永遠の終わりに花束を
#10 祝福の花束がなかったとしても
「…泣きすぎて頭痛い」
ほんと、報われないにも程がある。
ベッドに埋もれるように散々泣いた私はふらりと一度起き上がり、チェストの中に転がった頭痛薬を取り出した。
今朝、公園で滝沢に振られてしまってから自宅に逃げ帰り、グズグズと泣きべそをかき続ける間に時刻は正午を大幅に過ぎている。少しも食欲の湧かない私は、冷蔵庫からミネラルウォーターだけ取り出して頭痛薬を服用した。
「――うわ、なんかこの感じ久しぶりね」
近くのコンビニで調達してきたのだろうビールが大量に入った袋をがさりとソファーに投げ置いた柑菜が、散々泣き腫らした私の顔を覗き込んで辟易したような顔をする。
「毎度毎度なんでそう惚れた男にばっか振られるのかねえ、あんたは」
「…そんなの私が聞きたい」
「その無駄に勇敢な正直さだけは称えるわ」
多分佳乃って思ったこと全部表に出さなきゃ死ぬ病気なんじゃない?と、こんな時まで柑菜は通常運転に辛辣だ。私だって、別に昔から好き好んで玉砕してるわけじゃないのに。
「巳影くんも随分手強かったもんねえ」
「…多分巳影くんには百回ぐらい振られたから」
「そこまで振られ続けても諦めない佳乃のお嬢様らしからぬ無駄な粘り強さよ。それ、もっと他の分野で活かしたら?」
ほらまた、嫌味ばっかり言うんだから。
不貞腐れながら柑菜の買ってきてくれたビールのプルタブを開けると、ぷしゅっと小気味のいい音が響く。失恋してお酒を飲んだって、どうせ私は酔えもしないけど。
物心ついたばかりの頃から優しくて格好良い巳影のことを、私は王子様のように信仰して、初めての恋に夢中だった。だけど七歳も年上だった巳影にすれば、当時の私の告白なんて幼い子供の戯言にしか聞こえなかっただろう。
当然、連戦連敗の記録だけを積み重ねる間に私もそれなりに成長したけど、それでも巳影には全然相手にされなくて。結局私のあまりのしつこさに巳影が折れてくれたのは、私が遂に成人して、それでもダメならもう今日で諦めると最後の博打に出た時だった。
「でもさ、その滝沢さんって人も、もしかしたら自分の境遇で佳乃の相手を務めるのは厳しいって考えもあったんじゃない?実際その人は私生児で、父親の戸籍にも入ってないんでしょ?その出自を上流階級の世界で公にして生きてくなんて、相当な覚悟のいる話だと思うよ」
柑菜の言葉は、いつも筋が通っていて逞しい。
人を甘やかすだけの無意味な優しさは決して振るわないのに、見栄や卑屈で繕われた虚飾を綺麗に取り払った現実の姿を、そっと目の前に置いてくれるみたいだ。
「…単にタイプじゃなかっただけかもだけどね」
「興味ない女のこと、美術館に誘う男がいる?」
「印象派に興味があっただけかも」
「絵画はさっぱりなのに?」
「これから知見を深めたかったのかも」
「まあ、そうかもね」
誰の迷惑にもならないんだから都合よく捉えておけばいいんだと柑菜は言って、景気よくビールを喉に流し込む。
「で、ご縁談はどうするの?」
「…そちらについても再考するつもりです」
「私はいいと思うけどねえ、熊谷さん。高校生の頃、あんたに憧れてたなんてどこぞの少女漫画も顔負けのエピソード出してきてさ、ちょっと好感度上がったわ」
にしても酷い顔ね、と泣きすぎてむくんだ私の頬を抓ってくる柑菜の手が冷たくて気持ちいい。熊谷とはあれからも当たり障りのないメッセージの交換をしているけど、あのプロポーズに関しては保留のままになってしまっている。
現実的に考えて、このまま熊谷と結婚しても「」らうのが最も正解に近い答えだと思う。今までずっと苦労ばかり掛けてきた両親も、本音では、一刻も早い私の決断を望んでいるのだとわかってる。だから今度こそもう間違えないように、ちゃんと正解を選ばなきゃ。
(もう、きっぱり振られたんだから)
鼓膜に張り付いたままの滝沢の声を振り払うように、ぎゅっと目を閉じた。馬鹿な私は、別に好きじゃないと突き放された今朝の言葉よりも、私は悪くないと抱き締めてくれた日の優しい声ばかり反芻して、いつまでもあのひんやりとした体温に縋ってしまうから。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
「佳乃、これお前が作ったの?」
綺麗にラッピングしたマフィンを紙袋から取り出していると、どこか手持ち無沙汰な様子で私の手元を覗き込んだ夕鷹がめずらしく感心したような声を上げた。
「そうだよ、巳影くんが好きだったの」
「俺、佳乃からこんなんもらったことねえけど」
「当たり前でしょ?夕鷹にあげるわけないもん」
「お前はほんと兄貴兄貴って…」
「仕方ないでしょ?」
本当に、大好きだったんだから。
一生忘れられないって本気で思うくらいには。
透明の包装紙の上にぐるりと巻いた紺色のリボンの結び目を丁寧に直しながら、右隣にいる夕鷹の仏頂面を見上げた。
「…今も思ってる?一生忘れられないって」
「思ってるよ、当たり前でしょう?」
「ほんと罪なクソ兄貴だな」
呆れたように呟いて、居丈高に鼻を鳴らす。
さっきまで賑やかだった食卓はもうしんと静まり返って、少し寂しげだ。夕鷹のご両親は少し飲み過ぎちゃったと言って、すでにふたりとも寝室に引っ込んでしまった。
「…でも今は滝沢さんがいいんだろ?」
「それとこれとは別の話だって最近気づいたの」
「俺は、佳乃が兄貴以外の奴のこと好きになって兄貴のこと忘れちまうのが心底嫌だったんだって最近ようやく気づいたわ」
そういうんじゃねえのにな、と笑う夕鷹の横顔が少し寂しげに見えた。夕鷹はいつも自分だけ除け者だとか文句ばかり言うけど、この生意気なのに憎めない弟のことを、私は幼い頃から一等大切に思っている。
「でも振られちゃったけどね」
「ふられ……は!?いやお前もう告ったの!?」
「まあ、ちょっと、なりゆきで…」
「佳乃のそのたまに見せるえぐい行動力なに?」
普段あんな優柔不断なくせして、と驚いたように肩を掴んできた夕鷹が物凄い勢いで詰め寄ってきて、滝沢に振られた経緯を事細かに説明させられる。
「は?なんだそれヒヨりやがってだせえな」
「…そういう言い方しないでよ」
「お前もなに振られた男の肩なんか持ってんの?いい歳した男と女で友達もクソもねえだろ、大体滝沢さんなんか一番そういうもん馬鹿にしそうなタイプのくせして」
なんで夕鷹が怒ってるんだろう?
不機嫌に吊り上がる眦に、思わず首をかしげた。
「つぅか、そもそも俺はあの人のこと全然佳乃にふさわしいと思ってねえしな。そりゃ見ず知らずの縁談相手よりはマシかなって一瞬思ったこともあったけど、所詮はクソの腹黒チキン野郎だわ!むしろ振られて良かったね!あんなんが俺の兄貴になるとか絶対やだし!」
別に、滝沢に振られなかったところで彼が夕鷹のお兄さんになることはないと思う。支離滅裂な罵倒を展開する夕鷹の勢いに少し引きながら、でも口を挟んだところで火に油を注ぐだけな気がするので黙って聞き流す。
「てか佳乃だって滝沢さんとはそんなんじゃねえとか言ってたくせに!」
「…おばさんたち寝てるんだから静かにしてよ」
「話逸らしてんじゃねえわ!」
「だからなにをそんなに怒ってるの…?」
まるで小さな子供みたいに癇癪を起こす夕鷹に呆れながら、すとんと肩の力が抜けた。もう二度と触れられない熱に焦がれて、行き場のない感情がずっと心の中で渦巻いていたのが少しだけ凪いだような気がする。
「で、もう諦めんの?あの人のこと」
「だって振られたんだからしょうがないでしょ」
「でも兄貴の時は死ぬほどしつこかったじゃん」
「あの時とは状況が違うもん」
もう、私だって無鉄砲なばかりじゃいられない。
お湯が沸いたことを知らせてくれる電気ケトルの音に振り向いて、手元の急須にダージリンの葉を淹れる。今夜は豊川家の客間に泊めてもらう予定にしているから、お茶でも飲んでからゆっくりと寝る支度をしよう。
「夕鷹も今夜は泊まるんでしょ?お茶飲む?」
「まだ話終わってねえんだけど?」
「もう終わったよ」
これ以上は、まだ少し辛いから。
今度こそ間違えないようにって今頑張ってるの。
物言いたげな顔をした夕鷹がそれでもうやむやに口を噤んで、私から目を逸らした。紅茶をしっかり蒸らしてから、ふたり分のマグカップに熱いそれをゆっくりと注ぐ。
その、透き通った琥珀の色を見ても。
もう彼の優しかった瞳を思い出さずに済むまで。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
朝の空はどこか正しくて穏やかだ。
細く開けた助手席の窓から清潔な風が吹き込む。
窓の外を通り過ぎる街並みはまだひっそりとしていて、人々が目を覚ます前の、ほんのりと厳かな空気が充満していた。真っすぐに伸びる朝の道路はあまりに滞りなく流れ過ぎて、何故だか少し不安になってしまう。
「朝早くて悪いな」
昨日は巳影のお誕生日会のあと、豊川家に泊めてもらった私と同様久しぶりに実家に泊まった夕鷹の車に乗せてもらい、私たちは朝早くの吉祥寺に忙しなく戻ってきた。
「本当にここで降ろしていいの?」
「うん、ちょっとお散歩しながら帰りたいから」
少し歩きたかったので、駅前の通りで車を降りた私は、気を付けてなと言って去ってゆく夕鷹を見送ってから踵を返した。まだぎりぎり梅雨入りを踏みとどまっている季節は、それでもすっかり春らしさが遠退いて夏めいている。
「アール、だからそっちはダメだって」
宛てもなく彷徨うようにふらふらと歩いていた私の足が井の頭公園に近付いた頃、ふと曲がり角の向こうから耳慣れた声が聞こえて一時停止する。
数日ぶりに聞いたその声にドキドキと心臓が嫌な動悸を起こし、私はそろそろと曲がり角から顔を出すようにその向こう側を伺った。そこでは、見覚えのある白と黒の毛並みの犬が珍しく飼い主に駄々を捏ねている。
「公園はもう通れないんだって言ったろ?」
「…………」
「…徹底抗戦じゃねえか」
アル~、と困り果てたような声で、その場に座り込んだまま動こうとしない愛犬の前にしゃがんだ背中に、胸が千切れそうになる。もう、本当に私とは会いたくないんだと、今さら突きつけられる彼の本音に打ちのめされてしまう。
普段なら平日のこの時間に私がいないだろうことも、滝沢は知っているはずなのに。それでも念には念を入れて、絶対に私と遭遇しないようアルの散歩ルートを変えるほど、明確な拒絶が目の前に差し出されて。
(好きだなんて言わなかったらよかった)
こんな風に滝沢に嫌われてしまうくらいなら、友達のままで別れたほうが良かった。今さらなにを嘆いたって、後悔は先に立たないけれど。急速に全身から血の気が引いていくような絶望に、私はただ立ち尽くす。
「…もう埒が明かねえな」
そう言って、滝沢がアルを抱き上げた。
大きなアルの体を大儀そうに持ち上げて歩き出す滝沢の背中越しに、ふと無垢で愛らしい真っ黒な瞳と目が合って――、
「ワンッ!」
大きな鳴き声が朝の住宅街に響いた。
私は咄嗟に曲がり角の奥に引っ込んで身を隠す。
うわ、急になんだよびっくりした、という滝沢の声が少し遠くに聞こえた。遠ざかってゆく足音の隙間に、くぅんくぅんと鳴く寂しげなアルの声が途切れずに続く。
あふれ出した涙が地面を濡らした。
その場に蹲るように、私は膝に顔を埋めて泣く。
「―ご、めん、なさい」
突然好きだなんて言われても、滝沢は迷惑だったのかもしれない。好きな人から嫌われてしまうのが、こんなに悲しいことだったなんて、生まれて初めて知ったの。
嫌な思いをさせてしまったのかな?
一緒に過ごした、あの楽しかった時間にさえ私は泥を塗ったのかもしれない。
最初から滝沢の心の中に私の入り込む余地なんてないことを、知っていたのに。彼の指先が紡いだ寂しさが今も耳に残ってずっと鳴り止まなくて。
傲慢な欲をかいた代償が今なのだとしたら自業自得だ。自分の気持ちを押し付けたって、滝沢を苦しめるだけの未来しか差し出せないくせに。あまりにシンプルで明快な彼の答えを、私に否定する資格などあるわけもない。それがどんなに悲しい結果でも。
もう、新しい恋なんてしないと思っていた。
なのに永遠に醒めることはないと思っていた悪夢の出口に立っていた貴方は穏やかで、少し寂しげで、時折意地が悪くて、どうしようもないほどに優しかったから。
そこに祝福の花束がなかったとしても。
懸命に芽吹いたこの恋だけは、取り上げないで。
ほんと、報われないにも程がある。
ベッドに埋もれるように散々泣いた私はふらりと一度起き上がり、チェストの中に転がった頭痛薬を取り出した。
今朝、公園で滝沢に振られてしまってから自宅に逃げ帰り、グズグズと泣きべそをかき続ける間に時刻は正午を大幅に過ぎている。少しも食欲の湧かない私は、冷蔵庫からミネラルウォーターだけ取り出して頭痛薬を服用した。
「――うわ、なんかこの感じ久しぶりね」
近くのコンビニで調達してきたのだろうビールが大量に入った袋をがさりとソファーに投げ置いた柑菜が、散々泣き腫らした私の顔を覗き込んで辟易したような顔をする。
「毎度毎度なんでそう惚れた男にばっか振られるのかねえ、あんたは」
「…そんなの私が聞きたい」
「その無駄に勇敢な正直さだけは称えるわ」
多分佳乃って思ったこと全部表に出さなきゃ死ぬ病気なんじゃない?と、こんな時まで柑菜は通常運転に辛辣だ。私だって、別に昔から好き好んで玉砕してるわけじゃないのに。
「巳影くんも随分手強かったもんねえ」
「…多分巳影くんには百回ぐらい振られたから」
「そこまで振られ続けても諦めない佳乃のお嬢様らしからぬ無駄な粘り強さよ。それ、もっと他の分野で活かしたら?」
ほらまた、嫌味ばっかり言うんだから。
不貞腐れながら柑菜の買ってきてくれたビールのプルタブを開けると、ぷしゅっと小気味のいい音が響く。失恋してお酒を飲んだって、どうせ私は酔えもしないけど。
物心ついたばかりの頃から優しくて格好良い巳影のことを、私は王子様のように信仰して、初めての恋に夢中だった。だけど七歳も年上だった巳影にすれば、当時の私の告白なんて幼い子供の戯言にしか聞こえなかっただろう。
当然、連戦連敗の記録だけを積み重ねる間に私もそれなりに成長したけど、それでも巳影には全然相手にされなくて。結局私のあまりのしつこさに巳影が折れてくれたのは、私が遂に成人して、それでもダメならもう今日で諦めると最後の博打に出た時だった。
「でもさ、その滝沢さんって人も、もしかしたら自分の境遇で佳乃の相手を務めるのは厳しいって考えもあったんじゃない?実際その人は私生児で、父親の戸籍にも入ってないんでしょ?その出自を上流階級の世界で公にして生きてくなんて、相当な覚悟のいる話だと思うよ」
柑菜の言葉は、いつも筋が通っていて逞しい。
人を甘やかすだけの無意味な優しさは決して振るわないのに、見栄や卑屈で繕われた虚飾を綺麗に取り払った現実の姿を、そっと目の前に置いてくれるみたいだ。
「…単にタイプじゃなかっただけかもだけどね」
「興味ない女のこと、美術館に誘う男がいる?」
「印象派に興味があっただけかも」
「絵画はさっぱりなのに?」
「これから知見を深めたかったのかも」
「まあ、そうかもね」
誰の迷惑にもならないんだから都合よく捉えておけばいいんだと柑菜は言って、景気よくビールを喉に流し込む。
「で、ご縁談はどうするの?」
「…そちらについても再考するつもりです」
「私はいいと思うけどねえ、熊谷さん。高校生の頃、あんたに憧れてたなんてどこぞの少女漫画も顔負けのエピソード出してきてさ、ちょっと好感度上がったわ」
にしても酷い顔ね、と泣きすぎてむくんだ私の頬を抓ってくる柑菜の手が冷たくて気持ちいい。熊谷とはあれからも当たり障りのないメッセージの交換をしているけど、あのプロポーズに関しては保留のままになってしまっている。
現実的に考えて、このまま熊谷と結婚しても「」らうのが最も正解に近い答えだと思う。今までずっと苦労ばかり掛けてきた両親も、本音では、一刻も早い私の決断を望んでいるのだとわかってる。だから今度こそもう間違えないように、ちゃんと正解を選ばなきゃ。
(もう、きっぱり振られたんだから)
鼓膜に張り付いたままの滝沢の声を振り払うように、ぎゅっと目を閉じた。馬鹿な私は、別に好きじゃないと突き放された今朝の言葉よりも、私は悪くないと抱き締めてくれた日の優しい声ばかり反芻して、いつまでもあのひんやりとした体温に縋ってしまうから。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
「佳乃、これお前が作ったの?」
綺麗にラッピングしたマフィンを紙袋から取り出していると、どこか手持ち無沙汰な様子で私の手元を覗き込んだ夕鷹がめずらしく感心したような声を上げた。
「そうだよ、巳影くんが好きだったの」
「俺、佳乃からこんなんもらったことねえけど」
「当たり前でしょ?夕鷹にあげるわけないもん」
「お前はほんと兄貴兄貴って…」
「仕方ないでしょ?」
本当に、大好きだったんだから。
一生忘れられないって本気で思うくらいには。
透明の包装紙の上にぐるりと巻いた紺色のリボンの結び目を丁寧に直しながら、右隣にいる夕鷹の仏頂面を見上げた。
「…今も思ってる?一生忘れられないって」
「思ってるよ、当たり前でしょう?」
「ほんと罪なクソ兄貴だな」
呆れたように呟いて、居丈高に鼻を鳴らす。
さっきまで賑やかだった食卓はもうしんと静まり返って、少し寂しげだ。夕鷹のご両親は少し飲み過ぎちゃったと言って、すでにふたりとも寝室に引っ込んでしまった。
「…でも今は滝沢さんがいいんだろ?」
「それとこれとは別の話だって最近気づいたの」
「俺は、佳乃が兄貴以外の奴のこと好きになって兄貴のこと忘れちまうのが心底嫌だったんだって最近ようやく気づいたわ」
そういうんじゃねえのにな、と笑う夕鷹の横顔が少し寂しげに見えた。夕鷹はいつも自分だけ除け者だとか文句ばかり言うけど、この生意気なのに憎めない弟のことを、私は幼い頃から一等大切に思っている。
「でも振られちゃったけどね」
「ふられ……は!?いやお前もう告ったの!?」
「まあ、ちょっと、なりゆきで…」
「佳乃のそのたまに見せるえぐい行動力なに?」
普段あんな優柔不断なくせして、と驚いたように肩を掴んできた夕鷹が物凄い勢いで詰め寄ってきて、滝沢に振られた経緯を事細かに説明させられる。
「は?なんだそれヒヨりやがってだせえな」
「…そういう言い方しないでよ」
「お前もなに振られた男の肩なんか持ってんの?いい歳した男と女で友達もクソもねえだろ、大体滝沢さんなんか一番そういうもん馬鹿にしそうなタイプのくせして」
なんで夕鷹が怒ってるんだろう?
不機嫌に吊り上がる眦に、思わず首をかしげた。
「つぅか、そもそも俺はあの人のこと全然佳乃にふさわしいと思ってねえしな。そりゃ見ず知らずの縁談相手よりはマシかなって一瞬思ったこともあったけど、所詮はクソの腹黒チキン野郎だわ!むしろ振られて良かったね!あんなんが俺の兄貴になるとか絶対やだし!」
別に、滝沢に振られなかったところで彼が夕鷹のお兄さんになることはないと思う。支離滅裂な罵倒を展開する夕鷹の勢いに少し引きながら、でも口を挟んだところで火に油を注ぐだけな気がするので黙って聞き流す。
「てか佳乃だって滝沢さんとはそんなんじゃねえとか言ってたくせに!」
「…おばさんたち寝てるんだから静かにしてよ」
「話逸らしてんじゃねえわ!」
「だからなにをそんなに怒ってるの…?」
まるで小さな子供みたいに癇癪を起こす夕鷹に呆れながら、すとんと肩の力が抜けた。もう二度と触れられない熱に焦がれて、行き場のない感情がずっと心の中で渦巻いていたのが少しだけ凪いだような気がする。
「で、もう諦めんの?あの人のこと」
「だって振られたんだからしょうがないでしょ」
「でも兄貴の時は死ぬほどしつこかったじゃん」
「あの時とは状況が違うもん」
もう、私だって無鉄砲なばかりじゃいられない。
お湯が沸いたことを知らせてくれる電気ケトルの音に振り向いて、手元の急須にダージリンの葉を淹れる。今夜は豊川家の客間に泊めてもらう予定にしているから、お茶でも飲んでからゆっくりと寝る支度をしよう。
「夕鷹も今夜は泊まるんでしょ?お茶飲む?」
「まだ話終わってねえんだけど?」
「もう終わったよ」
これ以上は、まだ少し辛いから。
今度こそ間違えないようにって今頑張ってるの。
物言いたげな顔をした夕鷹がそれでもうやむやに口を噤んで、私から目を逸らした。紅茶をしっかり蒸らしてから、ふたり分のマグカップに熱いそれをゆっくりと注ぐ。
その、透き通った琥珀の色を見ても。
もう彼の優しかった瞳を思い出さずに済むまで。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
朝の空はどこか正しくて穏やかだ。
細く開けた助手席の窓から清潔な風が吹き込む。
窓の外を通り過ぎる街並みはまだひっそりとしていて、人々が目を覚ます前の、ほんのりと厳かな空気が充満していた。真っすぐに伸びる朝の道路はあまりに滞りなく流れ過ぎて、何故だか少し不安になってしまう。
「朝早くて悪いな」
昨日は巳影のお誕生日会のあと、豊川家に泊めてもらった私と同様久しぶりに実家に泊まった夕鷹の車に乗せてもらい、私たちは朝早くの吉祥寺に忙しなく戻ってきた。
「本当にここで降ろしていいの?」
「うん、ちょっとお散歩しながら帰りたいから」
少し歩きたかったので、駅前の通りで車を降りた私は、気を付けてなと言って去ってゆく夕鷹を見送ってから踵を返した。まだぎりぎり梅雨入りを踏みとどまっている季節は、それでもすっかり春らしさが遠退いて夏めいている。
「アール、だからそっちはダメだって」
宛てもなく彷徨うようにふらふらと歩いていた私の足が井の頭公園に近付いた頃、ふと曲がり角の向こうから耳慣れた声が聞こえて一時停止する。
数日ぶりに聞いたその声にドキドキと心臓が嫌な動悸を起こし、私はそろそろと曲がり角から顔を出すようにその向こう側を伺った。そこでは、見覚えのある白と黒の毛並みの犬が珍しく飼い主に駄々を捏ねている。
「公園はもう通れないんだって言ったろ?」
「…………」
「…徹底抗戦じゃねえか」
アル~、と困り果てたような声で、その場に座り込んだまま動こうとしない愛犬の前にしゃがんだ背中に、胸が千切れそうになる。もう、本当に私とは会いたくないんだと、今さら突きつけられる彼の本音に打ちのめされてしまう。
普段なら平日のこの時間に私がいないだろうことも、滝沢は知っているはずなのに。それでも念には念を入れて、絶対に私と遭遇しないようアルの散歩ルートを変えるほど、明確な拒絶が目の前に差し出されて。
(好きだなんて言わなかったらよかった)
こんな風に滝沢に嫌われてしまうくらいなら、友達のままで別れたほうが良かった。今さらなにを嘆いたって、後悔は先に立たないけれど。急速に全身から血の気が引いていくような絶望に、私はただ立ち尽くす。
「…もう埒が明かねえな」
そう言って、滝沢がアルを抱き上げた。
大きなアルの体を大儀そうに持ち上げて歩き出す滝沢の背中越しに、ふと無垢で愛らしい真っ黒な瞳と目が合って――、
「ワンッ!」
大きな鳴き声が朝の住宅街に響いた。
私は咄嗟に曲がり角の奥に引っ込んで身を隠す。
うわ、急になんだよびっくりした、という滝沢の声が少し遠くに聞こえた。遠ざかってゆく足音の隙間に、くぅんくぅんと鳴く寂しげなアルの声が途切れずに続く。
あふれ出した涙が地面を濡らした。
その場に蹲るように、私は膝に顔を埋めて泣く。
「―ご、めん、なさい」
突然好きだなんて言われても、滝沢は迷惑だったのかもしれない。好きな人から嫌われてしまうのが、こんなに悲しいことだったなんて、生まれて初めて知ったの。
嫌な思いをさせてしまったのかな?
一緒に過ごした、あの楽しかった時間にさえ私は泥を塗ったのかもしれない。
最初から滝沢の心の中に私の入り込む余地なんてないことを、知っていたのに。彼の指先が紡いだ寂しさが今も耳に残ってずっと鳴り止まなくて。
傲慢な欲をかいた代償が今なのだとしたら自業自得だ。自分の気持ちを押し付けたって、滝沢を苦しめるだけの未来しか差し出せないくせに。あまりにシンプルで明快な彼の答えを、私に否定する資格などあるわけもない。それがどんなに悲しい結果でも。
もう、新しい恋なんてしないと思っていた。
なのに永遠に醒めることはないと思っていた悪夢の出口に立っていた貴方は穏やかで、少し寂しげで、時折意地が悪くて、どうしようもないほどに優しかったから。
そこに祝福の花束がなかったとしても。
懸命に芽吹いたこの恋だけは、取り上げないで。