった、みたいな?」
「なにそれ。そんな余裕なんてなかったでしょう?」
ようやく、三藤先輩が笑顔になって。
そしてこのとき、僕は初めて。
もし手元にスマホがあれば。この表情を写真に残せたのにな、と考えた。
……ふたりで、参道の途中にある、小さなお社のそばまでやってくる。
「こんにちは、原さん」
三藤先輩が、当然ここにいるのだろうと。驚くこともなく声をかけると。
「うむ」
原さんが、お社のうしろから、のんびりと現れた。
「お、おひさしぶりです」
「うむ」
「きょうは、あの犬はいないんですか?」
「もう、寝たわい」
昼寝にしては遅いけれど、そんなに年寄りの犬なのだろうか?_
「学校が始まるので、ご挨拶に伺いました」
「うむ、なかなかよき立居姿じゃ」
「あ、ありがとうございます」
三藤先輩が、照れながら返事をすると。
原さんが笑顔になる。
「して……。まぁええ。ふたりとも、まだまだ、じゃのう……」
原さんはひとりで質問しうようとして、ひとりで解決してしまったようだ。
「うむ、ご苦労じゃった。もう帰りなさい」
「ありがとうございました」
先輩が丁寧にお辞儀を始めたので、僕も慌ててそれに続いて、頭を下げる。
「海原くん、このままの体勢で。お社にもお祈りしましょう」
……なぜだかわからないけれど。
僕は先輩にいわれて、それに続く。
「では、帰りましょうか」
「へ? 本殿はいいんですか? あとあれ、原さんは?」
「きょうはこのまま、戻っていいそうよ」
そういうと、三藤先輩は。
なんだか原さんから、いい話しでも聞いたみたいで。
足取り軽く、鳥居に向かって歩き出した。
「……あぁ、原の婆さんじゃないか」
「おぉ宮司か、暇で散歩でもしとるのか?」
「そっちこそ、夏も終わるというのにまだおったんか。……ん? あの浴衣は、三藤さんと、隣のは……。もしかして『婿殿』か?」
「あれは……。海原昴じゃ」
「なに? 『婿殿』じゃないのか?」
「なにも答えんぞ」
「婆さん、もうええじゃろう。そろそろ、神社の跡取りを教えてくれんのか?」
「心配するな。あと数百年は、ここで暮らしてやる」
「おぉ、ということは……」
「跡継ぎが誰とはいわんがの。神社の心配だけは、無用じゃ」
「そうか……。ケチくさいが、ちょっとは安心したわい」
「ここはな、居心地がよい」
「そりゃぁまぁ、うれしいことじゃ」
「特に『今年』はな。ひさしぶりに大層、居心地がよかった」
「わしが宮司じゃ。当たり前よ」
「それは毎年のことじゃ。まだまだ励め」
「それも面倒じゃが、仕方ない。婆さん、また来年な」
「うむ」
……宮司になって、数十年。
原の婆さんのことは、親から聞いておったが。
わしなどあんな若いときに会ったことなど、なかったぞ。
「あの……。参道の途中にある、小さなお社で。原さんとおっしゃるかたと、たまたま出会いまして……。」
「……はぁ、それで?」
「この先で最初に出会うかたに、必ず伝言しろといわれまして……」
ワシが、本殿前を掃除していたら。
そういってきた女性がおっての。
なんでも次の日、お社にくるようにといわれて。
まさかと思って、半信半疑でいってみたら。
本当に原の婆さんがおっての、そりゃぁ驚いたわい。
「……その女性が、奥様なのですか?」
うむ、三藤さんは賢いのぅ。
まったく。
先代によればあの婆さんは、恋のなんとからしい。
ただ気まぐれな上に、自分が気に入った者にしか声をかけんので。
大々的に宣伝できんのじゃ……。
ほれ、最近はSNなんとかとか、あるじゃろ?
それで人気になれば、ドーンと大きな賽銭箱でも置いてやろうかと思ったが。
なかなかうまくいかんもんじゃ……。
なに? 生臭なんとか……じゃと?
それは『坊主』じゃ。
わたしは『宮司』じゃから違うじゃろ?
あとはな。響子《きょうこ》は小さい頃から、あの婆さんと気が合うのか。
境内のあちこちでよう話しとった。
周囲からすれば、気持ち悪いただの独り言にしか聞こえんから。
なんやかやと、えらく心配されたもんじゃ。
まぁ、ワシらは気にせんかったがな。
しっかし、原の婆さんは……。娘にはあんまり役に立たんのじゃないか?
だから三藤さん。あまり婆さんに期待すぎんでな。
もう一度いうがあれは、気まぐれな婆さんじゃ。
「……夏のあいだだけ、お社の扉を少しあけておくそうよ」
「どうしてですか?」
「原さんが、暑いからじゃないかしら?」
「え……。じゃぁやっぱり原さんって……」
「この先は、宮司さまとわたしの内緒話だから、お話ししません」
「ちょっと三藤先輩、もう少しだけ教えてくださいよ〜」
「ダメよ。わたし、口は堅いの知ってるでしょ?」
「そ、そんなぁ〜」
……鳥居から出る際は。
ふたりで揃って、いきよりも丁寧に一礼した。
「ねぇ海原くん」
「はい」
「きょうは、わたしの願いを聞いてくれて、ありがとう」
「い、いえ。こちらこそ貴重なものを……」
「そ、それでね?」
「ええ」
「今度は……。海原くんのプランで、どこかに出かけましょう……」
「えっ! そ、それって……」
「チ、チームワークのためよ!」
僕の話しをさえぎって、先輩は慌てたようすで早口になる。
「ぶ、部長と。ふ、ふ、副部長だから。なにかと理解し合わないと、ね?」
傾いた西日が、三藤先輩を照らすので。
その正確な表情が、わからなかった。
……もっとも、このときの僕に。
その表情が読みきれたのかは、自信がないけれど。
「じゃ、じゃあ先輩……」
「な、なにかしら?」
「いつか一緒に、いきましょう」
「えっ、えぇ……」
「乗ってみたい、『新型車両』があるんです!」
「は?」
「ほら。同じクラスにいる挙動不審の山川、覚えていますか? まぁ、まぁそれはさておき。そいつがですね……」
「ちょ、ちょっと……」
「乗り心地が違うんだって、夏休み前に何度も自慢されて……」
なぜか三藤先輩が、僕のシャツを裾を少しキツめに引っ張る。
「あのね、海原くん。わたしね、きょうお弁当作ったわよね?」
「はい」
「浴衣、着てあげたわよね?」
「え、ええ……」
「それで、そのお返しなのに。電車に乗りにいくだけなの?」
「し、新型車両なんですけど……。乗ってみたくないんですか?」
三藤先輩が、大きくため息をついたのがわかった。
……な、なんで?
「もういいわ……」
あきれた声で、そういうと。
先輩はもう一度。右手の小指を一本伸ばしてきて。
「これだけは、間違わないでもらえないかしら?」
そういって、家の前まで離さず歩けと、伝えてきた。
……わたしと、わたしたちの夏休みはこうして過ぎていった。
「来年も、原さんに会いに。またこちらにうかがいます」
「……ほう。誰とくるのか知らんけど。長生きする楽しみができそうじゃ」
わたしは、誰とくるかは予想がつく。
でも、いったいどんな関係で、会いにいけるのだろう?
……多分、原さんは。
その答えを、知っている。
海原昴。
あなたは来年、わたしと……。
……絆創膏の巻かれた、人差し指で。
枕元に置いた香水の小瓶を、そっとなでながら。
わたしはその晩。
この夏で一番の、幸せな眠りに落ちた。