永遠の終わりに花束を

#13 あまやかで優しい宵口

男女交際は、とても照れ臭い。
というかあまり胸を張れる経験もないので。
涙が枯れるまでひとしきり泣いて、ようやく落ち着いた私は今そわそわと滝沢を待っている。家にアルを置いてきたままだからよかったらこっちに連れてきてもいいかな?最近柚原さんと会えないのが寂しいのか機嫌悪くてさ、なんて嬉しいことを言ってもらったので。
「──ワンッ!」
「あ、アル、久しぶ──きゃああ!」
「ちょ、おま、そんな勢いで飛びついたら…!」
部屋に入って来るなりすぐに私を見つけたアルが突進する勢いで飛び掛かってきて、思い切り尻餅をついたまま押し倒されて襲われてしまう。もう字面は完全に事件だ。
「アル、久しぶり、元気だった?」
「ここのところ俺がもう公園は通らないって別の道選ぼうとするたび不貞腐れて歩くのボイコットしてたから、運動不足で多分ちょっと肉ついたんじゃねえかな?」
心なしか太った気がする、と今度はお腹を見せて床の上に寝転がるアルの体をわしゃわしゃとふたりで撫でた。ダイニングテーブルの上ではハナがやや怪訝そうな顔をしながら、見知らぬわんこを警戒している。
「急にデカいの連れてきてごめんな」
「ハナは猫の習性なのか、ちょっと人見知りで」
ハナを抱いた滝沢がソファーの上に行儀よくおすわりするアルのほうに来て、「あのお爺ちゃんは多分結構優しいよ」とふたりの顔を近づけさせる。
「仲良くなってくれるかな?」
「アルは結構温厚な性格だし大丈夫と思うけど」
「ハナも人見知り期過ぎたら割りと甘えたかも」
「なら、ちょうど相性いいかもな」
鼻先が触れ合いそうな距離まで近づいた大型犬と子猫は、お互いどこか興味深そうに真ん丸な目で見つめ合っている。
ふたりが自然と慣れてくれるまで人間たちはその様子を見守ることにして、とりあえずハナを解放した。アルもさっきまでの興奮が少し落ち着いたのか、私の膝の上に顎を乗せながら、ソファーで寝転がっている。
「目元、冷やさなくて大丈夫?」
「もう手遅れな気がするからいいかなって」
「まあ明日の朝、もし目が開かなくてまた泣く羽目になったら責任は取るよ」
そっと私の目元に触れた指先のひんやりとした感触に、心臓が跳ねた。そんな私の動揺をすっかり見透かしたかのように、悪戯めいて口元を歪める滝沢は少し意地が悪い。
「…も、もう、泣きません」
「俺ら同い年だしさ、もう敬語よくない?」
「え?あ、そう、だね……?」
「はは、なに、なんでそんな不慣れなの?」
別に俺が初めてってわけでもないのに、と囁いた滝沢の指先が眦から頬に滑り落ち、そのまま首筋を辿る。その仕草は今まで何度か触れ合ってきた接触とはまるで違う妖艶さを孕んで、ざわりと背筋が粟立った。
「だ、だって、そりゃ…」
「こういうのは久しぶりだから?」
「ひさ、しぶりって、言うか、ええっと……」
疑いなどなにも持っていない瞳が私を覗き込んでくるから居た堪れない。だって、おそらく滝沢が当然のように積み上げられていると思っている経験を、私はほとんどと言っていいほど、何もしたことがない。
「……も、もし、これから、滝沢さんと唇が触れ合ったら、それがわたしのファーストキス、だと思ってくだされ、ば」
初めてだから、不慣れは当然なの。
私の吐息が情けない羞恥に震えて空気を揺らす。
近い距離で目が合ったままの滝沢はパタリと思考停止したように固まって。
「え、ちょ、待って、だって君、婚約して──」
「最初の婚約のとき、まだ大学生で、そういうのはちゃんと籍を入れてからって、巳影く──夕鷹のお兄さんが、言って」
子供の時の名残りで手を繋いでくれたことはあるけど、それ以外のことは、全部きちんと手続きを踏んで正式な夫婦になってから──というのが巳影に出された条件だった。私としてもさすがに真面目すぎると何度か駄々をこねたけど、それが嫌なら佳乃とは付き合えないと言われて渋々条件を飲んだのだ。
「いや、なんなのその聖人君子、ほんとにあの豊川くんと同じ遺伝子?」
「性格は正反対の兄弟だったから……」
「えー…、嘘だろ」
それの後釜が俺ってこと?と項垂れるように頭を抱えてしまった滝沢にハラハラした。膝の上ではアルが不思議そうな顔をして、私たちのやり取りを傍観している。
「あ、あの、重い、ですか」
「そういう話の次元にいないよ、今」
「でも、全然、好きなように扱ってもらって…」
「そんなの出来るわけないだろ」
窘めるような滝沢の視線がキッとこちらに向けられると、緊張感が高まる。硬直する私の頭を抱え込むように回された腕の中で、もう瞬きすらする余裕がない。
「本当に、全部はじめて?」
吐息が頬を掠めるほどの距離が、心臓に悪くて。
「は、はい…」
綺麗な指が頬を撫ぜる。
あからさまなくらいに息が震えて。
膝の上に置かれたアルの前足をきゅっと掴んだ。
「──佳乃」
とても、とても優しくて甘い声。
触れたら溶けてしまいそうで、恐ろしくて。
けれど私の臆病を塞ぎ込むみたいに淡く触れた唇の熱は、あまりに愛おしくて。ほんの一瞬の間の微かな接触のあと、まだすぐ目の前にある滝沢の瞳と目が合うと、全身がじんと痺れてしまうほど堪らなく照れ臭い。
「…なんか俺、あとで豊川くんに殺されるかも」
「そ、れは私が、阻止します」
「頼りにしてる」
親愛のこもったキスを、今度は頬に。
はにかむように口元を歪めながら滝沢が笑って。
一度触れ合ってしまったら、ほんの少しの隙間も名残惜しい。筋張った滝沢の首筋に顔を埋めると清潔そうな洗剤の香りの中に、僅かに苦い匂いが混じっている。
「わ、たしも、下の名前で呼んでもいい?」
「もちろん、お気に召すままに」
「…直樹くん?」
返事の代わりに、またキスをされる。
ふわりと柔らかな感触が唇にもたらされるたび変になってしまいそう。ずっと抱き締められたままの体が邪な熱を孕んで、どんな顔をしたらいいのかわからない。
「豊川くんの兄貴は心底いい男だったんだな」
「…え?どういう意味?」
「秘密」
そう言って、甘えるみたいに私を抱き締める。
子供みたいなその仕草が可愛くて。
ふふ、と小さく笑みを漏らしながら滝沢の背中に腕を回した。都合のいい夢みたいな夜だ。こんなに幸せでいいんだろうかと、夢から覚めてしまう朝に怯えるほど。
「あ、ねえ、そういえば宗輔さんに会ったの?」
「…さっき近所のコンビニでな」
「なんか下手な嘘がどうとかって…」
滝沢があんな風に、他人に対する嫌悪感を露わにするところを初めて見た。ふたりの間にどんな会話があったのかわからないけど、もしも熊谷に対する誤解があるならきちんと解いておかないと。
そう思って滝沢のほうに向き直った私に、「別にもう誤解とかでもねえけど…」と歯切れの悪い空気を垂れ流しながら、滝沢がプイッと明後日の方角に目を逸らす。拗ねた子どもみたいな滝沢の仕種なんて、逆に新鮮だ。
「ねえ、宗輔さんとなに話したの?」
「……佳乃のこと貶めるようなこと言われて俺がついカッとなっただけ。まあ、あの人と結婚する前提みたいな感じで喋ってたから、多分俺のこと煽る目的でわざと嫌な男を演じたんだろ。ほんと余計なお世話だけど」
俺、坊ちゃん育ちってあれだから嫌い、と口端を曲げながらむくれている。それにびっくりしていると、不意に上目遣いなアルと目が合って思わず噴き出してしまう。
「ふ、あはは、直樹くんって、普段はスマートで格好良い大人の男の人って感じなのに、時々妙に卑屈なとこあるよね」
「…卑屈って言うのやめてくれる?」
「私のことも釣り合わないとか言って振ったし」
「実際釣り合ってはないだろ」
こんな良家のお嬢さんとさ、なんて。
不貞腐れてそっぽを向く背中がとても愛しくて。
ねえねえ、と紺色のトレーナーに包まれた背中を人差し指で突っつくと、まだ不機嫌そうなままの瞳が振り返る。
「卑屈な男になにか御用で?」
「そんなに怒らなくてもいいじゃない」
「あのさ、あんまり煽って俺が実力行使に出たら困るのは佳乃だよ?」
ソファーの背凭れに滝沢が手を突く。
突然距離が縮まったことに、一瞬息が止まって。
どこか挑発的に眇められた琥珀の瞳。細長くて繊細そうな指先にそっと耳元を撫でられると、肌が不穏にざわめいた。序の口のような接触だけでも心臓が暴れて──でも、
「……こ、まったりなんか、しない」
経験なんて皆無だけど。
でも、純粋無垢な少女と一緒にされても困る。
勢い任せな私の言葉に驚いたように目を丸くした滝沢が、その真意を探るように眉を顰めた。どこまで本気か、確かめるみたいに。だけどそんなの無意味な作業だ。
「好きに、扱っていいって、ほんとだよ」
貴方にならなにをされてもいい。
そんな献身の形は、盲目的で愚かだろうか?
あからさまに初心者向けだったさっきまでとは正反対に、乱暴で獰猛なキスに呼吸を奪われる。割り入るように咥内に侵入してくる濡れた舌先の感触が生々しくて、脳髄がどろどろに溶けてしまうかと思った。
「佳乃ってさ、なんでそんな無駄に勇敢なの?」
「…た、ぶん、馬鹿正直なの」
「ほんとだよ」
そう、呆れたように苦く笑って。
引き返すなら今だよと、滝沢の目が言っている。
でもね、そんな選択肢が存在するなら、最初からこんなことにはなってない。朝の淡いひかりの中で、貴方に出会ったあの瞬間から、もう物語は走り出していた。
「…わ、たしじゃ、嫌ですか?」
それに今度こそ、手離したくない。
貴方のことを繋ぎ止めるものなら全部欲しくて。
そんな、私の強欲を許して。貴方を私と同じ地獄に引きずり込んで、もう永遠にだって閉じ込めてしまいたいと思っている──身勝手で残酷な私を嫌ってしまわないで。
「……アル、お前ここで大人しく待てしとけよ」
なにより愛しい愛犬の頭をわしゃわしゃと撫でた滝沢に、アルは私の膝から起き上がって、おすわりの姿勢を取る。賢くて忠実な彼は、私たちの会話の意味も全部理解しているのではと少し不安になってきて、今さら込み上げてくる羞恥心で顔が火照ってしまう。
「そういえばハナは?」
「…多分客間のほうに逃げちゃった」
「一応探してくるから佳乃はそこで待ってて」
そう言ってリビングを出て行く滝沢の背中を見送りながら、あまりに居た堪れなくてぎゅっとアルに抱き着いてしまう。豊かな白と黒の毛並み溺れるように顔を埋め、自分のそれよりもあたたかな体温を感じる。滝沢の傍にずっとこのぬくもりが寄り添っていたことは、もしかしたらとてつもなく美しい奇跡だったのかもしれない。
「アルに抱き着いてないで早くおいでよ」
どこか煽情的な、低い声。
リビングの扉の前に立っている滝沢が気怠げで。
最後にするりと私の頬に額をこすりつけたきり伏せって目を閉じたアルは、やっぱり、なにもかもお見通しな気がした。
「散々煽って、あとで泣いてやめてって言っても絶対やめてやんねえからな」
「…そ、そんなこと、言わないもん」
「まじでその無鉄砲、俺以外の前で出すなよ」
おずおずと立ち上がって滝沢のほうに歩み寄った私の手首を掴んで、寝室のドアを閉める。部屋の真ん中に置かれたベッドにそのまま押し倒されながら、自分の上に覆いかぶさるような体勢を取る滝沢の顔を見上げた。
「ほんとすげえ可愛いな、柚原さん」
「─ッ、ひ、待って」
「やだよ」
絶対やめないって言ったろ?と耳元で囁かれると変な気分になってしまう。濡れた舌をねっとりと耳朶に這わされ、体の芯が疼く。器用にワンピースの裾をたくし上げたもう片方の指先が、太腿の内側をなぞった。
「どこが好きでどこが嫌か、ちゃんと教えて」
「わ、わかん、ない、そんなの」
「こういうのは恥ずかしがらず正直に言わないとお互い良くなれないんだよ。だから、佳乃も俺に気遣わなくていいから」
怯える私を宥めるように、そう囁いて。
額に愛情深げなキスをくれる滝沢が一等素敵で。
だから余計に困ってしまう。ずっと繋がれたままの指先にきゅっと力を込めて握り返すと、滝沢が小さく首をかしげた。
「ぜ、ぜんぶ、うれしい、よ」
触れられて嫌な場所なんて、どこにもない。
滝沢の指先がなぞった場所から次々甘い熱に犯されて、気が触れてしまいそうなぐらい。誰かに自分のすべてを委ねるなんて恐ろしいことのように思っていたけれど、そんなのは根本から全部覆されてしまった。
「──お、っまえだけはまじで……そんなに俺の理性試して楽しいかよ?」
「わ、わたし、変なこと、なにか、言った?」
「これだからお嬢様は……」
本気で制御利かなくなったらどうしてくれんだと悪態をついて、私の口を塞いでしまう。滝沢が正直にって言うから答えたのに、何故怒られたのか頭がぐるぐると混乱して眩暈がする。
その間にあっさりとワンピースを脱がせた滝沢の手が胸元を辿って、下着のホックを外した。独特の解放感とともに沸き上がってくる羞恥に思わず腕で胸元を隠したが、そんなささやかな抵抗は当然無意味で。
「どこ触られても嬉しいし俺に何されてもいいんじゃなかったのかよ?」
「─んっ、あっ、そう、だけど」
「ならもう後は素直に感じとけよ、お嬢様」
皮肉ぶって鼻を鳴らす滝沢が、淫らに尖った胸の先端を口に含む。敏感なそこを舌先で転がすように愛撫されるともうまともに喋れなくて。自分の口から漏れる嬌声は、まるで発情期の雌猫のように淫猥だ。
「すげえ濡れてんな」
「んっ、あ──ッ、や、そこっ」
「あんま声漏らすとアルが聞いてるかもよ?」
濡れそぼったショーツの中に潜り込んだ滝沢の手に外側の蕾を引っ掻かれると、声を堪えているのも辛い。咄嗟に自分の口を自分の両手で塞いだ私を見下ろしながら、滝沢は意地悪く、その手の甲にキスをする。
「こんな上手に感じれて偉いじゃん、柚原さん」
「―~~ッ、い、じわる、しないで」
「さっきの仕返しだろ?」
ほんと、仕返しって、なんの話なの?
涙目になりながら滝沢を睨んでもどこ吹く風だ。
その時、自分の内側にくぷりと埋められた中指の感覚に体が強張った。未知の感覚に喉元から競り上がってくる微かな恐怖。咄嗟に滝沢の首筋にしがみつくと、「痛い?」と労わるようなその声音に安堵が芽生えた。
「…だ、だい、じょうぶ」
「このまま最後まで出来そう?」
「私が泣いて、も、やめないんじゃないの…?」
このまま途中で直樹くんが嫌になってしまったらどうしようと不安げに顔を上げると、夜の中でも綺麗なままの琥珀と目が合う。するとその美しい瞳が、それはそれは愛おしげに私を見つめるから蕩けてしまいそうで。
「うん、でも、佳乃に嫌われると困るから」
俺の負けでいいよ、なんて楽しげに笑うあなたにこそ、永遠に敵う気がしないのに。このまま私の全部を奪って、どこか遠い場所に連れて行ってくれたらと、愚かしい夢を見てしまう私を、どうか捨ててしまわないで。
少し臆病な私たちの指先の間にひそんだ逡巡を握り締めて、丸ごと愛せないかな?もう二度と彼の瞳が寂しさに染まってしまうことがないように。
彼に与えられたものなら、体の中心に亀裂が入るような破瓜の痛みさえ嬉しくて。いつもほんのり冷たかった滝沢の体温が熱っぽく反応して、酷く大切そうに私に触れる。僅かに乱れた息遣いが耳元を掠めるたび、こんなに堪らない気持ちになるのは何故だろう?
優しい春の夜がふけってゆく。
迷路を通り抜けた先に、美しい花が咲いていた。
𓂃𓂃𓍯𓈒𓏸𓂂𓐍◌ 𓂅𓈒𓏸𓐍
誰かのぬくもりがすぐ傍にある。
それがこんなにも、安眠を齎してくれるなんて。
日々規則正しい生活を心掛けてきた私の朝はそれなりに早い。だけど、今朝はちっとも目覚めが訪れてくれなくて、ようやく私が瞼を開いた時には朝が終わりかけていた。
「あ、起きた?おはよう」
──そして、目を開けたと同時に。
昨日実ったばかりの恋が目の前で微笑んでいる。
その衝撃たるや、まるで落雷に打たれたかのような破壊力を持っている。私の寝ぼけた頭は一瞬で覚醒し、跳ね上がるようにして体を起こした私を滝沢がくすりと笑う。
「う、あ、び、びっくり、した…!」
「そんな幽霊でも見たような顔しなくたって」
「ご、めんなさい、わたし、すっかり寝過ごしてしまったみたいで…」
枕元の目覚まし時計は朝の10時を指している。
前代未聞の朝寝坊にひとりで勝手にひやりと心臓を冷たくしていると、「ごめん、アルの散歩だけ行ってやりたくてテーブルの上にあった部屋の鍵借りた」と滝沢が申し訳なさそうに言うので、大慌てで首を振る。
「そ、そんな、私こそ気が付かなくて…」
「あんまり可愛い寝顔でぐっすり寝てたから起こすのがもったいなくて、勝手に使うのも悪いかと思ったんだけど」
そう、気障な台詞を軽々と言って退ける。
もう完全に私はキャパシティーオーバーだった。
けれど、滝沢はそんなことお構いなしに私を抱き寄せながら「体、どっか辛いとことかない?昨日無理させたから」と泣き腫らしているだろう瞼に軽く唇で触れた。
「あ、あの、わたし、きのう…」
「最後までしたあとすぐ寝ちゃってたよ」
「ふ、ふくとか、したぎも、なにも、なくて…」
「え、なんで涙目なの?」
寝起きから情緒が大忙しだな、と感心したように呟いた滝沢は、「風邪引くといけないからなにか着せたほうがいいかと思ったんだけど、服とかどこにあるかわかんなかったし、まあ今の季節なら大丈夫かと思って」と事もなさげに言って退けるので恐ろしい。
「別に昨日全部見たんだから今さらじゃない?」
「ちが、だ、だって、今は朝だもん…!」
「はは、朝とか関係あるんだ」
昨日はあんな積極的だったのにと滝沢の口元が意地悪な弧を描く。素肌にダイレクトに感じる滝沢の体温は、こんな起き抜けには過激すぎて警察を呼ばれてもおかしくないぐらいだ。
シーツの中に潜り込んできた滝沢の腕がするりと私の腰元を撫でるから、変な声が出た。もう、本当に心臓に悪いからやめてほしい。すぐ傍にある滝沢の顔を睨みながら、だがこの難局を打破する策もない。
「じ、じぶんだけ、防御力高くてずるい…」
「俺は今朝も早起きしたからな」
「…なおきくん」
「またすぐそんな顔して」
狡いのはどっちだか、と剥き出しの肩に唇を落とした滝沢が私を離して服を取って来てくれる。部屋で寛ぐときに着る用のタオル地のワンピースを瞬時に頭から被ると、遂にお恥ずかしい姿からの脱却を図れた。
「でもまだノーパ──」
「下着は自分で取って来られますので!」
こんなに素早く動けたのはいつ振りだろうか?
クローゼットの中に一瞬だけ閉じ籠った私が必死の早着替えで息を切らす間、肝心の滝沢は「だから昨日全部見たし触ったと思うんですけど?」と嫌味ばかり言う。
「…それとこれとは話が別です」
「裸も綺麗だったけど服着ても可愛いね」
「も、うそれ、わたしが恥ずかしがるの知ってて全部言ってるでしょ…!」
本当に不整脈で死んでしまうから!
初めての朝なんだからもっと優しくしてほしい。
私が思い切り睨みつけて威嚇したところで滝沢にすれば痛くも痒くもないのだろう。上機嫌に私をまた捕まえて、「俺は酷い男だって事前申告したけど?」なんて嘯く。
「もう嫌になったの?」
「…こんなに意地悪な人だとは思わなかった」
「見る目がないね、柚原さんは。でも残念ながら購入後の返品は不可だよ」
背中から抱き締められる優しいぬくもりを手放すことなんて、私のほうこそできそうにない。振り返るとすぐ傍に滝沢の綺麗な顔があって、きゅんと甘く胸が鳴った。
なめらかな頬に指先で触れる。
それに滝沢は、とても、穏やかな顔で笑って。
「望むところだよ」
こっちだって、返品も交換も絶対されてあげないからね。意地が悪いくせして、困っている誰かを見ると放っておけない面倒見のいい貴方の優しさに、私は最後の最後までずぶずぶと漬け込むつもりなんだから。
リビングからアルの鳴き声がした。
それにふたりで笑い合って、声のほうに向かう。
「アル、閉じ込めちゃってごめんね」
「違うよ、コイツが単に飯に夢中だっただけ」
「朝ごはん食べてたの?美味しかった?」
「そういえばハナの飯は?」
「あ、ほんとだ!早く用意してあげないと!」
「おいで、ハナ」
テーブルの上でまだ少し警戒気味なハナを滝沢が呼ぶと、従順に近寄って、その腕の中に収まる。
朝の挨拶のつもりなのかアルに思い切り顔を舐められていた私は、その可愛らしい光景を目に焼き付けるように見上げながら、でもハナの朝ごはんを用意しなければと、後ろ髪を引かれる思いで戸棚を開けた。
「飯食ったら落ち着いたみたいだな」
ソファーに並んで座った私の膝の上にはアルが顎を乗せて眠り、滝沢の腕には丸まったハナが包まれている。網戸にした南向きの窓からは六月の薫風が流れ込み、真っ白なレースカーテンをふわふわと揺らしていた。
「ほんとに、仲良くなってくれそうでよかった」
「おかげで俺たちは動けねえけどな」
「私たちもお腹空いたね」
起きてから、結局まだ何も食べてない。
滝沢は私より早起きをしているから余計にお腹も減っているだろうに、ふたりがぐっすり熟睡してしまって動くに動けない。
それでも、なんの危機感も持たず無防備に委ねられる重みがとても愛しくて、立ち上がってしまうのがもったいなく思えてくるのだから親馬鹿だ。
今ばかりは、目を合わせるだけでお互いの考えが手に取るようにわかる。私たちは苦笑を酌み交わすように触れ合った肩の先で手を繋ぎ、あともう少しだけ、朝と昼の狭間を流れる無垢な時間を見逃すことにした。
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