永遠の終わりに花束を

#12 永遠の終わりに花束を

「映画はよく観られるんですか?」
映画館の売店でポップコーンを買ってくれた熊谷が、それをつまみ食いしながら尋ねてくる。私はそれを微笑ましく思いながら、「はい」と返事をして隣に並ぶ。
「そんなにたくさん観るわけじゃないですけど」
「俺、普段あんまり観る機会なくて」
熊谷から三度目のデートに映画でもどうかと誘われて、最近公開したばかりの恋愛映画をふたりで観に来た。土曜日の映画館は大盛況で、フロアは多くの人でひしめき合っている。
少しロング丈な黒いジャケットをさらりと一枚羽織っただけの熊谷は、3番スクリーンが開場したとのアナウンスに反応した。行きましょうか、と背中に添えられる熊谷の手に従って、スタッフに入場券を手渡す。
「佳乃さんは恋愛映画が好きなんですか?」
「私は雑多に色々見るんですけど、今回のこれは元々好きな監督の作品で」
「ああ、映画監督とかも把握されてるんですね」
「何人か知ってる程度なんですけど…」
思考回路が単純なので、私はうっかり何かの映画に感動したりすると、すぐに影響を受けて色々と調べはじめる癖があるのだ。監督や脚本家が誰なのかはもちろん、撮影されたロケ地なんかを調査して、Googleマップのストリートビューを駆使して勝手にその場所に行った気になったりする寂しい遊びをしている。
「あはは、そんなことしてるんだ」
「ほんとは実際に行きたいんですけど…」
「お休みにでも行ったらいいじゃないですか?」
「…車の運転が苦手なんです」
正直に白状すると、熊谷がさっきより盛大に声を立てて笑うから顔が赤くなる。そんなに思い切り笑わなくても、情けない理由なことは自分が一番よくわかってるのに。
「はは、いや、あんまり可愛い理由でつい」
「…別に可愛くないです」
「拗ねないでくださいよ」
ごめんね、と身を屈めて顔を覗き込んでくる。
真っ黒な熊谷の瞳に無邪気な色が浮かんでいるのを見つめながら、大丈夫、と自分に何度も言い聞かせる。とってもいい人だから、すぐに恋だって出来るはずだよ、と。
「大号泣ですね、佳乃さん」
「だって、最後でまさか死んじゃうなんて…」
映画の上映が終わって場内にゆっくりと明かりが灯ると、私は慌ててズビズビと鼻をすすりながらハンカチで目元を拭う羽目になった。隣に座る熊谷はそんな私に、「いい映画でしたね」と背中を擦ってくれる。
「早く出ちゃいましょう、俺ら一番端なので」
「あ……そうですよね、はい」
「とりあえず落ち着くまで車に避難しますか」
「ごめんなさい…」
気を遣わせてしまって恥ずかしい。
でも、ここまで泣ける映画だったなんて。
行きましょう、と照れる隙もないほどスマートに私の肩を抱いた熊谷は、そのまま映画館を出て屋外の立体駐車場に停めた車のところまで早足で連れて行ってくれる。
「少し早いけど、夕飯にしましょうか」
「あ、はい、そうですね…」
「今夜はどこも貸し切りにするなって父に念押ししてきたのでご安心を」
茶目っ気たっぷりにそう肩を竦めて、熊谷は車のエンジンを起動させた。そのまま器用に立体駐車場を滑り降りた車は公道に出て、週末の混雑した道路を赤坂方面に向かって直進する。
夕方に映画の上映が終わった後にお茶を挟むと逆に夕食を食べるのがしんどくなるだろう、と熊谷が早めの時間に予約を取ってくれたレストランは赤坂で人気の中華料理で、今から上海蟹を食べるのが楽しみだ。
「中華お好きですか?」
「はい、昔から蟹が大好きなので」
「あれ美味いですよね、俺もすごい好きで」
お互いの好きなものが重なるとほっとしてしまうのは変だろうか?そんな自問をはじめたらキリがない。きゅっと口角を持ち上げながら顔を上げると、一瞬だけ静かに流れてきた熊谷と目が合ってきょとんとする。
「どうかしましたか?」
「ん?はは、いえ、なんでもないですよ」
もうすぐ着きますから、と言って熊谷がシートに背中を預けた。ハンドルを握る指先が、トンっとその淵を一度軽く叩き、それきり緩やかな沈黙が車内に訪れる。
(なにか話題を探さなきゃ…)
焦る視界の端に、散歩する大型犬の姿が見えた。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
「佳乃さん、少し話せますか?」
人気のない高架下に停められた車の中には微かに波の音が響いている。海が近いせいだろう。夕食のあとで私を家まで送ってくれるという熊谷のお言葉に甘えたら、突然そんなことを切り出されて一瞬身構えてしまう。
「え、あ、はい、なんでしょうか?」
「先日俺がしたプロポーズについてなんですが」
「あ、あれは、あの、もちろん考えていて、今日お返事をしようと──」
結局タイミングを見計らっている間に夜になってしまったけど、忘れていたわけじゃない。むしろ朝からどう切り出すべきか迷い続けて頭がパンクしそうなほどだった。
そう、必死に言い訳を言い募った。
だけど熊谷はそれに何故だか寂しそうに笑って。
「いえ、もう返事はしなくていいです」
シートベルをを外した熊谷が体ごと私のほうに向けて、穏やかな口調でそう告げた。私は咄嗟に理解が及ばなくて、品よく整った熊谷の顔を不躾に凝視してしまう。
「え、あの、それって……」
「この縁談はなかったことにしましょう」
「そ、れは……わたしに、えっと、なにか粗相があったのなら──」
動揺と混乱に声が掠れて震えた。
熊谷に、なにかしてしまったのだろうか?
遠くに聞こえる不規則な波音が不安を駆り立てるようで、息が苦しくなる。
「違うんです、そうじゃなくて」
「わ、わたし、が不愉快な思いをさせ──」
「本当にそういう話じゃないんです。佳乃さんは何も悪くありません。ただ、今日ずっと俺の横で無理をしてる貴方を見てたら、このまま不都合なことに目を瞑って縁談を進めても、絶対いつか限界が来ると思って」
泣き出しそうな私の手を熊谷が掴んだ。
その大きな手のぬくもりが私には馴染まなくて。
「だって佳乃さん、あの彼の隣にいた時とは全然違うから。嘘がつけない正直なところも素敵だと思ってますけど、でも、やっぱり毎秒貴方の心が俺のほうに向いてないことを思い知らされるのは結構辛いんですよね」
下手な嘘に一生懸命だから、佳乃さんって。
そう困ったように微笑んだ熊谷の言葉に涙がこぼれてしまう。どうして、こんなに優しい人を私は傷つけることしかできないのだろう?今、この手のひらから伝わるぬくもりに恋をすればすべてが上手くいくのに。
「多分どれだけ頑張って俺のことを好きになろうとしても無駄ですよ。恋愛が努力でどうこうなるんだとしたら、きっとこの世界から大半の失恋は消えちゃいますから」
「あ、の、でも、わたし──」
「はは、こんな泣かれると逆に困りますね」
俺は大丈夫ですから、と抱き寄せられた熊谷の肩口からは優しい香水の匂いがした。宥めるように背中を叩く穏やかなリズムが余計に涙を誘うからどうしようもない。
月の光が涙で滲んで揺れている。
正解を掴み損ねたこの手の中にはなにもなくて。
「だけど、貴方に触れられた最初で最後がこんな別れ際だなんてやっぱりちょっと寂しいですね」
悔しいなあ、と飾らない言葉を囁いた熊谷は、今どんな顔をしているんだろう?まるで世界から切り取られたみたいな夜の隙間で、どこまでも平行線を辿る私たちの心は、それぞれ独立したままどこにも行けずに。
本当にごめんなさい──と。
なんの効力も持たない言葉だけが、夜に消えた。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
「ただいま、ハナ」
熊谷と別れて帰宅した私をめずらしく玄関まで出迎えてくれたハナを抱き上げて、部屋に戻る。無人だった部屋はどこか空気が淀んでいるような気がして窓を開けた。
ふわりと丸い夜風が頬を撫でる。
窓から見える街の明かりはどこかよそよそしい。
「あ、荷物届いてる」
何気なくスマホにマンションの管理人室から『お荷物をお預かりしています』という案内メールが届いている。このマンションには宅配ボックスが各世帯ごとに設置されており、荷物が届くと自答的に配送完了メールが届く仕組みになっている。
「ちょっと荷物取りに行ってくるね」
小さなハナの体をソファーに置いてバッグを手に取り、帰ってきたばかりの廊下を引き返す。
1階のエントランスを通り抜けてオートロックをくぐると、すぐ右手に宅配ボックスが設置されている。モニターに開錠番号を入力していれば、外側の自動扉が開く音がして、反射的にそちらに視線を向けた。
「──…──、──」
私は一瞬、すべての時間を止めた。
ここにいるはずのない人が突然姿を現したから。
けれど、その人は珍しくとても不機嫌そうな顔をしてツカツカと歩み寄ってきたかと思えば、無遠慮に私の腕を掴んだ。
「あんな男と結婚なんかしないほうがいい」
「…え?」
咄嗟に、意味が理解できなかった。
私は混乱のまま侵入者──滝沢の顔を見上げた。
「あんな最低の男と結婚なんかしたってまた不幸になるだけですよ。貴方のことだから馬鹿正直に上っ面だけの優しい言葉に騙されたんでしょうけど、あとで後悔したくなければあの熊谷とかいう男はやめたほうがいい」
次から次へと言い募られる滝沢の言葉にぽかんとしてしまって、反論を挟む隙もない。だけどその言い草はあまりに一方的で、さすがの私も黙って見過ごせなかった。
「な、なんで、滝沢さんは宗輔さんのことなにも知らないのに、そんな、勝手に決めつけるようなこと言うほうが酷いです…!」
「別に酷くていいですよ、否定しませんし」
「そ、んな、開き直って…!」
貴方はあの人のこと、何も知らないでしょう!
大きな声を出し慣れていないせいで掠れた私の叱責を浴びても、滝沢は眉ひとつ動かさないから余計に憎らしくて。
「貴方はアイツのこと知ってるんですか?」
「し、知ってます、だって…」
「親同士が勝手に決めただけの縁談相手でしょ?それとも、もうそれ以上の関係ですか?俺のことは一時の気の迷いだって気づいて、さっさと別の男に乗り換えました?」
どうして、そんな酷いことばっかり。
悔しくてあふれ出してきた涙を滝沢が鼻で笑う。
「そんなに泣くほどあの男が好きですか?」
何も、知らないくせに。
どうして今さら引っ掻き回すの。
貴方がこの手を振りほどいた時から、私は──、
(ちゃんと諦めなきゃって、思ってたのに)
他の誰にどう思われてもいいから貴方だけには誤解されたくないなんて、この期に及んで、本当に馬鹿みたいだ。カーディガン越しに伝わる滝沢の指先の冷たさに今も焦がれてると言ったら、また迷惑がるくせに。
反対の手で、滝沢の服の裾を掴んだ。
ねえ、どうして貴方は放っておいてくれないの?
「…わ、たしは、まだ、あなたのことが」
恋がこぼれてしまったら、もう後戻りできないとわかっているのに。また貴方に疎まれて嫌われてしまうことが、この世界のなによりも恐ろしいのに──でも。
「──楽しかったねえ!」
そのとき、不意に子供の声が響いた。
また自動扉の開く音がしてぞろぞろと数名の気配が近づいてくる。すると滝沢ははっとしたような顔をして、自分の体を盾にするように私を他の住民の目から隠してくれる。
ボロボロとこぼれる涙が滝沢の着ているシャツに吸い込まれてゆく。こんなに苦しいのに、なんで私は滝沢さんのことを嫌いになれないんだろう?
震える指先はまだ縋りつくように滝沢の服の裾を掴んだまま、もう二度と離さなくて済めばいいのにと往生際の悪いことを思っている。賑やかな気配が遠退いてゆくのにホッとしていると、不意に私の手の甲に滝沢のひんやりとした手のひらの感触が重なって。
「…ごめん、泣かせるつもりじゃなかったのに」
もう片方の手が私の頬に添えられる。
頬に残る涙の跡をなぞる指先の──切ない逡巡。
絡み合った視線の先にある滝沢の瞳がまるで私に縋りついているように見えるのは、何故なんだろう?そんな都合のいい錯覚を起こしたって少しも報われないのに。
「わ、たしも、大きな声出してごめんなさい…」
「いえ、今のは俺が悪かったので」
「あ、あの、えっと、こんなところで立ち話もあれなので……お話の続きはお部屋で」
こんなマンションの出入り口の真ん中で私たちが言い争っていたら、他の住民がびっくりして、最悪管理会社に通報されかねないし、色んなひとに迷惑を掛けてしまう。
そう伝えると滝沢は、
「…俺のこと部屋に上げていいんですか?」
あまりに今さらなことを、困ったように呟いた。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
「お邪魔します」
気まずそうな声音で律儀に呟きながら靴を脱ぐ滝沢に、来客用のスリッパを出す。すると私たちの気配に気づいたらしいハナが、扉の隙間から顔を覗かせて小さく鳴いた。
「あ、ハナ、ちょっと大きくなってますね」
「最近ちょっと食べ過ぎてて」
「可愛いな」
俺のこと覚えてる?と軽く身を屈めた滝沢の足元にすり寄るハナは、普段はどちらかというと人見知りをするほうだから、もしかしたら拾われた日のことを覚えているのかもしれない。
「突然家に押しかけたりして本当にすみません」
「い、いえ、あの、宗輔さんの…」
「結婚するんですか?」
ハナを抱いたままの滝沢がソファーに腰掛けることもなく、核心を突いた。ゆるやかに琥珀の色を濃くしているハナの丸い瞳が、不思議そうに私と滝沢を見比べる。
ああ、千切れてしまいそうに切ない。
こんな風に貴方が今、目の前に立っているのに。
「しないです、さっき振られましたから」
ぎゅっと拳を握り締めながら、できる限り毅然と見えるように言葉を声に乗せた。それに滝沢は困惑したような顔で眉を顰めるながら、「は?」と不穏な声を漏らす。
「どういう意味ですか、それ」
「だ、だから、そのままの意味で、宗輔さんには振られちゃったので──」
「いや、意味わかんねえよ、結婚するんじゃ」
「破談になったんです…!」
ああ、なんでこんな不名誉なことを叫ばなきゃいけないんだろう?普段滅多に大きな声なんて出すこともないのに、今日は厄日なのかもしれない。
驚いたように目を瞠った滝沢が口元を手で覆って一瞬動作を停止した。そしてなにか悟ったみたいに小さな唸り声を上げると、ずるずるとその場に崩れ落ちる。
「あー…もう、そういうことかよ、クソ……」
「え?あ、あの、大丈夫ですか?」
突然床にしゃがみ込んでしまった滝沢に慌てて駆け寄り、顔を覗き込む。ハナは素っ気なく滝沢の腕から飛び降りると、しなやかな動作でどこかに行ってしまう。
恨めしげな滝沢と目が合った。
その瞳には、やっぱり春がたおやかに泳いで。
「……なんで振られたの、あの人に」
わざわざ私の口から聞き出さなくたって貴方なら全部お見通しでしょう?なのに狡いよ。私ばっかり格好悪くて、無様で、何度だって不釣り合いを思い知らされて。
「もう、理由は言いました」
優しいぬくもりに抱き締められる。
長い腕の中に沈むと、何故かまた涙があふれて。
真っ白で無機質な蛍光灯の光の奥に、淡い若葉の緑が滲む。色褪せた世界から色彩がゆっくりと蘇り、胸の奥で春が口遊む音楽は、笑っちゃうほど甘い音色をしていた。
「ごめん──あの日、酷いこと言って」
子供みたいにしゃくりを上げて泣く私の背中を丁寧に擦ってくれるこの手の優しさを、疑ったことはない。それでも、悪意とは対極にある場所にも悲しみは佇んでいることをもう知っているから。
ふるふると首を振るばかりでなにも答えられない私の頬をそっと掴んで、自分のほうに向ける。綺麗な琥珀の水面に映った私の泣き顔があんまりに醜くて顔を背けたくなったけど、滝沢がそれを許してくれなくて。
「あの日、俺が君とは釣り合わないって言ったのは本心だったけど──」
俺は君にふさわしくないけど、でも──、
どこか苦しげな躊躇と葛藤がその瞳に反射して。
「好きじゃないなんて、嘘だった」
なにかを振り切るみたいに告げられた告白が胸を貫いた。上手く息ができない。眦をすべり落ちる涙のしずくを指先でそっと拭いながら、滝沢は仕方なさそうな顔をする。
「柄にもなく下手な嘘を真に受けて、必死で君の元に走って、なのに八つ当たりして泣かせてたら世話ないんだけど──君の前だと俺は格好付ける余裕もないらしい」
ほんと年甲斐もなくて嫌になるよ。
そう言って、照れ臭そうに目を細めながら笑う。
ねえ、今言ってくれたこと、全部本当ですか?滝沢の唇から紡がれた言葉のひとつひとつがあまりにあまやかで美しいひかりを帯びているから、そのまぶしさに眩暈がする。
貴方には、誰よりも幸せでいて欲しい。
そう祈った心に、嘘はひとつもなかったけれど。
もしもあとひとつだけ、傲慢な私の祈りを貴方が許してくれるのなら──…、
「わ、たしは、あなたのこと、きっと不幸にしてしまうけど、それでも──」
身勝手な懇願だってわかってるけど──お願い。
どうか私を、貴方の傍に置いて。
「俺の幸せは君の形をしてるから──俺は、君が傍にいてくれるなら、何が起こっても不幸にはなりようがないよ」
永遠の終わりに立っていた貴方が、花束のように彩り豊かでいい香りのする言葉とともに私を抱き締めてくれる。情けない私の涙を拭って、もう大丈夫だよと微笑む琥珀の瞳には、やっぱり綺麗な春が棲んでいる。
私の世界はこの人にきっと優しくない。
でも、その春は、なにを賭しても私が守るから。
「だからもう泣かないで、柚原さん」
まるで子供でもあやすみたいに頭を撫でてくれる滝沢の腕の中で、いつまで経っても泣き止まない恥ずかしい飼い主を、ハナが少し遠くから呆れたように見つめていた。
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