永遠の終わりに花束を
#09 霞光に攫われる影
「あ、もうこんな時間」
表参道まで、タクシーで行こっかな。
都内の電車は複雑すぎて未だにちょっと苦手だ。
子供の頃から、実家にいる間は大抵車で送り迎えをしてもらっていたから、公共交通機関にはあまり馴染みがない。もちろん何度か乗ったことはあるし、ひとり暮らしを始めてからは時々挑戦の意味でも電車やバスを使うけど、誰かと会う約束のある日はまだ心許ない。
今日は熊谷にお誘いいただいて、少し早めの昼食を摂ってからミュージカルを鑑賞しましょうとの予定を立てている。前回は軽くランチを共にしただけですぐに解散したので、本格的なお出掛けは初めてだからすごく緊張してしまう。
表参道でランチをしたあとは日比谷にある劇場でミュージカルを鑑賞して、それから夕飯までは適当に街をぶらぶら散策しながらお買い物でもどうですか――と提案してくれた熊谷は、すべての工程がスマートで、色んなあれこれに慣れてそうな感じがした。
「佳乃さん、こんにちは」
駅前のApple storeの前に熊谷が立っていた。
私が駆け寄るとすぐこちらに気付いて爽やかな笑顔を向けてくれる熊谷は、紺色のセットアップに革靴を合わせただけのシンプルな服装で、なのに背が高いおかげかどうか、それだけでもおしゃれに見える。
「ごめんなさい、お待たせしましたか?」
「いえ、俺が早く着きすぎちゃっただけなので」
お気になさらずと笑い掛けてくれる熊谷の案内で青山通りのほうに向かう。さすがに日曜日の表参道はかなり混雑しているため、普通に歩くだけでも少しハラハラする。
「ハナちゃんは元気にしてますか?」
「はい、今朝も私が準備してたら近寄ってきて」
「え、そんなの死ぬほど可愛いじゃないですか」
「ちょっと名残惜しかったです」
でもいざ私が家を出るとなったらどこかに隠れて顔も見せてくれなかったので、逆に私のほうが寂しく感じてしまって、完全にハナの気まぐれに翻弄されている。
「あはは、拗ねちゃったんですかね?」
「もう私への興味を失くしてしまったのかも…」
「さすがにそんな薄情じゃないでしょ」
「だといいんですけど」
そんな話をしながら歩いている間に、予約してくれていたお店の前に到着した。緑色の可愛らしい木製の扉の前には新緑が眩しい植物のアーチが設置されており、その横にテラス席が並んでいる。
白を基調としたインテリアの中に観葉植物の緑が彩りを添える店内は、すでに多くのお客さんで賑わっていた。さすが熊谷のお母様がお薦めしてくださったというお店なだけあって、かなりの人気店のようだ。
「熊谷さんもこのお店はよく?」
「いえ、俺もここは今日が初めてですね」
「そうなんですか?でも本当に素敵なお店で…」
「母に伝えておきます」
佳乃さんと趣味が合うんじゃないって、と笑った熊谷がどうぞと椅子を引いてくれる。私はそれにお礼を言って着席し、するとすかさずメニューを持ってきてくれた店員の女性から革張りの冊子を受け取った。
「何にするか決まりました?」
「えー…どうしよう、私、優柔不断で…」
「次の予定までまだまだ時間はあるのでゆっくり決めてもらって大丈夫ですよ」
ランチメニューの中から鶏肉がメインのコースか白身魚がメインのコースかで決めかねている私に熊谷は、「そういえば母はこの鱈の香草焼きが美味かったって言ってましたよ」と急かすことなく助言までしてくれる。
「あ、そうなんだ、ならお魚にしようかな…」
「なら今度肉も食べに来ましょう」
「え、あ、はい」
うっかり頷いた私に熊谷が微笑んだ。
別に、こんなのは次の約束でもなんでもない。
軽く手を挙げるとすぐに注文を取りに来てくれた店員さんに、「この魚のコースをふたり分でお願いします」と熊谷が告げているのを、そわそわとした気持ちで見つめる。
「昨日は何かされてたんですか?」
「いえ、特には、ハナと遊んでたぐらいで…」
「そうなんですか?俺は学生時代の友人と久しぶりにテニスをしてきて、さすがに年取ったなって痛感してるところで」
若干筋肉痛です、と腰のあたりを擦る。
そういえば熊谷は中高大とテニス部に所属しており、しかもかなりの腕前で、インターハイでは準決勝まで残ったとかなんとか、何故か父が熱心に力説していた気がする。
「でも、お上手なのすごいです。実は私も中高とテニス部だったんですけど運動音痴すぎて一度もレギュラーになれなくて…」
「一所懸命ご友人の応援されてましたよね」
「そう、――え?」
熊谷の妙な言い回しにきょとんとする。
それに彼は、まるで悪戯を成功させた少年のように無邪気な顔で歯を見せた。
「松泉女子のテニス部は強豪でしたからね、実は何度か試合会場で見掛けたことがあって。しかも松泉はガードの硬いお嬢様校なうえに可愛い子が多いって有名だったでしょ?それでミーハーな男はこぞって見学に行ってて」
俺もそのミーハーな男のひとりです、と茶目っ気たっぷりに肩を竦めて見せる熊谷にぽかんとしてしまう。確かに、考えてみれば熊谷の出身校も同じ都内にあるのだから、試合会場が一緒なのは当然かもしれないけど……。
「え、でも、うちは部員がすごくたくさんいて」
「そうでしたよね、本当に可愛い子多かったし」
「ならどうして私のことなんて…」
「だって――」
少し照れ臭そうにはにかんで、熊谷が頬を掻く。
「佳乃さん、一番可愛かったですから」
貴方に憧れてた男、多かったと思いますよ。
そんなお世辞をさらりと言ってのける熊谷に絶句して、二の句が継げなくなってしまう。私なんか端っこの方でのんびりしていただけの地味でのんきな部員だったから、誰かに憧れられた覚えなど一度もないのに。
「俺のそのうちのひとりですしね」
「え、あ、そんな、ご冗談を……」
「貴方との縁談の話が来た時、年甲斐もなく舞い上がってた俺のこと、今度うちの両親か兄貴にでも確かめてもらって大丈夫ですよ。多分家族すら呆れてたと思うんで」
さすがにちょっと恥ずかしいな、と顔を赤くする熊谷が手持ち無沙汰に手元のグラスに触れた。熊谷は私よりも二歳年上だから、もし本当に試合会場で出会っていたとしたら私が一年生の時だろうけど、本当に目立たない部員だったから、あまりに予想外過ぎて。
「目立たないと思ってたの絶対自分だけですよ」
「ええ、まさか、だって、私なんて…」
「綺麗じゃないですか、今も」
あの頃からちっとも変ってないですよ、と甘い仕草で目を細める熊谷に心臓が鳴る。今すぐにでも逃げ出したいような衝動に駆られるのを、理性で必死に押し留めて。
「……お、手洗いに、行ってきます」
我ながら、蚊の鳴くような声が喉から漏れた。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
「わあ、こんなところあったんですね」
食事をしたレストランの上層階には会員制のバーがあり、そこのテラス席に出ると、煌びやかな東京の夜景が一望できる。心地の良い夜風がすっと吹き抜けるそこはどうやら貸し切りで、熊谷は少し困った風に笑った。
「親父が張り切っちゃって、すみません」
「あ、いえ、そんな、嬉しいです」
「なにも貸し切りにしなくてもいいだろ……逆にプレッシャーですよね?」
ほんと勘弁してほしいんですけど、と熊谷が疲労の滲むため息をこぼした。この店は熊谷の父親の友人が経営されているそうで、せっかくだからと今夜はテラス席を貸し切りにしてくれたらしい。
「うちの親、昔から妙に過保護なんですよね」
「それは我が家も同じ感じです」
「にしたって俺もう33ですよ?むしろひとりじゃ女性とデートのひとつも出来ないと思われてるんなら心外ですよ」
いつまで経っても末っ子は餓鬼扱いですよ、と辟易した調子で毒づく熊谷はめずらしい。柚原さんのご息女に粗相のないように、と、半ば無理やり今日の行程を父親に共有させられたらしい熊谷はその時にも散々駄目出しされたとかで、ストレスが溜まっていたようだ。
「あー…ほんと頼むから放っといてくれよ」
「まあ、家同士のことですから…」
「それはそうですけど、今時縁談ってだけでも古臭いのに、デート内容まで親に口出されるんじゃ息が詰まって仕方ないですよ。ていうか息子を信用しろよ、もう少しは」
手に持ったグラスに注がれた白ワインを呷る熊谷がむっとしたように夜景を睨み、だがすぐに「余計な愚痴を言いましたね、すみません」と気を取り直すように目尻を細めた。
「いえ、熊谷さんもむっとしたりするんですね」
「そりゃしますよ、俺も人間ですから」
「でも、いつもお会いする時は余裕があって落ち着いてるから、なんだか怒ったりするイメージが全然湧かなくて…」
喜怒哀楽をどんな風に表現する人なのか。
まだお会いするのは二回目なんだから知らないのも当然だけど、でも熊谷はいつもスマートでちっとも隙が見えないから、今までそれを想像する余地さえなかった気がする。
「ええ、俺、そんな風に見えてました?」
「なんていうか、あまり考えが読めなくて…?」
「…もうそれ、完全に逆効果ですよね」
「え?逆効果って?」
意味がわからずきょとんとした。
熊谷は損な私から気まずそうに視線を逸らして。
「必死で見栄張ってたんですよ、貴方にいい男だと思って欲しくて」
ほんと、死ぬほど格好つかないな。
そう呟いて不貞腐れる熊谷は少し子供みたいだ。
不意に触れた熊谷の素顔に思わずびっくりして私が固まると、それに気付いた熊谷が、声を立てて無邪気に笑った。
「はは、佳乃さんは考えが全部顔に出ますね?」
「…それは昔からよく言われます」
「正直な人なんですね」
俺は好きだな、と衒いもなく言って退ける熊谷のほうが余程正直だ。ドキドキと動悸がする胸の鼓動を聞かれていたらと居た堪れなくて、つい顔を隠すように俯ける。
「佳乃さん」
「なん、でしょうか…?」
「――俺と結婚してくれませんか?」
唐突なその申し出に、心臓が一瞬止まったような気がした。私を見つめる熊谷の眼差しは真剣そのもので、冗談ですかと茶化して誤魔化すことさえ許してもらえない。
「好きになってもらえるように努力します、俺」
「え、あの、でも、私…」
「別に返事は今じゃなくていいので」
穏やかに微笑む熊谷の視線が心臓の一番脆く柔い部分を締め付けるから、息ができなくて。こんな風に、男の人から熱孕んだ視線を向けられたのはいつ振りだろう?
不慣れな指先が震えてしまう。
熊谷となら、幸せな結婚ができるかもしれない。
なのに――、
『優しいよね、柚原さんって』
瞳の奥に映る綺麗な横顔が少しもこころを離してくれないから、切なくて。ほんの幾度か触れただけのひんやりとした彼の体温を、馬鹿な私は宝物のように胸に抱いて、こんなに優しいひとの前で泣きたくなってしまっている。
彼のことを、いつの間にこんなにも好きになってしまっていたんだろう?悪戯めいて笑う時に細くなる目も、時折意地悪をささやく薄い唇も、私の涙を拭ってくれた繊細そうな手も、悲しいほどにまばゆくて。
もし、彼と私の世界が重なったって。
それは不幸な物語にしかなりようがないのに。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
携帯に、母からの着信が残っていた。
小さな憂鬱が胸に灯ってなんだか気分が沈む。
お風呂上がりの髪をバスタオルで乾かしながらソファーに凭れた私のお腹にハナが乗る。小さくてあたたかな子猫の体温を抱き上げて、私はスマホに手を伸ばした。
『あ、もしもし佳乃?』
耳慣れた母の声は自分のそれと似ている。
幼い頃から極端に母の遺伝子を色濃く受け継いだ私は、顔立ちも背格好も生き写しのようにそっくりだとよく周囲の人から驚かれて、それは今でも変わらない。
『今日、どうだったかなと思って…』
「…どうっていうか、あの、プロポーズされて」
え?と戸惑ったような声を漏らした母の弓子に本日のハイライトを掻い摘んで報告する。電波の向こうにいる母が今どんな顔をしているか、私には手に取るようにわかってしまう。
元々一般家庭出身の母は旅先のスキー場で偶然父と出会い、ひと目惚れをされたらしい。その後は父からの猛アタックに折れて交際を開始し、それから二年が経った頃、父からプロポーズを受けて結婚した。
『…熊谷さんのこと、好きになれそう?』
申し訳なさそうに弱った母の声を聞くのがいつも悲しい。お母さんのせいじゃないのに。窮屈なあの家の中で、誰よりも肩身の狭い思いをしているのは常に母だった。
最初は家格が釣り合わないからと親戚から父と母の結婚は猛反対を受け、だが父が『弓子との結婚を許してもらえないなら跡は継がない』とその反対を押し切って結婚に漕ぎつけた。
しかし血縁と姻戚を徹底的に区別する柚原の家では、その後も母への風当たりは強かった。さらに妊娠しにくい体質だった母が、不妊治療の末に生まれてきた子供が女児だったことで、跡継ぎすら産めなかったと未だに陰口を言われているのを何度も耳にした。
――それで、次の心労は私だ。
ひとり娘は三十を過ぎて婿も取れない欠陥品。
そう親戚連中からは散々陰口を叩かれているのも知っているのに。それでも優しく見守ってくれる父と母の足枷にはなりたくないのに。いつも私の身勝手が大事な人を傷つけて、でも愚図な私はなにも上手くやれなくて。
『ごめんね、佳乃にまで迷惑かけて…』
「そんなこと言わないで、お母さんに迷惑なんか掛けられたこと一度もないよ」
『…うん、そうね、週末また詳しく聞かせて?』
「わかった、また連絡するね」
そんな会話を最後に通話を切った。
スマホをテーブルの上に戻してため息をつく。
もしも、万が一にも――滝沢が私の気持ちを受け入れてくれたとして。私の世界はきっと、彼のことを傷つけるだけだ。母がそうであったのと同じか、それ以上に心無い悪意を、滝沢に押し付けるわけにはいかない。
「馬鹿みたいだよね、ほんと」
私は、いつも正しい選択を選べない。
過ちばかり手放せずに、みんなに迷惑を掛けて。
甘えるように立ち上がったハナの頬をそっと撫でながら、小さな体を抱き上げる。自分がどの道を選ぶべきかなんて、残酷なほど明瞭に、目の前に提示されているのにね。
「もうほんと、嫌だなあ…」
どうしてこんなに私の世界は狭いんだろう?
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「なんかちょっと久しぶりですね」
公園のベンチで本を読んでいた私の足元にふっと影が差して、すぐ顔を上げると二週間ぶりに見る滝沢の姿があった。
「あ、こんにち……あれ?アルは?」
「今朝は弟と朝から走りに行ってて」
「あれ?でも弟さんってプラハにいるんじゃ…」
「今一時帰国してるんです」
それで昨日の晩からうちに泊まってて、と言って滝沢が私の隣に腰を下ろした。朝早い公園はまだ静かで、時折通り過ぎる人々はみんな私たちには気付くこともなく立ち去ってゆく。
「先週は来られなかったですよね、ここ」
「あ、はい、あの……ちょっと予定が入ってて」
「なにされてたんですか?」
「えっ?あ、え、っと、それは…」
熊谷の顔が頭に浮かんで思わず口籠ってしまう。
滝沢には本当のことを知られたくなくて。
適切な言葉を探すようにふらふらと脚元に視線を泳がせても、誰からも救いの手は差し伸べられない。焦燥だけが喉元を競り上がって、今私だけが酷く滑稽で。
「俺が当ててあげましょっか?」
面白がるような滝沢の声に、俯けた顔を上げる。
「あの素敵な紳士とデートだったんでしょ?」
にっこりと楽しげに笑って正解を言い当てる滝沢に、心臓が冷や水を浴びたように冷たくなる。思わず震えた指先が、縋るものを探し求めるようにスカートの裾を掴んだ。
「ど、うして、そのことを……?」
「偶然柚原さんがあの時の彼と表参道で歩いてるのを見掛けたんですけど、誰が見てもお似合いのふたりで、絶対デートだろうなってひと目でわかりましたよ?」
羨ましいなあ、と呟く滝沢の声が軽やかなことに傷ついたって意味はないのに。最初から私なんかに気がないことくらい知っていたのに、馬鹿な期待を寄せるから。
お願いだから笑わないでって。
心の中だけで叫んでも、滝沢には届かないから。
「それでね、俺と柚原さんはもちろん清く正しい友人関係ですけど、もしこの先も順調に彼との縁談が進むなら、友達とはいえ、こんな風に他の男と気安く会ったりするのもお相手にすれば面白い話じゃないと思うんですよ」
「………え?」
滝沢の言葉で思考がこんがらがる。
今から、すごく悲しい言葉が聞こえてきそうで。
まるで何かを懇願するような切実さで見つめる私に、彼は気付いているだろうか?湿気を孕む風が次の季節を匂わせる。
「だから俺、もうここには来ないつもりです」
最後に顔だけ見ておけてよかったと気障なことを簡単そうに言って退けられるのは、ほんの少しも滝沢に邪な感情がないからだ。ただ友人のような関係を築いた私を慮って、この先の多幸をなんの他意もなく祈って。
それが、焦げ付きそうなほど辛くて。
なんで私はいつも片思いばかりしちゃうのかな?
「――待、って、」
愚かな衝動があふれる。
嫌だよ、お願いだから行かないで。
そんなこと告げたって彼を困らせるだけなのに。
「い、かないで……」
掴んだ指先がひんやり冷たい。
不均衡な世界の断層に、私だけが落ちてゆく。
「あ、なたが――すき、なんです」
瞳の淵からはらはらとこぼれ落ちた涙が頬を濡らす。そんな私を見つめる滝沢は、痛々しげに眉を顰めながら、僅かに逡巡するような間のあとで私の指をほどいた。
一秒、二秒、――沈黙が首を絞める。
白く霞むひかりの向こうで、虚しい風が吹いた。
「――ごめん。俺は君には釣り合わないし、別に好きでもないから」
琥珀の瞳から、春が消えてゆく。
それがどうしようもなく悲しくて息ができない。
静かに立ち上がった滝沢は、それきり口を噤んだまま踵を返した。水色のシャツに包まれた背中が遠ざかってゆくほどに、寂しくてほの暗い永遠は忍び寄ってくる。
白く儚い霞光に春は攫われて。
もう二度と、私を抱き締めてはくれないだろう。
表参道まで、タクシーで行こっかな。
都内の電車は複雑すぎて未だにちょっと苦手だ。
子供の頃から、実家にいる間は大抵車で送り迎えをしてもらっていたから、公共交通機関にはあまり馴染みがない。もちろん何度か乗ったことはあるし、ひとり暮らしを始めてからは時々挑戦の意味でも電車やバスを使うけど、誰かと会う約束のある日はまだ心許ない。
今日は熊谷にお誘いいただいて、少し早めの昼食を摂ってからミュージカルを鑑賞しましょうとの予定を立てている。前回は軽くランチを共にしただけですぐに解散したので、本格的なお出掛けは初めてだからすごく緊張してしまう。
表参道でランチをしたあとは日比谷にある劇場でミュージカルを鑑賞して、それから夕飯までは適当に街をぶらぶら散策しながらお買い物でもどうですか――と提案してくれた熊谷は、すべての工程がスマートで、色んなあれこれに慣れてそうな感じがした。
「佳乃さん、こんにちは」
駅前のApple storeの前に熊谷が立っていた。
私が駆け寄るとすぐこちらに気付いて爽やかな笑顔を向けてくれる熊谷は、紺色のセットアップに革靴を合わせただけのシンプルな服装で、なのに背が高いおかげかどうか、それだけでもおしゃれに見える。
「ごめんなさい、お待たせしましたか?」
「いえ、俺が早く着きすぎちゃっただけなので」
お気になさらずと笑い掛けてくれる熊谷の案内で青山通りのほうに向かう。さすがに日曜日の表参道はかなり混雑しているため、普通に歩くだけでも少しハラハラする。
「ハナちゃんは元気にしてますか?」
「はい、今朝も私が準備してたら近寄ってきて」
「え、そんなの死ぬほど可愛いじゃないですか」
「ちょっと名残惜しかったです」
でもいざ私が家を出るとなったらどこかに隠れて顔も見せてくれなかったので、逆に私のほうが寂しく感じてしまって、完全にハナの気まぐれに翻弄されている。
「あはは、拗ねちゃったんですかね?」
「もう私への興味を失くしてしまったのかも…」
「さすがにそんな薄情じゃないでしょ」
「だといいんですけど」
そんな話をしながら歩いている間に、予約してくれていたお店の前に到着した。緑色の可愛らしい木製の扉の前には新緑が眩しい植物のアーチが設置されており、その横にテラス席が並んでいる。
白を基調としたインテリアの中に観葉植物の緑が彩りを添える店内は、すでに多くのお客さんで賑わっていた。さすが熊谷のお母様がお薦めしてくださったというお店なだけあって、かなりの人気店のようだ。
「熊谷さんもこのお店はよく?」
「いえ、俺もここは今日が初めてですね」
「そうなんですか?でも本当に素敵なお店で…」
「母に伝えておきます」
佳乃さんと趣味が合うんじゃないって、と笑った熊谷がどうぞと椅子を引いてくれる。私はそれにお礼を言って着席し、するとすかさずメニューを持ってきてくれた店員の女性から革張りの冊子を受け取った。
「何にするか決まりました?」
「えー…どうしよう、私、優柔不断で…」
「次の予定までまだまだ時間はあるのでゆっくり決めてもらって大丈夫ですよ」
ランチメニューの中から鶏肉がメインのコースか白身魚がメインのコースかで決めかねている私に熊谷は、「そういえば母はこの鱈の香草焼きが美味かったって言ってましたよ」と急かすことなく助言までしてくれる。
「あ、そうなんだ、ならお魚にしようかな…」
「なら今度肉も食べに来ましょう」
「え、あ、はい」
うっかり頷いた私に熊谷が微笑んだ。
別に、こんなのは次の約束でもなんでもない。
軽く手を挙げるとすぐに注文を取りに来てくれた店員さんに、「この魚のコースをふたり分でお願いします」と熊谷が告げているのを、そわそわとした気持ちで見つめる。
「昨日は何かされてたんですか?」
「いえ、特には、ハナと遊んでたぐらいで…」
「そうなんですか?俺は学生時代の友人と久しぶりにテニスをしてきて、さすがに年取ったなって痛感してるところで」
若干筋肉痛です、と腰のあたりを擦る。
そういえば熊谷は中高大とテニス部に所属しており、しかもかなりの腕前で、インターハイでは準決勝まで残ったとかなんとか、何故か父が熱心に力説していた気がする。
「でも、お上手なのすごいです。実は私も中高とテニス部だったんですけど運動音痴すぎて一度もレギュラーになれなくて…」
「一所懸命ご友人の応援されてましたよね」
「そう、――え?」
熊谷の妙な言い回しにきょとんとする。
それに彼は、まるで悪戯を成功させた少年のように無邪気な顔で歯を見せた。
「松泉女子のテニス部は強豪でしたからね、実は何度か試合会場で見掛けたことがあって。しかも松泉はガードの硬いお嬢様校なうえに可愛い子が多いって有名だったでしょ?それでミーハーな男はこぞって見学に行ってて」
俺もそのミーハーな男のひとりです、と茶目っ気たっぷりに肩を竦めて見せる熊谷にぽかんとしてしまう。確かに、考えてみれば熊谷の出身校も同じ都内にあるのだから、試合会場が一緒なのは当然かもしれないけど……。
「え、でも、うちは部員がすごくたくさんいて」
「そうでしたよね、本当に可愛い子多かったし」
「ならどうして私のことなんて…」
「だって――」
少し照れ臭そうにはにかんで、熊谷が頬を掻く。
「佳乃さん、一番可愛かったですから」
貴方に憧れてた男、多かったと思いますよ。
そんなお世辞をさらりと言ってのける熊谷に絶句して、二の句が継げなくなってしまう。私なんか端っこの方でのんびりしていただけの地味でのんきな部員だったから、誰かに憧れられた覚えなど一度もないのに。
「俺のそのうちのひとりですしね」
「え、あ、そんな、ご冗談を……」
「貴方との縁談の話が来た時、年甲斐もなく舞い上がってた俺のこと、今度うちの両親か兄貴にでも確かめてもらって大丈夫ですよ。多分家族すら呆れてたと思うんで」
さすがにちょっと恥ずかしいな、と顔を赤くする熊谷が手持ち無沙汰に手元のグラスに触れた。熊谷は私よりも二歳年上だから、もし本当に試合会場で出会っていたとしたら私が一年生の時だろうけど、本当に目立たない部員だったから、あまりに予想外過ぎて。
「目立たないと思ってたの絶対自分だけですよ」
「ええ、まさか、だって、私なんて…」
「綺麗じゃないですか、今も」
あの頃からちっとも変ってないですよ、と甘い仕草で目を細める熊谷に心臓が鳴る。今すぐにでも逃げ出したいような衝動に駆られるのを、理性で必死に押し留めて。
「……お、手洗いに、行ってきます」
我ながら、蚊の鳴くような声が喉から漏れた。
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「わあ、こんなところあったんですね」
食事をしたレストランの上層階には会員制のバーがあり、そこのテラス席に出ると、煌びやかな東京の夜景が一望できる。心地の良い夜風がすっと吹き抜けるそこはどうやら貸し切りで、熊谷は少し困った風に笑った。
「親父が張り切っちゃって、すみません」
「あ、いえ、そんな、嬉しいです」
「なにも貸し切りにしなくてもいいだろ……逆にプレッシャーですよね?」
ほんと勘弁してほしいんですけど、と熊谷が疲労の滲むため息をこぼした。この店は熊谷の父親の友人が経営されているそうで、せっかくだからと今夜はテラス席を貸し切りにしてくれたらしい。
「うちの親、昔から妙に過保護なんですよね」
「それは我が家も同じ感じです」
「にしたって俺もう33ですよ?むしろひとりじゃ女性とデートのひとつも出来ないと思われてるんなら心外ですよ」
いつまで経っても末っ子は餓鬼扱いですよ、と辟易した調子で毒づく熊谷はめずらしい。柚原さんのご息女に粗相のないように、と、半ば無理やり今日の行程を父親に共有させられたらしい熊谷はその時にも散々駄目出しされたとかで、ストレスが溜まっていたようだ。
「あー…ほんと頼むから放っといてくれよ」
「まあ、家同士のことですから…」
「それはそうですけど、今時縁談ってだけでも古臭いのに、デート内容まで親に口出されるんじゃ息が詰まって仕方ないですよ。ていうか息子を信用しろよ、もう少しは」
手に持ったグラスに注がれた白ワインを呷る熊谷がむっとしたように夜景を睨み、だがすぐに「余計な愚痴を言いましたね、すみません」と気を取り直すように目尻を細めた。
「いえ、熊谷さんもむっとしたりするんですね」
「そりゃしますよ、俺も人間ですから」
「でも、いつもお会いする時は余裕があって落ち着いてるから、なんだか怒ったりするイメージが全然湧かなくて…」
喜怒哀楽をどんな風に表現する人なのか。
まだお会いするのは二回目なんだから知らないのも当然だけど、でも熊谷はいつもスマートでちっとも隙が見えないから、今までそれを想像する余地さえなかった気がする。
「ええ、俺、そんな風に見えてました?」
「なんていうか、あまり考えが読めなくて…?」
「…もうそれ、完全に逆効果ですよね」
「え?逆効果って?」
意味がわからずきょとんとした。
熊谷は損な私から気まずそうに視線を逸らして。
「必死で見栄張ってたんですよ、貴方にいい男だと思って欲しくて」
ほんと、死ぬほど格好つかないな。
そう呟いて不貞腐れる熊谷は少し子供みたいだ。
不意に触れた熊谷の素顔に思わずびっくりして私が固まると、それに気付いた熊谷が、声を立てて無邪気に笑った。
「はは、佳乃さんは考えが全部顔に出ますね?」
「…それは昔からよく言われます」
「正直な人なんですね」
俺は好きだな、と衒いもなく言って退ける熊谷のほうが余程正直だ。ドキドキと動悸がする胸の鼓動を聞かれていたらと居た堪れなくて、つい顔を隠すように俯ける。
「佳乃さん」
「なん、でしょうか…?」
「――俺と結婚してくれませんか?」
唐突なその申し出に、心臓が一瞬止まったような気がした。私を見つめる熊谷の眼差しは真剣そのもので、冗談ですかと茶化して誤魔化すことさえ許してもらえない。
「好きになってもらえるように努力します、俺」
「え、あの、でも、私…」
「別に返事は今じゃなくていいので」
穏やかに微笑む熊谷の視線が心臓の一番脆く柔い部分を締め付けるから、息ができなくて。こんな風に、男の人から熱孕んだ視線を向けられたのはいつ振りだろう?
不慣れな指先が震えてしまう。
熊谷となら、幸せな結婚ができるかもしれない。
なのに――、
『優しいよね、柚原さんって』
瞳の奥に映る綺麗な横顔が少しもこころを離してくれないから、切なくて。ほんの幾度か触れただけのひんやりとした彼の体温を、馬鹿な私は宝物のように胸に抱いて、こんなに優しいひとの前で泣きたくなってしまっている。
彼のことを、いつの間にこんなにも好きになってしまっていたんだろう?悪戯めいて笑う時に細くなる目も、時折意地悪をささやく薄い唇も、私の涙を拭ってくれた繊細そうな手も、悲しいほどにまばゆくて。
もし、彼と私の世界が重なったって。
それは不幸な物語にしかなりようがないのに。
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携帯に、母からの着信が残っていた。
小さな憂鬱が胸に灯ってなんだか気分が沈む。
お風呂上がりの髪をバスタオルで乾かしながらソファーに凭れた私のお腹にハナが乗る。小さくてあたたかな子猫の体温を抱き上げて、私はスマホに手を伸ばした。
『あ、もしもし佳乃?』
耳慣れた母の声は自分のそれと似ている。
幼い頃から極端に母の遺伝子を色濃く受け継いだ私は、顔立ちも背格好も生き写しのようにそっくりだとよく周囲の人から驚かれて、それは今でも変わらない。
『今日、どうだったかなと思って…』
「…どうっていうか、あの、プロポーズされて」
え?と戸惑ったような声を漏らした母の弓子に本日のハイライトを掻い摘んで報告する。電波の向こうにいる母が今どんな顔をしているか、私には手に取るようにわかってしまう。
元々一般家庭出身の母は旅先のスキー場で偶然父と出会い、ひと目惚れをされたらしい。その後は父からの猛アタックに折れて交際を開始し、それから二年が経った頃、父からプロポーズを受けて結婚した。
『…熊谷さんのこと、好きになれそう?』
申し訳なさそうに弱った母の声を聞くのがいつも悲しい。お母さんのせいじゃないのに。窮屈なあの家の中で、誰よりも肩身の狭い思いをしているのは常に母だった。
最初は家格が釣り合わないからと親戚から父と母の結婚は猛反対を受け、だが父が『弓子との結婚を許してもらえないなら跡は継がない』とその反対を押し切って結婚に漕ぎつけた。
しかし血縁と姻戚を徹底的に区別する柚原の家では、その後も母への風当たりは強かった。さらに妊娠しにくい体質だった母が、不妊治療の末に生まれてきた子供が女児だったことで、跡継ぎすら産めなかったと未だに陰口を言われているのを何度も耳にした。
――それで、次の心労は私だ。
ひとり娘は三十を過ぎて婿も取れない欠陥品。
そう親戚連中からは散々陰口を叩かれているのも知っているのに。それでも優しく見守ってくれる父と母の足枷にはなりたくないのに。いつも私の身勝手が大事な人を傷つけて、でも愚図な私はなにも上手くやれなくて。
『ごめんね、佳乃にまで迷惑かけて…』
「そんなこと言わないで、お母さんに迷惑なんか掛けられたこと一度もないよ」
『…うん、そうね、週末また詳しく聞かせて?』
「わかった、また連絡するね」
そんな会話を最後に通話を切った。
スマホをテーブルの上に戻してため息をつく。
もしも、万が一にも――滝沢が私の気持ちを受け入れてくれたとして。私の世界はきっと、彼のことを傷つけるだけだ。母がそうであったのと同じか、それ以上に心無い悪意を、滝沢に押し付けるわけにはいかない。
「馬鹿みたいだよね、ほんと」
私は、いつも正しい選択を選べない。
過ちばかり手放せずに、みんなに迷惑を掛けて。
甘えるように立ち上がったハナの頬をそっと撫でながら、小さな体を抱き上げる。自分がどの道を選ぶべきかなんて、残酷なほど明瞭に、目の前に提示されているのにね。
「もうほんと、嫌だなあ…」
どうしてこんなに私の世界は狭いんだろう?
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
「なんかちょっと久しぶりですね」
公園のベンチで本を読んでいた私の足元にふっと影が差して、すぐ顔を上げると二週間ぶりに見る滝沢の姿があった。
「あ、こんにち……あれ?アルは?」
「今朝は弟と朝から走りに行ってて」
「あれ?でも弟さんってプラハにいるんじゃ…」
「今一時帰国してるんです」
それで昨日の晩からうちに泊まってて、と言って滝沢が私の隣に腰を下ろした。朝早い公園はまだ静かで、時折通り過ぎる人々はみんな私たちには気付くこともなく立ち去ってゆく。
「先週は来られなかったですよね、ここ」
「あ、はい、あの……ちょっと予定が入ってて」
「なにされてたんですか?」
「えっ?あ、え、っと、それは…」
熊谷の顔が頭に浮かんで思わず口籠ってしまう。
滝沢には本当のことを知られたくなくて。
適切な言葉を探すようにふらふらと脚元に視線を泳がせても、誰からも救いの手は差し伸べられない。焦燥だけが喉元を競り上がって、今私だけが酷く滑稽で。
「俺が当ててあげましょっか?」
面白がるような滝沢の声に、俯けた顔を上げる。
「あの素敵な紳士とデートだったんでしょ?」
にっこりと楽しげに笑って正解を言い当てる滝沢に、心臓が冷や水を浴びたように冷たくなる。思わず震えた指先が、縋るものを探し求めるようにスカートの裾を掴んだ。
「ど、うして、そのことを……?」
「偶然柚原さんがあの時の彼と表参道で歩いてるのを見掛けたんですけど、誰が見てもお似合いのふたりで、絶対デートだろうなってひと目でわかりましたよ?」
羨ましいなあ、と呟く滝沢の声が軽やかなことに傷ついたって意味はないのに。最初から私なんかに気がないことくらい知っていたのに、馬鹿な期待を寄せるから。
お願いだから笑わないでって。
心の中だけで叫んでも、滝沢には届かないから。
「それでね、俺と柚原さんはもちろん清く正しい友人関係ですけど、もしこの先も順調に彼との縁談が進むなら、友達とはいえ、こんな風に他の男と気安く会ったりするのもお相手にすれば面白い話じゃないと思うんですよ」
「………え?」
滝沢の言葉で思考がこんがらがる。
今から、すごく悲しい言葉が聞こえてきそうで。
まるで何かを懇願するような切実さで見つめる私に、彼は気付いているだろうか?湿気を孕む風が次の季節を匂わせる。
「だから俺、もうここには来ないつもりです」
最後に顔だけ見ておけてよかったと気障なことを簡単そうに言って退けられるのは、ほんの少しも滝沢に邪な感情がないからだ。ただ友人のような関係を築いた私を慮って、この先の多幸をなんの他意もなく祈って。
それが、焦げ付きそうなほど辛くて。
なんで私はいつも片思いばかりしちゃうのかな?
「――待、って、」
愚かな衝動があふれる。
嫌だよ、お願いだから行かないで。
そんなこと告げたって彼を困らせるだけなのに。
「い、かないで……」
掴んだ指先がひんやり冷たい。
不均衡な世界の断層に、私だけが落ちてゆく。
「あ、なたが――すき、なんです」
瞳の淵からはらはらとこぼれ落ちた涙が頬を濡らす。そんな私を見つめる滝沢は、痛々しげに眉を顰めながら、僅かに逡巡するような間のあとで私の指をほどいた。
一秒、二秒、――沈黙が首を絞める。
白く霞むひかりの向こうで、虚しい風が吹いた。
「――ごめん。俺は君には釣り合わないし、別に好きでもないから」
琥珀の瞳から、春が消えてゆく。
それがどうしようもなく悲しくて息ができない。
静かに立ち上がった滝沢は、それきり口を噤んだまま踵を返した。水色のシャツに包まれた背中が遠ざかってゆくほどに、寂しくてほの暗い永遠は忍び寄ってくる。
白く儚い霞光に春は攫われて。
もう二度と、私を抱き締めてはくれないだろう。