永遠の終わりに花束を

#11 黄昏に後悔が透ける

『あ、なたが――すき、なんです』
震えた佳乃の声が今も耳の奥に残っている。
あの、優しげに澄んだ声を聞くのが、俺はとても好きだったのに。声自体にはあまり抑揚がないのに、わかりやすい百面相に添えられるせいで、妙に忘れがたい声。
その声が、俺を好きだと言ってくれる瞬間が来るなんて本当に思ってもみなかった。朝の穏やかな風にすら攫われてしまいそうに儚く震えた佳乃の声を、それでも、俺の耳が聞き逃すことはない。
俺の知らない優しくて誠実な誰かのことを、佳乃はこの先も一生愛しながら生きてゆくのだろうと思っていた。だから、そんな彼女の隣に寄り添う男は、寛容で愛情深い相手でいてほしいと、最後くらいは格好付けて、お幸せにと笑ってやるつもりだったのに。
「あー…、なんでこうなるんだよ」
吐き捨てた舌打ちが虚しく愛車のシートに吸い込まれてゆく。自分が酷い顔をしてる自覚はあったから、このまま律とアルのいる部屋に戻るわけにもいかないと一時的に避難したそこから、俺は小一時間動けずにいる。
泣かせるつもりなんてなかった。
でも、俺に受け入れられるわけがないだろう。
どう足掻いたところで、人は自分の生まれる場所を選ぶことは出来ないんだから。信じてもいない神にどれだけ願ったところで、俺は俺であることは覆らない。
『、っ、ごめ、なさ、ごめ――』
いつも、謝ってばかりだったんだろう。
何も悪くないのに、理不尽な悪意に晒されて。
過呼吸になった佳乃を抱き上げた時、俺の肩に顔を埋めながら譫言のようにずっとごめんなさいと口にしていたのを、知っているから。もうせめてこの先は、そんな風に謝らなくて済むように。身分相応な相手を選んで、俺のことは早く忘れてしまえばいい。どうせ覚えていても、美しい思い出じゃないんだから。
俺の言葉を聞いた瞬間の、悲しげな佳乃の表情が今も瞼に焼き付いたまま離れなくて。あんな風に傷つけたかったわけじゃないのになんて見苦しい言い訳をいくら連ねたところで、その事実はなにも変わらないのに。
本当は、心底抱き締めたかった。
佳乃が欲しがるものなら全部与えてやりたくて。
それなのに正反対の結末しか押し付けられない俺の無力さを、許さなくていいから。ただこの選択が間違いでなかったと思えるだけの未来が佳乃に訪れてくれたらいい。
「ほんと、報われねえな……」
そんな虚しい呟きを残して、俺は車を降りた。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
なんかデジャヴだな、と煙を吐く。
夜遅い喫煙所には俺たちの他に人影もない。
帰る前に最後の一本を、なんて欲を出して喫煙所に立ち寄ったのが運の尽きだった。俺のあとをつけて来たのかどうか、鬼のような形相の豊川から詰め寄られてうんざりする。俺が上司なこと絶対忘れてるだろ、コイツ。
「佳乃のこと振ったってほんとですか?」
「単刀直入だな、君も」
もう少し社会人らしくオブラートに包んだ物言いをしてもらえないものか。口の端に煙草をぶら下げたまま、喫煙所の端に置かれている折り畳みの椅子に腰を下ろす。
「柚原さんに聞いたの?」
「そうですよ、昨日!まさに今頃!」
「そういえば昨日はめずらしく定時で上がってたもんねえ、豊川くん」
残業時間なら俺を凌ぐほど苛酷な顧客構成をしている豊川が、仕事を定時で切り上げて帰るのはめずらしかったので覚えていた。そうか、柚原さんと予定があったのか。
「で、彼女からなにを聞いたわけ?」
「滝沢さんに告って振られたから諦めるって」
「ふぅん?まあ彼女がそう言ってるならそういうことなんじゃない?別にそれ以上俺から君にする話もないと思うけど」
俺から、それ以上の何を聞けると思うんだろう?
静まり返った密室を剣呑な空気が満たす。
敵を威嚇する野犬のように粗暴な目付きで俺を睥睨する部下に、だが怯えてやる義理もない。それに今は業務時間外だから、品行方正な上司でいる必要もないだろう。
「なんで振ったんですか、佳乃のこと」
「告白を断る理由なんか別に好きじゃないから以外になにがあんの?」
「好きじゃない?それって本当に本心ですか?」
「俺が嘘つく理由なんかないでしょ」
「あるんじゃないんですか、俺にはそう見える」
「はは、随分都合のいい推察だね」
最初から全部持って生まれたこの男に、一体俺のなにがわかるって言うんだろう?腹の底から沸き上がった粘性の高い感情が、強固に固めたはずの冷静さを溶かす。
愚かなことだという自覚はあった。
でも柄にもなく苛立ってたんだと思う、多分。
「てか、そもそもさあ――」
ゆったりと椅子から腰を上げた俺は、自分よりも僅かに高い位置にある豊川の視線を下げるようにその胸ぐらを引っ掴んだ。
「――お前が俺にそれを言うの?」
そもそもの元凶は誰のせいなんだっけ?お前が婚約破棄なんか起こさなきゃ、俺と彼女が出会う余地すら生まれなかったんじゃねえの。別に今さら豊川を責める気はないし、コイツにもコイツなりの葛藤があっただろう。でも、だからって俺の領域に土足でズカズカ踏み込まれんのは不快だからもう黙ってろよ。
そう、鋭利な言葉をただ吐き捨てた。
正しさがなにも救わないことなんて承知の上で。
「さて、俺はもう帰るからあとよろしくね」
息を呑むように固まった豊川のワイシャツの襟をさっと手で払いながら、最後に口元だけで適当に笑っておく。そのまま踵を返し、ビルの裏手口に回ってから駅まで続く地下通路に出た。
肺の底から深々と息を押し出すと、ピリピリと張り詰めていた感覚が一気に弛緩した。どうにも最近自分らしくもないことが立て続いていて、妙に疲弊するから嫌だ。
(ほんと、半分八つ当たりだよな…)
そのまま真っすぐ帰る気になれず、意味もなく改札口の向かいの壁にずるりと背中を預けた。駅構内を行き交う人波を見つめながら、手持ち無沙汰に懐を探る。
ああ、でも、ここじゃ吸えねえか。
潰れた煙草ケースにうざったい苦笑を漏らした。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
「俺、ちょっとマック寄ってくる!」
そこで待ってて!と言い置いて颯爽と駆け出してゆく末弟の背中を見送りながら、「未だにちっとも落ち着かねえな、あれ」と困ったように笑う腹違いの兄を瞥見した。
週末の羽田空港は国際色豊かな人々が行き交って酷く賑やかだ。束の間の休暇を終え、律がプラハに戻らなければいけない時期が来たため、今日は蒼とふたりして甘ったれな末弟の見送りに来た。
パリッとアイロンの掛かった黒いシャツに紺色のジーンズを合わせた蒼は、背格好は俺と似たようなものだが、顔立ちはあまり似ていない。まあ本妻だった蒼の母親は日本人だから、当然と言えば当然だが。
「お待たせ、兄貴たちも食う?」
「お前どんだけ買ったんだよ、馬鹿じゃねえの」
「だって機内食すぐ出るかわかんねえじゃん!飛行機乗ったら即寝する予定だし、ちゃんと地上で食い溜めしとかねえと」
律の買ってきた袋の中からはハンバーガーが二個と諸々のポテトやナゲットなどのサイドメニューまでしっかり出てきて、蒼と一緒に呆れ返ってしまう。つぅか、先に出国手続き済ませてから中で食えばいいだろ。
「だって俺がプラハ行ったら兄貴たちふたりとも寂しがって泣くだろ?だからできる限り手厚い見送りをさせてやってんの」
「なに言ってんだ、寂しいのはお前だろ」
「ホームシックに掛かってたんなら先に言えよ」
「うるせえな!寂しがってねえよ!」
俺は向こうでパツ金美女と楽しくやってんだ!と嘘八百を並べ立てる律が、不貞腐れながらバンズに噛みつく。いつまで経っても寂しがりな性分の抜けない弟である。
「あんま根詰めて練習しすぎんなよ」
「別に平気、息抜きに曲作ったりもしてるし」
「ピアノの息抜きに作曲してりゃ世話ねえな」
飯を食い終えた律を出国審査場の前まで見届けに行く。黒いリュックを背負った律は少しつまらなさそうに口を尖らせながら、俺と蒼のほうを振り返った。
「んじゃ、また適当に帰ってくるわ」
「俺は来月公演でブリュッセルに行く予定だから時間が合えばそっちも寄るよ」
と、蒼が笑った。相変わらず律に甘いやつめ。
「え?まじ?こっち来る予定あんの?」
「スケジュール次第では寄れるか微妙だけどな」
「なら俺が時間作ってそっち行く」
「お前もまた再来月から次のコンクールの一次審査がはじまるだろ、そっちに集中しないで先生に怒られても知らないぞ」
急に目を輝かせた律の頭をぐりぐりと撫でて窘めながらも、どうせ蒼は無理やりにでもスケジュールをこじ開けて律に会いに行く気だろう。年の離れた弟が可愛くてしょうがないのはお互い様だ。
結局搭乗時間のギリギリまで粘って出国ゲートをくぐってプラハへと旅立った律と別れたあと、俺と蒼はそのまま駐車場のほうに戻った。さすがに律の乗った飛行機が飛び立つのを見届けるほどの大仰な別れでもないし、このままサクッと帰路に就く予定だ。
「どっか寄ってくならそこまで送るけど」
「いや、別に予定もねえし普通に家まで頼むわ」
「愛しのアルが家で待ってるもんな」
「まあな」
そんな軽口を叩き合って、俺は助手席に収まる。
俺がドイツの自動車会社にいた頃、妙に義理堅いこの男が俺の勤め先で買っていったこの車は、日本で運転しやすいようにと運転席が右側に補正されている。当時から俺はディーラーではなかったので、一台の個人売上で業績がどうこうなる話でもないと再三言ったんだが。蒼はこの辺の感覚が大雑把なのだ。
「蒼のほうも仕事は順調か?」
「ああ、有難いことになんとかなってるよ」
「にしてもお前もすげえよな、海外公演で日本人ピアニストがチケット売るのも大変だろ。ほんと立派なもんだよなあ」
欧州から見れば芸術後進国であるアジアにルーツを持つピアニストが認められることは、口で言うほど簡単なことじゃない。未だに人種差別だって当然のようにあるし、どこの国民だって、自国に対する愛と誇りを持っている。
そんな環境でも淘汰されることなく活躍できるのは、ほんの一握りの人間だけだ。蒼は親の七光りと揶揄されることもあるが、その程度のアドバンテージでどうにかなるほど甘い世界じゃない。それこそ血の滲むような努力と研鑽を積んできた結果の栄光だろう。
「…直樹は、なんでピアノ辞めた?」
「だから音大落ちたからって何度も言っただろ」
「お前の実力で落ちるわけねえだろ?なんで毎度そうやってはぐらかすんだよ」
蒼からは、非難めいた一瞥が流れてくる。
まだエンジンを掛けただけの車内に響く重低音は日本製のそれとは微かに違う。馴染み深いそれを背中に感じながら、俺は唐突に訪れた不穏な時間に眉を顰めた。
「別にただの事実だよ、なに怒ってんの」
「…悪い」
急に変なこと言って、と蒼が疲れたように目頭を揉む。緩やかに吐き出されたため息が、緊張した空気を弛緩させ、俺はどうしたもんかと隣に座る誠実な兄の顔を流し見た。
俺の母親の最期を、蒼は知らない。
あの頃の俺がどんな最低の人間だったのかも。
音楽のことなんか一欠片だって愛していなかったことを、蒼が知ったらどう思うだろう?憐れだと同情するだろうか?俺には今も世界に鳴っているすべての音が他人事のように聞こえているのに。
律や菫が抱き締めながら生まれたような才能と同じものを、俺は蒼に感じたことはなかった。ただ蒼の狂気的なまでにひたむきで真摯なピアノへの献身だけは、恐ろしかった。あの執着が一体どこを源泉として湧いているのか、俺にはその一端も理解できなくて。
「…俺は、ずっと直樹が羨ましかったから。俺が必死に振り向いて欲しいって縋りついていたものが、直樹にはいつも手を差し伸べてた。それなのにお前はなんの関心も執着もなさそうに、それを振り払って捨てるんだよ」
――ほんと、心底憎らしかったよ。
悲哀と寂寥が入り混じったような蒼が顔で笑う。
「…なんだそれ、意味わかんねえよ」
「そういう無自覚なとこも全部憎たらしいしな」
「俺からすればお前のほうがよっぽど脅威だったけど。毎度取り憑かれたように弾いてさ、普通に常軌逸してんなって思ってた。でもそういう怪物にしか上がれない舞台に蒼が立ってることに、俺は心から納得してるよ」
あの頃は確かに嫉妬も苛立ちもあったけど、今は俺ではなく蒼があの光差す舞台の上に立つべき人間だったと本心で思っている。蒼は、縋りついて愛を乞うほど手に入れたかったものを、ちゃんと正攻法で振り向かせたんだろ?
それって、斜に構えて無関心を装うばかりだった俺と比較するまでもなく実直な行いだよ。なのに何故他人を羨むことがあるんだろう?蒼は心から欲しいと望んだものを、もう、ちゃんとその手に掴んでいるのに。
「…なんか今さら兄弟でこんな小っ恥ずかしい話してんの馬鹿みてえだな」
「お前が始めたんだろ、しかも突然」
「だってお前が平気な顔で俺のこと褒めるから」
「ならもう二度と褒めてやんねえよ」
「はは、それは嫌だな、時々は褒めてくれよ」
「気色悪いこと言ってんじゃねえよ」
冗談めかしてにこやかに笑った蒼がようやくサイドブレーキをoffにするのを尻目に、俺も小さく鼻を鳴らした。平面駐車場に停められていた車はなめらかに公道へと滑り出て、そのまま真っすぐに直進する。
西の空を夕暮れが赤く染めていた。
フロントガラスから差し込む日差しが眩しくて。
(変わんねえもんだな、人間って)
蒼の言葉通り、音楽が自分に手を差し伸べてくれているように思える瞬間が、確かにあった。それなのに俺は差し伸べられた手を握り締めたあとで振りほどかれるのが恐ろしくて、差し伸べられた手を掴む代わりに音楽に背を向けた。
最初からなにも手に入れなければ、少なくとも喪失の悲しみを享受することもないから。そんな臆病ばかりが先立って、未だに俺は一歩も動けないまま。本当は、震えながら差し伸べられたあの頼りなくて小さな手を握り返してみたいと、そう切望していたんだ。
もう、春が終わってしまう。
次の季節のことなんて、まだ考えられないのに。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
「うわ、ツイてねえな…」
空港から自宅に戻る頃には、すっかり日も暮れて夜になっていた。散歩と飯を終えてのんびりと伏せっているアルの背中を撫でながら、俺はふと何気なく煙草の箱を取り出して、その中身が空なことに気付いた。
仕方ない、買いに行くか。
手慰みを求めて、俺は重い腰を上げた。
マンションから歩いて数分ほどの距離にあるコンビニのレジで煙草を買い、そのまま店の外に設置されている灰皿の前に立った。家だといつも換気扇の前に立って煙草を吸うんだけど、あれは結構味気ないから、どうせなら外で吸ってから帰ろうと思って。
(お、すげえ高級車だな)
その時、コンビニの駐車場に止まった車に興味を引かれた。その車は俺が元々ドイツで勤めていた自動車メーカーの高級ラインの乗用車で、どの程度装備を追加するかで随分値段は上下するだろうが、車両の本体価格だけでもざっと二千万は下らない代物のはずだ。
と、職業病丸出しに観察していたら。
その車から降りてきた男と目が合って――驚く。
「あれ、あなたは確か――、」
本当に神様なんてものが存在するなら、俺は心底嫌われているらしい。品のいい黒のジャケットを羽織って颯爽と車から降りてきたその男は、俺を見つけて少し目を瞠ったあと、にっこりと口元に笑みを広げた。
「――滝沢さん、ですよね?」
「こんなところで奇遇ですね」
柔和な物腰で声を掛けてきた男――確か、佳乃が熊谷とか言っていた――に一瞬の動揺を表に出すことなく軽い会釈を返し、俺は口端にぶら下げた煙草を抜き取る。
「実は佳乃さんを家まで送り届けてきたとこで」
「今日はデートだったんですか?」
「はは、別にそんな素敵なもんじゃないですよ」
親同士が決めただけの相手ですから、と渇いた声に乗せられたふたりの関係はどこか侘しい。だが俺に気の利いた言葉を返すだけの思いやりがあるはずもなく、適当な相槌だけ打って、不健康な煙を肺に取り込む。
「それ、俺にも一本いただけませんか?」
「え?ああ、いいですよ」
「これ代金です」
何故か近寄ってきた熊谷が俺の煙草を指差して強請ると、それと引き換えに財布から一万円札を取り出して寄越した。爽やかで上品な顔の割りに露骨な男だと内心眉を顰める。
「お嬢様のご機嫌取りってのも疲れるもんですよねえ、ほんと。美人だし控えめだから結婚相手にはちょうどいいけど、正直ちょっと交際するには物足りませんよね」
「…そういうもんですか」
「あ、そうだ、滝沢さんも知ってます?」
俺から受け取ったライターで煙草の先に火を点けながら、するりと俺のほうに身を寄せてきた熊谷が声を潜めて笑う。僅かに縮められた距離の間に不快感が詰まっている。
「――あれで傷モノなんですよ、彼女」
前の婚約者が事故で死んでるとか縁起悪いですよねえ、と嘲りを口にする熊谷の顔に、純度の高い嫌悪が沸き上がってくる。
「もしかして滝沢さんも狙われてました?」
「…さあ、どうですかね」
「俺のことは気になさらないでくださいね、本当に肩書きだけの関係ですから。間男のひとりでもいてくれたほうが色々と面倒な手間も省けて俺としても気楽ですし」
では俺はこれで、とまだ長い煙草を灰皿に捨てた熊谷は、好青年然とした優しげな微笑みを残してコンビニに入ってゆく。俺はその胸糞悪い背中を睨みつけ、盛大な舌打ちを吐き捨てた。なにが御曹司だ、クソが。
吐き気を催すような、腐った侮蔑。
それを俺だけに向けるのならどうでもいいけど。
(――俺が、なんのために)
乱暴にすり潰して火を消した煙草の吸殻が、灰皿の上でひしゃげて死ぬ。肌に纏わりつくようにねばついた夜の空気を振り払うように、無心で俺は駆け出した。
脳髄から、冷静がこぼれ落ちる。
もうなにもかもどうだっていいような気がした。
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