裏切りパイロットは秘めた熱情愛をママと息子に解き放つ【極上の悪い男シリーズ】
プロローグ
この人誰?と和葉は思った。
机を挟んで向い合わせに座る男性は、姿形は最愛の人。将来を誓い合った婚約者だ。
でもその視線は見たことがないほど冷たく無表情で、まるで知らない人のようだった。
「婚約破棄に関する件は、こちらの弁護士さんが対応する。次からはこの方に連絡して。今後俺に直接連絡するのはやめてくれ」
そう言い放ち、自分の役割はここまでだというように、彼は和葉から目を逸らした。
彼の隣に座る見知らぬ男性が和葉に向かって名刺を差し出した。
「はじめまして、弁護士の藤堂(とうどう)と申します。橘遼一(たちばなりょういち)さんのあなたに対する婚約破棄の件を担当いたします」
感覚のない指先で名刺を受け取り、再び彼に視線を戻す。
やはり彼は目を合わせてくれなかった。
会ったら、聞きたいことがたくさんあった。
どうして電話に出てくれないの?
婚約破棄ってどういうこと?
そしたらきっと彼は冗談だよと答えるはず。少し怒って、あとは笑い話にできるはず……この弁護士事務所の応接室に入るまで、そう信じて疑わなかったのに。
「慰謝料は、寺坂さんの希望に沿うようにお支払いいたします。こちらからのお願いは、この件をSNS及びメディアに漏らさないことと、今後の遼一さんに対する直接の接触はしないこと」
机に差し出された書類に書かれている内容を、弁護士が事務的に読み上げる。
それを聞くうちに、和葉の胸に、もしかしてこれは現実なのかもしれないという考えが、じわりじわりと湧いてきた。
彼は本当に婚約破棄を望んでいる?
「……理由を……おしえていただけますか?」
カラカラに乾いた口を開いて掠れた声で問いかけると、弁護士が遼一を伺うように見た。
ほんの二週間くらい前まで、ふたりの関係には、なんの問題もなかった。これから始まる新生活と輝かしい未来を語り合う幸せな恋人同士そのものだったのに。
変わったのはふたりを取り巻く状況だ。
「もしかして、お父さんの件が関係してる?」
恐る恐る尋ねると、冷たい答えが返ってくる。
「どう考えてくれてもかまわない」
こんなのなにかの間違いだ。
彼はこんな人じゃない。
ガンガンと痛む頭の中で、もうひとりの自分が叫んでいる。
私たち、あんなに愛し合っていたのに。
すーっと血の気が引いていくのを感じながら、ふらりと和葉は立ち上がる。とにかくこの場から逃げたかった。
「わかりました」
頭を下げてふらふらと出口へ向かう和葉を追いかけてきたのは弁護士だ。先回りしてドアを開く。
「なるべく速やかにお返事いただけますと幸いです」
部屋を出る直前に振り返ると、虚ろな視線の先で、遼一は席についたまま窓の外を眺めていた。もうこの場所にはなんの興味もないようだ。
——最後まで、目も合わせてくれないの。
ドアが閉まるバタンという音を聞いた瞬間、真っ黒な闇に突き落とされていくような心地がした。