恋焦がれ
朝のショートホームルームが始まる十分前。割とギリギリなこの時間に登校することになってしまった理由はいうまでもなかった。
学校生活が始まってまだ二日だってのに、ガヤガヤと騒がしい教室に僕……いや、俺は足を踏み入れた。
窓際の席の一つ。俺はすぐそこへ目を向ける。
昨日話した菊田さんは、昨日と全く同じ姿勢で、少し微笑み目を細めて文字を眺めていた。
「おはよう」
「おはよう、菊田さん」
挨拶を交わし、俺は席についてリュックから筆箱やノートを取り出していく。
やっぱり、一人称を変えるのって慣れない。清水春樹はずっと僕だったし、俺だった頃はほとんど無かった。
一人称を変えたところで性格や見た目が変わるわけでもないだろうし、果たしてこんな気を遣ってまでやることなのか。
恵が言っていたからやってみたけど、やめるべきかな。
「何か悩んでるの?」
「え?」
他にやるべきことがあるんじゃないか……髪型を変えるとか。そんなことを考えていた時、不意をつかれたように隣から声がかかった。
菊田さんだ。
「うん、まあ。なんで分かったの?」
「だって清水くん、今すごく眉間に皺を寄せてる」
「え、マジ?」
「うん。マジ」
俺の手は自然と眉間に運ばれ、伸ばしたり縮めたりする意味があるかもわからないマッサージをする。
「なんか、そういうところを見られると恥ずかしいな」
「そう? いろんな表情があって素敵だと思うけど」
「……ありがとう」
菊田さんは俺との話が始まり、読んでいるページにしおりを挟んで本を閉じ、表紙や裏表紙をぼうっと眺めている。
せっかく菊田さんが僕と話をしてくれている。何か、話さないと。
あ、違う。俺。
「今日の朝、妹の恵がプレーンヨーグルトを朝ごはんにくれたんだ」
「へえ」
「ヨーグルトなんか滅多に食べないのになんであるのかって聞いたら、ぼ、俺にに似てるからって。全く失礼しちゃうよね」
「へえ、その妹さんと仲良くなりたい。シンパシーを感じるもの」
「妹と同じこと言ってる」
「ふふ、すごいわ。運命を感じるわね」
「はは、運命って」
菊田さんは僕の目をまっすぐと見つめ、いつもの綺麗で透き通った微笑みを俺に向けた。本格的に俺の話に集中してくれるようになったのか、本を机に置いて椅子ごとこちらを向いてくる。
その様子をみて俺は好きな子を楽しませることができた、と高揚し、また話し始めようとした。
「今度会ってみようか、きっと恵なら——」
「ねえ、少しいいかしら」
「うん、何?」
「さっき、清水くん、自分のこと俺って言ったわよね。しかも、言い直して」
「ああ、うん。気づいた?」
「勿論」
気づかれてしまった。一人称を俺に変えたこと、おかしいって思ってないかな。気持ち悪いって、思われてたらどうしよう。
ふふっ。
菊田さんは顔を少し揺らして顔を綻ばせる。
ちょうど雲に隠れていた陽の光が雲から抜け出して、菊田さんをより一層煌めかせた。
「俺の清水くんもいいけど、私としては僕の清水くんの方が好き。何だかそっちの方が清水くんっぽいもの」
「え、そう? じゃあやめようかな」
「私としてはそうしてくれた方が嬉しいわ。それで、なんで一人称を変えようと思ったの?」
「ああ……」
「言いたくないなら無理にいう必要なないわよ」
「……妹に、もう少し男らしくしたらって」
「ふふ、面白い妹さんね」
「そうかなあ」
「ええ。でも、無理に一人称を変えるのは良くないらしいわよ。どの小説かは忘れたけど、小説の中のセリフにあったわ。一人称を偽ると、本当の自分に殻を被せてしまって、本当のことを人に言わなくなってしまうって」
「そうなんだ」
僕は菊田さんが引いていないことに安堵する。いや、心中は引いている可能性もあるけど。
でも菊田さんはそんなことで人に幻滅するような人間じゃない。
だって菊田さんは優しくて、聡明だから。
僕は学校生活が始まってまだ二日だってのに、菊田さんのことを分かった風にそう思った。
話にひと段落ついてまた本の世界に戻る菊田さんを横目に見て、僕は嫌われていないことに安堵するのだった。