永遠の終わりに花束を
#01 陽だまりの春はあなた
あの日から一週間が過ぎた。
今、何故か私はまたあの親切な彼と一緒にいる。
気持ちよく晴れた土曜日の朝、赤いハーネスを装着した白黒模様のボーダーコリーが、件のベンチに座って本を読んでいた私を見つけた途端に駆け寄ってきて、毛並みのいい尻尾をふわふわと愛嬌たっぷりに振る。まさかの再会にびっくりして顔を上げた私に、彼の主は「奇遇ですね」と困った顔をして笑った。
「よく来るんですか、ここ」
「最近引っ越してきてからは基本毎日通ってて」
「それ、外で読むとはかどります?」
「気分転換にはいいですね」
最近近くに引っ越してきたばかりの私は、仕事も在宅勤務で引きこもりがちなので、ほぼ毎日この公園に通い詰めており、そう考えれば彼との再会は必然的でもある。
「俺もここがアルの散歩コースなので基本的に毎日通るんですけど、平日は仕事あるんでもう少し早めの時間に」
「わんちゃんアルって名前なんですか?」
「本名はアルバートですけど、まあ、長いんで」
「アルバート!名前から賢そう!」
少し触ってみてもいいですか?と許可を取る私に快く頷いてくれる親切な彼こと滝沢直樹も、この近くに住んでおり、普段から愛犬の散歩コースとしてこの公園を利用しているのだということをこの数分の間に知った。
井の頭公園から程近い吉祥寺の低層マンションに部屋を借り、住み始めてから二週間。不慣れなひとりでの暮らしにも、馴染みのないこの街の風景にもほんの少しだけ慣れてきた。
実の父親が代表を務める会社の総務部に名ばかりの籍を置く私は、あまり仕事らしい仕事もしていない。これまで三十年あまりの人生の間で一度も実家を出たこともなく、世間知らずな箱入り娘として過ごしてきた自覚はあって。けれど一大決心をしてひとり暮らしをはじめても、唐突に何かが変わるわけでもない。
「実は、まだこの辺りに越してきたばかりで…」
「俺も東京に来てまだ二年とかですよ」
「滝沢さんは元々東京の方じゃないんですか?」
「一応生まれたのは東京の病院なんですけど、餓鬼の頃から海外のが長かったんで祖国って感じはしないですね」
アルの目の前にしゃがみ込んでもふもふと豊かな毛並みに埋もれる私を見下ろしながら、滝沢は他愛ない会話を続けてくれる。
「ならどちらのお国におられたんですか?」
「ドイツですね、母の故郷なので」
「ならハーフさんですか?」
「いえ、母親が日本とドイツのハーフだったんで俺はクオーターですね」
「どおりで、瞳の色が少し…」
「気付きました?アンバーは結構希少種です」
茶目っ気を交えながら滝沢は自分の右側の目を指差して見せる。薄っすらと黄色味がかった褐色の虹彩は、日本人のDNAにはまず組み込まれていないだろう美しい色をしていて、思わず不躾にも見惚れてしまう。
「さて、柚原さんの読書の邪魔しすぎて嫌われると困るからそろそろ行くか」
「え、あ、そんな、私こそ無駄なお喋りを…!」
「アルは喜んでましたけどね」
普段男所帯で綺麗な女性に遊んでもらえる機会もないので。軽々とそんなお世辞を言ってのける滝沢は、甘えた子供のように抱き着いてくるアルを片腕で受け止めながら笑うので、不慣れな私は無駄にどきまぎする。
「ちなみにそれ、何読んでるんですか?」
「あ、えっと、長いお別れ…」
「チャンドラーですね」
俺も好きです、と軽やかに告げて。
まだ名残り惜しそうなアルのリードを引っ張る。
しかし賢い彼が飼い主の言うことには逆らうことはなく、くぅんと寂しげな泣き声だけ残して、滝沢の隣を歩き出した。私は去ってゆくふたりの背中を見つめながら、彼らとの再会がまた起こることを心の隅で期待する。
――明日も、また会えるといいな。
お利口な可愛い彼と、その素敵な飼い主さんに。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
仰々しい門構えの大きな邸宅。
私はその前で、ひっそりとため息をこぼした。
数年前、代々受け継がれている土地の上に母屋を建て直した実家の敷居を二週間ぶりに跨ぐ。随分早い帰省だよなあ、と自分でも呆れてしまうけど仕方がない。
「佳乃、おかえりなさい」
「さすがに帰ってき過ぎじゃない?」
「なに言ってるんだ、そういう約束だったろう」
わざわざ玄関先まで出迎えてくれる両親に苦笑いをこぼしながら、二週間に一度は必ず実家に戻るという、過保護すぎる条件で許可された初めてのひとり暮らしの顛末を思い返す。
去年の冬、色々と勢いあまり過ぎた私が人生最大級のわがままを貫き通したうえに、実家を出て自立すると宣言したことに頭を痛めた両親が妥協案として『父の手配した家に住むこと』と『二週間に一度は必ず実家に戻ること』の二点だった。箱入り娘の遅すぎる反抗期に、父も母も頭を抱えていたけど、今回ばかりはどうしても、私も後には引けなかったのだ。
「佳乃、あの件はちゃんと考えてくれたか?」
夕食の席で、憂鬱な話が幕を開ける。
優しい父を困らせるのは、いつだって忍びない。
東洋ガラスという日本最大手のガラスメーカーの四代目である父・浩一郎は、江戸時代から続く柚原家の由緒正しい血を引く正当な後継者だ。紡織業から財を成し、今の硝子産業へと手を広げた柚原家は、グループ企業の従業員を合わせれば1万人規模の巨大な組織を運営しており、昨今の経営は順調だ。
――しかし、だ。
「もう熊谷さんのほうからの了承は得てるんだ」
今、柚原家の抱えている最も深刻な問題は何かと問われれば、関係者全員が口を揃えて『後継者の不在』を叫ぶだろう。ひとり娘の私は幼い頃から良家の婿を取ることを前提として育てられ、当然経営のことなど学んだこともない。それなのに三十を過ぎた今に至るまで、結局私は誰とも婚姻を結べずにいるのだ。
「まず会うだけでも会ってみないか?」
「…それは、もちろん、そうするつもりだけど」
「佳乃は会ったことはなかったかな?熊谷さんのご子息は大変優秀だと有名でね、確かイギリスの大学を卒業されて、今は財務省にお勤めだから財務関係にも強くて――」
会ったこともない誰かの無機質な情報だけが耳を素通りしてゆく。どこの家に生まれて、どこの大学を出て、どこに今はお勤めで――そんなことを知ったところで、私には永遠の誓い方なんてわからないのに。
今からもう十年近くも前、最初の婚約者が事故で亡くなった。日本最大手の自動車メーカーの関連会社を運営する家系に生まれ、頭脳明晰で運動神経も抜群、加えて性格まで誠実で優しい完璧なその人――豊川巳影とは幼馴染みで、初恋だった。
幼い頃から何度も何度も告白するたび、歳の差を理由に断られ続けた私が、これでダメだったら諦めようと二十歳になった夜に決死の覚悟で最後の告白をした時、困った顔で笑った彼が、『これで終わるのは嫌だな』って項垂れるみたいに呟いたあの瞬間以上のものなんて、この先出会えるとも思えなくて。
彼が亡くなったあと、私は仲の良かった彼の弟の夕鷹と形ばかりの婚姻を結んだ。だが長男だった巳影を失った豊川家も、唯一の後継者となった夕鷹を婿に出すわけにはいかなくなった。
だから私と夕鷹の間に出来た子供を柚原の家の養子として、次期後継者に据えよう。それまでは父の浩一郎が代表を務めたまま、もし何かあったら一時的に分家筋を頼り、でも最終的には柚原家の正当な嫡男が後継となるように――そんな打算も今は砕けた。
この冬、正式に私は夕鷹との婚約を破棄した。
夕鷹には他に好きな人がいて、本当の弟のように大好きな彼の恋を、私なんかために奪ってしまうのはあまりに申し訳なくて。
こんな時代遅れの因習に囚われるのは私ひとりで十分だ。血筋なんてものに、ここまでするほどの意味があるのかなんてわからない。
けれどこの閉塞的で悲しい箱庭のような世界しか私は知らないから、ここ以外の場所で、ひとりで生きてゆく術もない。誰かを頼って生きることしか能のない無能で愚かな自分が、今さら何よりも呪わしかった。
『憐れな子よねえ、次々に男に捨てられて』
――柚原の台所は、今も女の聖域だ。
親戚筋の集まりに参加するたびその下卑た聖域で交わされる噂話の中心には必ず私がいて、そこで語られる自分の肖像は、どうしようもなく憐れな姿をしていた。
『あの器量で三十過ぎまで婿も取れないなんて絶対なにかしら欠陥があるのよ』『結局親が親なら子も子ってことかしらね』『豊川のとこの次男坊だって結局は余所に女作って佳乃のことあっさり捨てたんでしょ?』『だからどこの馬の骨とも知れない女の血なんか入れちゃダメなのよ』『柚原の面汚しだわ、浩一郎さんも』『最初の婚約者が死んでその弟にまで裏切られるなんて、ほんと縁起の悪い娘よねえ』
憐れで縁起の悪い娘でも、柚原の家のためには良家の婿を取らなければならない。もう今は自由で多彩な令和の世だというのに、私の背負う責務は悲しいほど前時代的だ。
「きちんと考えて、お返事します」
いつまでも前進しない私の返答を両親すら歯痒く思っていることも、わかってる。他に選択肢などあるわけもないのだから、少しでも若さの残っているうちに婿を取らなければ――次の私の責務は子を成すことだ。
それでも、どうしても思ってしまう。
こんな地獄に何を産み落とせばいいのだろうと。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
「もう常連ですね、柚原さん」
三度目の遭遇は、もう驚かなかった。
昨日ぶりの再会をアルが愛想よく喜んでくれる。
もう慣れたのか、私の膝のあたりにぴょんっと前足を掛けるようにアルは飛びつき、「あ、こら!柚原さんの服汚れんだろ!」と滝沢が慌てて胴に繋がれたリードを引く。
「あはは、服なんか全然大丈夫ですよ」
「そうは言っても、そんな綺麗な服汚したら…」
「滝沢さんは甘いものお好きですか?」
「え?」
きょとんとしたように薄く黄色味がかった琥珀の瞳を転瞬させた滝沢に、私は持ってきていた紙袋を掲げて見せる。
「昨日母親がくれたんです」
「わざわざ持ってきてくれたんですか?」
「またおふたりに会えたらこの前助けてもらったお礼にお裾分けしようと思って」
「別に礼なんか気にしなくていいのに」
「いえ、ただの洋菓子で申し訳ないんですけど」
「ちなみに甘いものは好物です」
爽やかに笑った滝沢は、私が紙袋から取り出した洋菓子の箱を開けようとしたところ、「ちょっとアル見ててもらっていいですか?」とリードを手渡してくるので今度は私がきょとんとする番だ。
しかし、特にそれきりなにも言わずに歩き去っていった滝沢の背中を取り残されたアルと一緒に見送りながら、「飼い主さん行っちゃったね?」と利口な犬に話し掛けると、アルは特に不安げな様子もなく、私を真っすぐに見つめてパタパタ尻尾を振ってくる。
「なんかすげえ懐かれましたね?」
「私、昔から子供と動物には結構好かれる質で」
「ブラックとカフェオレどっちがいいですか?」
「買って来てくれたんですか?」
軽々とベンチに飛び乗ったアルが私の膝に甘えた仕草で顎を乗せてくる。そこにちょうど戻ってきた滝沢の手には、ふたつの紙のコーヒーカップが握られていた。
「ありがとうございます!」
「俺、どっちも飲めるんでお好きなほうどうぞ」
「それじゃあブレンドいただけますか?」
「砂糖とミルクは?」
「あ、入れなくて大丈夫です」
昔からコーヒーはブラックで飲むのが好きだ。
アルにベンチを占領されているおかげで座る場所がない滝沢は、「飼い主を差し置いて図々しいやつだな」と文句を言って笑う。そして立ったままでマグに口を付け、私が差し出した箱の中からプレーンなパウンドケーキを選び取る。
すると今まで私の膝の上でのんびりと怠惰を満喫していたアルが急に起き出してきて、軽々とベンチを飛び降りたかと思えば、滝沢を見上げて思い切り尻尾を振り回すので笑ってしまう。
これには滝沢も「現金な奴だな」と苦笑しながら愛犬をツンと無視し、入れ替わるように私の横に腰を下ろした。甘いお菓子を前に目の色を変えたアルはそれでもめげずに、くぅんと鼻を鳴らして物乞いする。
ない。
「あ、冷めちゃうんで早く飲んでくださいね」
「それでは遠慮なく、いただきます」
「アルはダメだって」
私と滝沢が話していると、アルが小さく吠えた。
それに滝沢が窘めるような視線を送る。
だが普段から散々甘やかされ慣れているのだろう幸せな牧羊犬は、滝沢の指示をあえて無視し、主人の膝の上に飛び乗った。うわ、と滝沢が小さく呻きを漏らす。
「毎日どれくらいお散歩するんですか?」
「若い頃は朝晩1時間ずつだったんですけど、最近は朝の一時間と夜に家の周りちょろっと回って用足すぐらいですね」
「え、アルって今でおいくつですか?」
「もう今年で11歳ですね、結構なジジイです」
「まだ子供かと思ってました!」
毛並みもつやつやで瞳も綺麗なのに!
こんなに若々しいのに、もうご老犬だなんて。
一緒に並んで焼き菓子を食べながら、相変わらず取りに足らない話をする。滝沢の足元ではまだアルがお菓子を虎視眈々と狙っていて、やっぱり子供みたいだ。
「ほんとこれまでデカい病気もケガもなく未だに食欲も旺盛だし、全盛期に比べれば運動量は少し落ちてきましたけど、それでもこの歳までこんな元気でありがたい限りです」
「そうですよね、健康が一番ですよね」
「柚原さんもなんか動物とか飼ってるんですか」
「私は全然動物とかは…」
大好きだけど、今まで飼ったことはない。
子供の頃には犬や猫を飼いたいと両親に強請ったこともあったけど。でも、お家にゲストを呼んでホームパーティーをすることも多かったから、アレルギーのある方がお越しになられた時に動物がいたら困るのだと両親に言われて、結局は諦めるほかなかった。
「あれ、でも今はひとり暮らしなんじゃ?」
「え?そうですね、今はひとりで…」
「ならもう飼えますね」
ひとり暮らしの特権じゃないですか、自由って。
最後のひと口となったパインドケーキをポイっと口の中に投げ込んで、滝沢が屈託なく笑う。その白い頬の上で、春の朝のひかりがころころと無邪気に転がった。
「癒されますよ、仕事から疲れて帰って可愛い相棒に出迎えてもらえると、まじで疲労も吹っ飛ぶんでおすすめです」
「あ、でも、私は在宅で…」
「なら余計に世話したい放題じゃないですか」
在宅とか羨ましいな、と呟きながら紙のカップを傾けてコーヒーを啜る。その間も慣れ親しんだ仕草でアルの頬を撫でる滝沢は、とても愛情深いひとに見えた。
青葉がさあっと音を立てて揺れる。
仕事で疲れたことがないなんてとても言えない。
こういう時、自分が大人としてすごく恥ずかしい人間なのだと気付いてしまう。私の自由はただのまがいもので、今もこの足首に嵌められた鎖は窮屈な箱庭の内側と繋がったままだ。
嫁入り前のほんの僅かな間みだけ許された執行猶予が、今だ。ちゃんとわかってる。優しい両親が私の最後のわがままを叶えるために、心無い声に耳を塞ぎ、冷ややかな視線には気付かないふりをしてくれている。
「――柚原さん?」
自分を呼ぶ滝沢の声にハッとした。
琥珀色の瞳が私を不思議そうに見つめている。
何故か手が震えた。途轍もなく純度の高い寂寥が心の内側で弱々しく灯り、不意に泣きたくなった私はへらりと笑う。
「ごめんなさい、なんでしたっけ?」
どこか遠くで、転んだ子供の泣き出す声がした。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
静かなクラシックが耳に優しい。
白を基調にした店内は清潔感があって素敵だ。
天井から吊るされた煌びやかなシャンデリアがピカピカに磨かれたカトラリーに映る。春野菜をふんだんに使った前菜にフォークを入れながら、大学時代からの友人である春見柑菜は、意地の悪い笑みを浮かべた。
「で、お婿さん候補はどんな男なのよ?」
「…わかんないよ、まだ会ってないもん」
「でもその男に関する情報は聞いたんでしょ?」
「まあ……帝和ケミカルって柑菜の会社とは系列会社だよね?そこの創業者一族の家系で、そこの現社長がお相手のお父様。でも跡を継がれるのはお兄さんだから、その人はイギリスのロースクールを卒業したあと財務省に入省されて、今は主計局主査だって」
目黒にある人気のレストランの予約が取れたのが嬉しくて柑菜を誘ったら、日曜の夜かーとお酒があまり飲めないことを少し残念そうにしながらも付き合ってくれることになった。
そこで昨日の実家でのあれこれについて少し柑菜に愚痴ったら、面白がるように縁談相手のことを根掘り葉掘り聞かれて座りが悪い。お相手のことはまだ何も知らないし、縁談がちゃんと進むかもわからないのに。
「え、なに、てことは財閥御曹司?」
「…元々の血縁を辿れば、まあ、そうかな」
「うわ、ほんと韓ドラかよ。絶対ソイツ記憶喪失になるわよ、12話目ぐらいで」
色鮮やかな前菜を口に運びながら柑菜が辟易したように呟いた。私はそれに苦笑して、白ワインのグラスに口を付ける。旧財閥系企業である帝和グループの中でも、素材系商材を専門に扱う帝和ケミカルは、グループ内の企業規模では五指に入るほどの大企業だ。
「でもまだ気に入ってもらえるかわからないし」
「そういうレベルの話なわけ、それって」
「…選択権はまだあると信じたい」
「ていうか主計局主査って確か財務省では別格のポストよ、そのぐらいの年次なら出世街道の最短ルート。それ捨てて柚原の婿に入るってことは経営したかったのかな?」
他省庁の会計課長と対等に話しができるような役職じゃなかったかな?と記憶を辿るように柑菜が眉を顰めた。柑菜は大学卒業後、帝和財閥系の流れを汲む総合商社に就職しているが、彼女のお父様は今も外務省に勤めるお役人さんなので、官吏系の役職のことなんかにも色々と精通しているのだろう。
「まあでも財務省で出世ルート爆走してるんなら優秀なのは間違いないだろうし、家格だって釣り合ってるし、結構悪くないかもね。案外サクッと結婚しちゃったりして」
「…でも、まだ会ったこともないのに」
「まあそれはそうだよね」
その先を、柑菜は優しいから言わない。
私の人生の工程表は結婚を前提に組まれている。
この先ひとりで生きていけるわけもない私の人生には、それ以外の選択肢がない。それなら早めに条件のいい相手を見つけて結婚してしまったほうが両親だって安心してくれて、親戚から嫌味も言われずに済む。
そんなの、ちゃんとわかってる。
頭では全部わかってて、でも、まだ心が――、
『なんで俺なんかがいいの?』
そう言って困ったように微笑む彼の面影が今も心に棲み付いたまま。ただ、好きだった。無鉄砲な代わりにひたむきに、幼い頃から夢中で彼のことばかり目で追って。
誇れるものなんて、なにも持たない私の人生で。
彼に恋をしていた瞬間だけが唯一光輝いていた。
今、何故か私はまたあの親切な彼と一緒にいる。
気持ちよく晴れた土曜日の朝、赤いハーネスを装着した白黒模様のボーダーコリーが、件のベンチに座って本を読んでいた私を見つけた途端に駆け寄ってきて、毛並みのいい尻尾をふわふわと愛嬌たっぷりに振る。まさかの再会にびっくりして顔を上げた私に、彼の主は「奇遇ですね」と困った顔をして笑った。
「よく来るんですか、ここ」
「最近引っ越してきてからは基本毎日通ってて」
「それ、外で読むとはかどります?」
「気分転換にはいいですね」
最近近くに引っ越してきたばかりの私は、仕事も在宅勤務で引きこもりがちなので、ほぼ毎日この公園に通い詰めており、そう考えれば彼との再会は必然的でもある。
「俺もここがアルの散歩コースなので基本的に毎日通るんですけど、平日は仕事あるんでもう少し早めの時間に」
「わんちゃんアルって名前なんですか?」
「本名はアルバートですけど、まあ、長いんで」
「アルバート!名前から賢そう!」
少し触ってみてもいいですか?と許可を取る私に快く頷いてくれる親切な彼こと滝沢直樹も、この近くに住んでおり、普段から愛犬の散歩コースとしてこの公園を利用しているのだということをこの数分の間に知った。
井の頭公園から程近い吉祥寺の低層マンションに部屋を借り、住み始めてから二週間。不慣れなひとりでの暮らしにも、馴染みのないこの街の風景にもほんの少しだけ慣れてきた。
実の父親が代表を務める会社の総務部に名ばかりの籍を置く私は、あまり仕事らしい仕事もしていない。これまで三十年あまりの人生の間で一度も実家を出たこともなく、世間知らずな箱入り娘として過ごしてきた自覚はあって。けれど一大決心をしてひとり暮らしをはじめても、唐突に何かが変わるわけでもない。
「実は、まだこの辺りに越してきたばかりで…」
「俺も東京に来てまだ二年とかですよ」
「滝沢さんは元々東京の方じゃないんですか?」
「一応生まれたのは東京の病院なんですけど、餓鬼の頃から海外のが長かったんで祖国って感じはしないですね」
アルの目の前にしゃがみ込んでもふもふと豊かな毛並みに埋もれる私を見下ろしながら、滝沢は他愛ない会話を続けてくれる。
「ならどちらのお国におられたんですか?」
「ドイツですね、母の故郷なので」
「ならハーフさんですか?」
「いえ、母親が日本とドイツのハーフだったんで俺はクオーターですね」
「どおりで、瞳の色が少し…」
「気付きました?アンバーは結構希少種です」
茶目っ気を交えながら滝沢は自分の右側の目を指差して見せる。薄っすらと黄色味がかった褐色の虹彩は、日本人のDNAにはまず組み込まれていないだろう美しい色をしていて、思わず不躾にも見惚れてしまう。
「さて、柚原さんの読書の邪魔しすぎて嫌われると困るからそろそろ行くか」
「え、あ、そんな、私こそ無駄なお喋りを…!」
「アルは喜んでましたけどね」
普段男所帯で綺麗な女性に遊んでもらえる機会もないので。軽々とそんなお世辞を言ってのける滝沢は、甘えた子供のように抱き着いてくるアルを片腕で受け止めながら笑うので、不慣れな私は無駄にどきまぎする。
「ちなみにそれ、何読んでるんですか?」
「あ、えっと、長いお別れ…」
「チャンドラーですね」
俺も好きです、と軽やかに告げて。
まだ名残り惜しそうなアルのリードを引っ張る。
しかし賢い彼が飼い主の言うことには逆らうことはなく、くぅんと寂しげな泣き声だけ残して、滝沢の隣を歩き出した。私は去ってゆくふたりの背中を見つめながら、彼らとの再会がまた起こることを心の隅で期待する。
――明日も、また会えるといいな。
お利口な可愛い彼と、その素敵な飼い主さんに。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
仰々しい門構えの大きな邸宅。
私はその前で、ひっそりとため息をこぼした。
数年前、代々受け継がれている土地の上に母屋を建て直した実家の敷居を二週間ぶりに跨ぐ。随分早い帰省だよなあ、と自分でも呆れてしまうけど仕方がない。
「佳乃、おかえりなさい」
「さすがに帰ってき過ぎじゃない?」
「なに言ってるんだ、そういう約束だったろう」
わざわざ玄関先まで出迎えてくれる両親に苦笑いをこぼしながら、二週間に一度は必ず実家に戻るという、過保護すぎる条件で許可された初めてのひとり暮らしの顛末を思い返す。
去年の冬、色々と勢いあまり過ぎた私が人生最大級のわがままを貫き通したうえに、実家を出て自立すると宣言したことに頭を痛めた両親が妥協案として『父の手配した家に住むこと』と『二週間に一度は必ず実家に戻ること』の二点だった。箱入り娘の遅すぎる反抗期に、父も母も頭を抱えていたけど、今回ばかりはどうしても、私も後には引けなかったのだ。
「佳乃、あの件はちゃんと考えてくれたか?」
夕食の席で、憂鬱な話が幕を開ける。
優しい父を困らせるのは、いつだって忍びない。
東洋ガラスという日本最大手のガラスメーカーの四代目である父・浩一郎は、江戸時代から続く柚原家の由緒正しい血を引く正当な後継者だ。紡織業から財を成し、今の硝子産業へと手を広げた柚原家は、グループ企業の従業員を合わせれば1万人規模の巨大な組織を運営しており、昨今の経営は順調だ。
――しかし、だ。
「もう熊谷さんのほうからの了承は得てるんだ」
今、柚原家の抱えている最も深刻な問題は何かと問われれば、関係者全員が口を揃えて『後継者の不在』を叫ぶだろう。ひとり娘の私は幼い頃から良家の婿を取ることを前提として育てられ、当然経営のことなど学んだこともない。それなのに三十を過ぎた今に至るまで、結局私は誰とも婚姻を結べずにいるのだ。
「まず会うだけでも会ってみないか?」
「…それは、もちろん、そうするつもりだけど」
「佳乃は会ったことはなかったかな?熊谷さんのご子息は大変優秀だと有名でね、確かイギリスの大学を卒業されて、今は財務省にお勤めだから財務関係にも強くて――」
会ったこともない誰かの無機質な情報だけが耳を素通りしてゆく。どこの家に生まれて、どこの大学を出て、どこに今はお勤めで――そんなことを知ったところで、私には永遠の誓い方なんてわからないのに。
今からもう十年近くも前、最初の婚約者が事故で亡くなった。日本最大手の自動車メーカーの関連会社を運営する家系に生まれ、頭脳明晰で運動神経も抜群、加えて性格まで誠実で優しい完璧なその人――豊川巳影とは幼馴染みで、初恋だった。
幼い頃から何度も何度も告白するたび、歳の差を理由に断られ続けた私が、これでダメだったら諦めようと二十歳になった夜に決死の覚悟で最後の告白をした時、困った顔で笑った彼が、『これで終わるのは嫌だな』って項垂れるみたいに呟いたあの瞬間以上のものなんて、この先出会えるとも思えなくて。
彼が亡くなったあと、私は仲の良かった彼の弟の夕鷹と形ばかりの婚姻を結んだ。だが長男だった巳影を失った豊川家も、唯一の後継者となった夕鷹を婿に出すわけにはいかなくなった。
だから私と夕鷹の間に出来た子供を柚原の家の養子として、次期後継者に据えよう。それまでは父の浩一郎が代表を務めたまま、もし何かあったら一時的に分家筋を頼り、でも最終的には柚原家の正当な嫡男が後継となるように――そんな打算も今は砕けた。
この冬、正式に私は夕鷹との婚約を破棄した。
夕鷹には他に好きな人がいて、本当の弟のように大好きな彼の恋を、私なんかために奪ってしまうのはあまりに申し訳なくて。
こんな時代遅れの因習に囚われるのは私ひとりで十分だ。血筋なんてものに、ここまでするほどの意味があるのかなんてわからない。
けれどこの閉塞的で悲しい箱庭のような世界しか私は知らないから、ここ以外の場所で、ひとりで生きてゆく術もない。誰かを頼って生きることしか能のない無能で愚かな自分が、今さら何よりも呪わしかった。
『憐れな子よねえ、次々に男に捨てられて』
――柚原の台所は、今も女の聖域だ。
親戚筋の集まりに参加するたびその下卑た聖域で交わされる噂話の中心には必ず私がいて、そこで語られる自分の肖像は、どうしようもなく憐れな姿をしていた。
『あの器量で三十過ぎまで婿も取れないなんて絶対なにかしら欠陥があるのよ』『結局親が親なら子も子ってことかしらね』『豊川のとこの次男坊だって結局は余所に女作って佳乃のことあっさり捨てたんでしょ?』『だからどこの馬の骨とも知れない女の血なんか入れちゃダメなのよ』『柚原の面汚しだわ、浩一郎さんも』『最初の婚約者が死んでその弟にまで裏切られるなんて、ほんと縁起の悪い娘よねえ』
憐れで縁起の悪い娘でも、柚原の家のためには良家の婿を取らなければならない。もう今は自由で多彩な令和の世だというのに、私の背負う責務は悲しいほど前時代的だ。
「きちんと考えて、お返事します」
いつまでも前進しない私の返答を両親すら歯痒く思っていることも、わかってる。他に選択肢などあるわけもないのだから、少しでも若さの残っているうちに婿を取らなければ――次の私の責務は子を成すことだ。
それでも、どうしても思ってしまう。
こんな地獄に何を産み落とせばいいのだろうと。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
「もう常連ですね、柚原さん」
三度目の遭遇は、もう驚かなかった。
昨日ぶりの再会をアルが愛想よく喜んでくれる。
もう慣れたのか、私の膝のあたりにぴょんっと前足を掛けるようにアルは飛びつき、「あ、こら!柚原さんの服汚れんだろ!」と滝沢が慌てて胴に繋がれたリードを引く。
「あはは、服なんか全然大丈夫ですよ」
「そうは言っても、そんな綺麗な服汚したら…」
「滝沢さんは甘いものお好きですか?」
「え?」
きょとんとしたように薄く黄色味がかった琥珀の瞳を転瞬させた滝沢に、私は持ってきていた紙袋を掲げて見せる。
「昨日母親がくれたんです」
「わざわざ持ってきてくれたんですか?」
「またおふたりに会えたらこの前助けてもらったお礼にお裾分けしようと思って」
「別に礼なんか気にしなくていいのに」
「いえ、ただの洋菓子で申し訳ないんですけど」
「ちなみに甘いものは好物です」
爽やかに笑った滝沢は、私が紙袋から取り出した洋菓子の箱を開けようとしたところ、「ちょっとアル見ててもらっていいですか?」とリードを手渡してくるので今度は私がきょとんとする番だ。
しかし、特にそれきりなにも言わずに歩き去っていった滝沢の背中を取り残されたアルと一緒に見送りながら、「飼い主さん行っちゃったね?」と利口な犬に話し掛けると、アルは特に不安げな様子もなく、私を真っすぐに見つめてパタパタ尻尾を振ってくる。
「なんかすげえ懐かれましたね?」
「私、昔から子供と動物には結構好かれる質で」
「ブラックとカフェオレどっちがいいですか?」
「買って来てくれたんですか?」
軽々とベンチに飛び乗ったアルが私の膝に甘えた仕草で顎を乗せてくる。そこにちょうど戻ってきた滝沢の手には、ふたつの紙のコーヒーカップが握られていた。
「ありがとうございます!」
「俺、どっちも飲めるんでお好きなほうどうぞ」
「それじゃあブレンドいただけますか?」
「砂糖とミルクは?」
「あ、入れなくて大丈夫です」
昔からコーヒーはブラックで飲むのが好きだ。
アルにベンチを占領されているおかげで座る場所がない滝沢は、「飼い主を差し置いて図々しいやつだな」と文句を言って笑う。そして立ったままでマグに口を付け、私が差し出した箱の中からプレーンなパウンドケーキを選び取る。
すると今まで私の膝の上でのんびりと怠惰を満喫していたアルが急に起き出してきて、軽々とベンチを飛び降りたかと思えば、滝沢を見上げて思い切り尻尾を振り回すので笑ってしまう。
これには滝沢も「現金な奴だな」と苦笑しながら愛犬をツンと無視し、入れ替わるように私の横に腰を下ろした。甘いお菓子を前に目の色を変えたアルはそれでもめげずに、くぅんと鼻を鳴らして物乞いする。
ない。
「あ、冷めちゃうんで早く飲んでくださいね」
「それでは遠慮なく、いただきます」
「アルはダメだって」
私と滝沢が話していると、アルが小さく吠えた。
それに滝沢が窘めるような視線を送る。
だが普段から散々甘やかされ慣れているのだろう幸せな牧羊犬は、滝沢の指示をあえて無視し、主人の膝の上に飛び乗った。うわ、と滝沢が小さく呻きを漏らす。
「毎日どれくらいお散歩するんですか?」
「若い頃は朝晩1時間ずつだったんですけど、最近は朝の一時間と夜に家の周りちょろっと回って用足すぐらいですね」
「え、アルって今でおいくつですか?」
「もう今年で11歳ですね、結構なジジイです」
「まだ子供かと思ってました!」
毛並みもつやつやで瞳も綺麗なのに!
こんなに若々しいのに、もうご老犬だなんて。
一緒に並んで焼き菓子を食べながら、相変わらず取りに足らない話をする。滝沢の足元ではまだアルがお菓子を虎視眈々と狙っていて、やっぱり子供みたいだ。
「ほんとこれまでデカい病気もケガもなく未だに食欲も旺盛だし、全盛期に比べれば運動量は少し落ちてきましたけど、それでもこの歳までこんな元気でありがたい限りです」
「そうですよね、健康が一番ですよね」
「柚原さんもなんか動物とか飼ってるんですか」
「私は全然動物とかは…」
大好きだけど、今まで飼ったことはない。
子供の頃には犬や猫を飼いたいと両親に強請ったこともあったけど。でも、お家にゲストを呼んでホームパーティーをすることも多かったから、アレルギーのある方がお越しになられた時に動物がいたら困るのだと両親に言われて、結局は諦めるほかなかった。
「あれ、でも今はひとり暮らしなんじゃ?」
「え?そうですね、今はひとりで…」
「ならもう飼えますね」
ひとり暮らしの特権じゃないですか、自由って。
最後のひと口となったパインドケーキをポイっと口の中に投げ込んで、滝沢が屈託なく笑う。その白い頬の上で、春の朝のひかりがころころと無邪気に転がった。
「癒されますよ、仕事から疲れて帰って可愛い相棒に出迎えてもらえると、まじで疲労も吹っ飛ぶんでおすすめです」
「あ、でも、私は在宅で…」
「なら余計に世話したい放題じゃないですか」
在宅とか羨ましいな、と呟きながら紙のカップを傾けてコーヒーを啜る。その間も慣れ親しんだ仕草でアルの頬を撫でる滝沢は、とても愛情深いひとに見えた。
青葉がさあっと音を立てて揺れる。
仕事で疲れたことがないなんてとても言えない。
こういう時、自分が大人としてすごく恥ずかしい人間なのだと気付いてしまう。私の自由はただのまがいもので、今もこの足首に嵌められた鎖は窮屈な箱庭の内側と繋がったままだ。
嫁入り前のほんの僅かな間みだけ許された執行猶予が、今だ。ちゃんとわかってる。優しい両親が私の最後のわがままを叶えるために、心無い声に耳を塞ぎ、冷ややかな視線には気付かないふりをしてくれている。
「――柚原さん?」
自分を呼ぶ滝沢の声にハッとした。
琥珀色の瞳が私を不思議そうに見つめている。
何故か手が震えた。途轍もなく純度の高い寂寥が心の内側で弱々しく灯り、不意に泣きたくなった私はへらりと笑う。
「ごめんなさい、なんでしたっけ?」
どこか遠くで、転んだ子供の泣き出す声がした。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
静かなクラシックが耳に優しい。
白を基調にした店内は清潔感があって素敵だ。
天井から吊るされた煌びやかなシャンデリアがピカピカに磨かれたカトラリーに映る。春野菜をふんだんに使った前菜にフォークを入れながら、大学時代からの友人である春見柑菜は、意地の悪い笑みを浮かべた。
「で、お婿さん候補はどんな男なのよ?」
「…わかんないよ、まだ会ってないもん」
「でもその男に関する情報は聞いたんでしょ?」
「まあ……帝和ケミカルって柑菜の会社とは系列会社だよね?そこの創業者一族の家系で、そこの現社長がお相手のお父様。でも跡を継がれるのはお兄さんだから、その人はイギリスのロースクールを卒業したあと財務省に入省されて、今は主計局主査だって」
目黒にある人気のレストランの予約が取れたのが嬉しくて柑菜を誘ったら、日曜の夜かーとお酒があまり飲めないことを少し残念そうにしながらも付き合ってくれることになった。
そこで昨日の実家でのあれこれについて少し柑菜に愚痴ったら、面白がるように縁談相手のことを根掘り葉掘り聞かれて座りが悪い。お相手のことはまだ何も知らないし、縁談がちゃんと進むかもわからないのに。
「え、なに、てことは財閥御曹司?」
「…元々の血縁を辿れば、まあ、そうかな」
「うわ、ほんと韓ドラかよ。絶対ソイツ記憶喪失になるわよ、12話目ぐらいで」
色鮮やかな前菜を口に運びながら柑菜が辟易したように呟いた。私はそれに苦笑して、白ワインのグラスに口を付ける。旧財閥系企業である帝和グループの中でも、素材系商材を専門に扱う帝和ケミカルは、グループ内の企業規模では五指に入るほどの大企業だ。
「でもまだ気に入ってもらえるかわからないし」
「そういうレベルの話なわけ、それって」
「…選択権はまだあると信じたい」
「ていうか主計局主査って確か財務省では別格のポストよ、そのぐらいの年次なら出世街道の最短ルート。それ捨てて柚原の婿に入るってことは経営したかったのかな?」
他省庁の会計課長と対等に話しができるような役職じゃなかったかな?と記憶を辿るように柑菜が眉を顰めた。柑菜は大学卒業後、帝和財閥系の流れを汲む総合商社に就職しているが、彼女のお父様は今も外務省に勤めるお役人さんなので、官吏系の役職のことなんかにも色々と精通しているのだろう。
「まあでも財務省で出世ルート爆走してるんなら優秀なのは間違いないだろうし、家格だって釣り合ってるし、結構悪くないかもね。案外サクッと結婚しちゃったりして」
「…でも、まだ会ったこともないのに」
「まあそれはそうだよね」
その先を、柑菜は優しいから言わない。
私の人生の工程表は結婚を前提に組まれている。
この先ひとりで生きていけるわけもない私の人生には、それ以外の選択肢がない。それなら早めに条件のいい相手を見つけて結婚してしまったほうが両親だって安心してくれて、親戚から嫌味も言われずに済む。
そんなの、ちゃんとわかってる。
頭では全部わかってて、でも、まだ心が――、
『なんで俺なんかがいいの?』
そう言って困ったように微笑む彼の面影が今も心に棲み付いたまま。ただ、好きだった。無鉄砲な代わりにひたむきに、幼い頃から夢中で彼のことばかり目で追って。
誇れるものなんて、なにも持たない私の人生で。
彼に恋をしていた瞬間だけが唯一光輝いていた。