永遠の終わりに花束を
PROLOGUE
朝のひかりの中で彼と出会った。
柔らかに薫る澄んだ風が頬を撫で去ってゆく。
最初に目が合った時、その透き通った琥珀の瞳を春だと思った。情けなく彼の腕に抱き留められた体が軽々と宙に浮き、きっと、そのまま私の心もぽっかりと春に浮かんだ。気まぐれな風に揺れる風船みたいに。
「――あ、っぶねえ」
足元に転がってきた黄緑色のテニスボールを拾い上げようとして、間抜けにぽきりと折れた低めのヒール。地面に転がったそれを茫然と見下ろす私に、「大丈夫ですか?」と声を掛けてもらった不恰好なはじまり。
「う、わ、ごめっ、ごめんなさい…!」
「足挫かなかったですか?」
「え?あ、足は、全然大丈夫そう、ですかね?」
「なら良かった」
大慌てで地面に足を着けた。
そんな私に、彼は爽やかな笑みを向けてくれる。
この時、遅ればせながらようやく彼の顔立ちの全体像を把握すると、大層綺麗な顔をしていたから再び驚いてしまって声が上擦った。その足元には黒と白の毛並みが美しい、賢そうな顔のボーダーコリーが一匹、血色のいい赤い舌を出しながら私を見上げていた。
麗しい薄紅の花びらを散らしたあとの瑞々しい新緑の季節。都内でも有数の規模を誇るこの公園には、さまざまな人々の楽しげな声が響いている。
そのささやかな喧騒から一歩遠退くような心地がしたのは、妙な錯覚に過ぎない。たおやかな午前中の太陽が雨上がりの公園を照らす。昨日の夜に降った雨の名残りで湿った土の地面から、新しい命の匂いがした。
「あ、でもヒール折れちゃってますね」
「ほんとだ、どうしよう…」
「家はこのご近所ですか?もし必要ならこのまま力づくでヒール取っちゃいますけど、どっちのが歩きやすそうですか?」
それは、どっちのほうがいいんだろう?
軽やかに親切を手渡してくれる彼に遠慮する隙もなく、とりあえずベンチ座ってくださいと片腕を支えられるがまま、さっきまで座っていた木製のベンチに腰を下ろした。そんな私の足元に、彼がしゃがみ込む。
「んー、接着剤でくっつけんのも厳しそうだな」
「あの、そのままで大丈夫です…」
「でもこのまま歩けます?」
「……ヒールを折り切ってもらえたら」
「はは、了解です」
それでは遠慮なく、と踵の部分を豪快に掴んだ彼がヒールを本体から取り外してくれる。その時にボキリと結構すごい音がして、私たちは思わず顔を見合わせた。
「…これ、今踵ごと取れた?」
「いや、まさかそんなことはさすがに…」
「あ!あるわ、ちゃんと踵部分にも布あります」
「良かったぁー…」
これで無事に帰れます!と無残にヒールを失ったパンプスを足元に置いてもらい、足を入れた。左右で高さの違う視界は少し慣れないけど、家まで数分の辛抱だ。足を挫かなくて本当に良かった。
身長差のおかげで随分と上のほうにある彼の顔を見上げて、私はお礼を告げた。彼のおかげで怪我をせずに済んだし、大の大人が泣きながら裸足で帰るような無様な展開も回避できた。これは不幸中の幸いである。
「あの、本当にありがとうございました」
「困った時はお互い様ですから」
「わんちゃんのお散歩中でしたよね?お邪魔してしまってすみませんでした」
「いえいえ、そんなお気になさらず」
では俺はこれで、とお利口に主人の会話が終わるのを座って待っていた彼の愛犬が、最後に私の足元でぐるりと軽く一蹴して見せてから、軽やかに歩きはじめる。親切な彼は小さく私に向けて会釈をしたあと、愛犬のペースに合わせるように、早足に去っていった。
――これは、瑣末なある春のこと。
永遠の終わりの幕が上がった、はじまりの物語。
柔らかに薫る澄んだ風が頬を撫で去ってゆく。
最初に目が合った時、その透き通った琥珀の瞳を春だと思った。情けなく彼の腕に抱き留められた体が軽々と宙に浮き、きっと、そのまま私の心もぽっかりと春に浮かんだ。気まぐれな風に揺れる風船みたいに。
「――あ、っぶねえ」
足元に転がってきた黄緑色のテニスボールを拾い上げようとして、間抜けにぽきりと折れた低めのヒール。地面に転がったそれを茫然と見下ろす私に、「大丈夫ですか?」と声を掛けてもらった不恰好なはじまり。
「う、わ、ごめっ、ごめんなさい…!」
「足挫かなかったですか?」
「え?あ、足は、全然大丈夫そう、ですかね?」
「なら良かった」
大慌てで地面に足を着けた。
そんな私に、彼は爽やかな笑みを向けてくれる。
この時、遅ればせながらようやく彼の顔立ちの全体像を把握すると、大層綺麗な顔をしていたから再び驚いてしまって声が上擦った。その足元には黒と白の毛並みが美しい、賢そうな顔のボーダーコリーが一匹、血色のいい赤い舌を出しながら私を見上げていた。
麗しい薄紅の花びらを散らしたあとの瑞々しい新緑の季節。都内でも有数の規模を誇るこの公園には、さまざまな人々の楽しげな声が響いている。
そのささやかな喧騒から一歩遠退くような心地がしたのは、妙な錯覚に過ぎない。たおやかな午前中の太陽が雨上がりの公園を照らす。昨日の夜に降った雨の名残りで湿った土の地面から、新しい命の匂いがした。
「あ、でもヒール折れちゃってますね」
「ほんとだ、どうしよう…」
「家はこのご近所ですか?もし必要ならこのまま力づくでヒール取っちゃいますけど、どっちのが歩きやすそうですか?」
それは、どっちのほうがいいんだろう?
軽やかに親切を手渡してくれる彼に遠慮する隙もなく、とりあえずベンチ座ってくださいと片腕を支えられるがまま、さっきまで座っていた木製のベンチに腰を下ろした。そんな私の足元に、彼がしゃがみ込む。
「んー、接着剤でくっつけんのも厳しそうだな」
「あの、そのままで大丈夫です…」
「でもこのまま歩けます?」
「……ヒールを折り切ってもらえたら」
「はは、了解です」
それでは遠慮なく、と踵の部分を豪快に掴んだ彼がヒールを本体から取り外してくれる。その時にボキリと結構すごい音がして、私たちは思わず顔を見合わせた。
「…これ、今踵ごと取れた?」
「いや、まさかそんなことはさすがに…」
「あ!あるわ、ちゃんと踵部分にも布あります」
「良かったぁー…」
これで無事に帰れます!と無残にヒールを失ったパンプスを足元に置いてもらい、足を入れた。左右で高さの違う視界は少し慣れないけど、家まで数分の辛抱だ。足を挫かなくて本当に良かった。
身長差のおかげで随分と上のほうにある彼の顔を見上げて、私はお礼を告げた。彼のおかげで怪我をせずに済んだし、大の大人が泣きながら裸足で帰るような無様な展開も回避できた。これは不幸中の幸いである。
「あの、本当にありがとうございました」
「困った時はお互い様ですから」
「わんちゃんのお散歩中でしたよね?お邪魔してしまってすみませんでした」
「いえいえ、そんなお気になさらず」
では俺はこれで、とお利口に主人の会話が終わるのを座って待っていた彼の愛犬が、最後に私の足元でぐるりと軽く一蹴して見せてから、軽やかに歩きはじめる。親切な彼は小さく私に向けて会釈をしたあと、愛犬のペースに合わせるように、早足に去っていった。
――これは、瑣末なある春のこと。
永遠の終わりの幕が上がった、はじまりの物語。