触れる指先 偽りの恋
平穏と嵐
それから、しばらく穏やかな日々が続いた。
いや正確に言えば、穏やか、は違うかもしれない。
日常が鮮やかに色づいたような、楽しくて仕方のない毎日だ。
貴島さんは毎日カフェを訪れてくれた。ちゃんと社員証を持って。
朝晩は必ずメッセージのやりとりをするようになったし、帰りの時間をあわせられる日は、待ち合わせて一緒に帰った。
駅の改札で待ち合わせてホームに向かうと、貴島さんはいつも、私の最寄駅でエスカレーター近くに停まる号車に乗ろうとする。
「ここ、貴島さんの駅だと結構歩きますよね?」
貴島さんが使っている駅は、真ん中に階段がないので、いつもホームについてから歩いている姿を見て、気になっていた。
「さすが武井さん、よく見てるね。でも大したことないよ」
ちょっと戻るだけだし、と貴島さんは笑っているけれど、それを指摘したのは、一緒に帰るようになってからだいぶ経っていた。
「だめです。これからは端で乗りましょう。そっちの方が空いてるし」
「そんなこと気にしなくていいのに。でもだめ。だって武井さんの方がそもそも先まで乗ってるんだから」
「でも……いつもこっちに合わせていただくの申し訳ないので……。そうだ!じゃあちょうど真ん中から乗りましょう。どっちも同じくらい歩くようにしたら、三号車とかですかね」
「ふっ。いいよ。そうしよう」
貴島さんが口元を押さえて笑って頷く。
「武井さんは本当にいい子だね」と頭を撫でられて、どきっと胸が高鳴った。
不意に、あくまで恋人のふりをしているだけなんだから、と自分に言い聞かせなければならないほど、胸が高鳴るようなことが起きる。
楢崎さんの目を誤魔化すため、という理由で始まった関係のはずなのに、土日のどちらかは、当たり前のように二人で一緒に散歩して、新しい店を開拓するのが習慣になっていた。
「食の好みが合うっていいよね」
貴島さんがぽつりとそう言ったので、思わず横顔を見上げた。
「俺の両親、普段はそんなに仲良いって感じじゃないのに、食べ物の好みだけはドンピシャなんだよ。昔から、外食しようってなった時に、食べたいものも言うと必ず一緒だし」
「へえ……」
「好きな店とか、美味しいと思う味が同じみたい。そういうの、なんかいいなあって思うんだよね」
いつもそんな風に感じるわけじゃないんだけど、と言う横顔は、照れ隠しのせいか少しだけ赤くなっているように見えた。
「確かに、同じものを食べて美味しいって言い合えるのって良いですもんね」
「うん。俺もそう思う。まあ最初から好みが似てたのか、一緒に過ごすうちに似ていったのか、わからないけど」
そう言って肩を竦めているけれど、少しだけ貴島さんの恋愛観みたいなものが見えて、どきりとする。
何回か一緒に食事をして、好みはそう遠くない、と感じているけれど。貴島さんも同じように感じてくれていればいいのに、と思ってしまう。
私の最寄駅にある飲食店は早々にまわり終えてしまって、次は隣――私と貴島さんの最寄りの間の駅を開拓することになった。
正直、私の家を知られているわけでもないし、こんなところまで楢崎さんが現れるとは考えにくい。ふりでデートをするなら会社の最寄駅か、貴島さんの家の最寄駅の方がいいのかもしれない。
でも「せっかくだから」と貴島さんから提案された時、嬉しくて、思わず喜んでしまった。
いや正確に言えば、穏やか、は違うかもしれない。
日常が鮮やかに色づいたような、楽しくて仕方のない毎日だ。
貴島さんは毎日カフェを訪れてくれた。ちゃんと社員証を持って。
朝晩は必ずメッセージのやりとりをするようになったし、帰りの時間をあわせられる日は、待ち合わせて一緒に帰った。
駅の改札で待ち合わせてホームに向かうと、貴島さんはいつも、私の最寄駅でエスカレーター近くに停まる号車に乗ろうとする。
「ここ、貴島さんの駅だと結構歩きますよね?」
貴島さんが使っている駅は、真ん中に階段がないので、いつもホームについてから歩いている姿を見て、気になっていた。
「さすが武井さん、よく見てるね。でも大したことないよ」
ちょっと戻るだけだし、と貴島さんは笑っているけれど、それを指摘したのは、一緒に帰るようになってからだいぶ経っていた。
「だめです。これからは端で乗りましょう。そっちの方が空いてるし」
「そんなこと気にしなくていいのに。でもだめ。だって武井さんの方がそもそも先まで乗ってるんだから」
「でも……いつもこっちに合わせていただくの申し訳ないので……。そうだ!じゃあちょうど真ん中から乗りましょう。どっちも同じくらい歩くようにしたら、三号車とかですかね」
「ふっ。いいよ。そうしよう」
貴島さんが口元を押さえて笑って頷く。
「武井さんは本当にいい子だね」と頭を撫でられて、どきっと胸が高鳴った。
不意に、あくまで恋人のふりをしているだけなんだから、と自分に言い聞かせなければならないほど、胸が高鳴るようなことが起きる。
楢崎さんの目を誤魔化すため、という理由で始まった関係のはずなのに、土日のどちらかは、当たり前のように二人で一緒に散歩して、新しい店を開拓するのが習慣になっていた。
「食の好みが合うっていいよね」
貴島さんがぽつりとそう言ったので、思わず横顔を見上げた。
「俺の両親、普段はそんなに仲良いって感じじゃないのに、食べ物の好みだけはドンピシャなんだよ。昔から、外食しようってなった時に、食べたいものも言うと必ず一緒だし」
「へえ……」
「好きな店とか、美味しいと思う味が同じみたい。そういうの、なんかいいなあって思うんだよね」
いつもそんな風に感じるわけじゃないんだけど、と言う横顔は、照れ隠しのせいか少しだけ赤くなっているように見えた。
「確かに、同じものを食べて美味しいって言い合えるのって良いですもんね」
「うん。俺もそう思う。まあ最初から好みが似てたのか、一緒に過ごすうちに似ていったのか、わからないけど」
そう言って肩を竦めているけれど、少しだけ貴島さんの恋愛観みたいなものが見えて、どきりとする。
何回か一緒に食事をして、好みはそう遠くない、と感じているけれど。貴島さんも同じように感じてくれていればいいのに、と思ってしまう。
私の最寄駅にある飲食店は早々にまわり終えてしまって、次は隣――私と貴島さんの最寄りの間の駅を開拓することになった。
正直、私の家を知られているわけでもないし、こんなところまで楢崎さんが現れるとは考えにくい。ふりでデートをするなら会社の最寄駅か、貴島さんの家の最寄駅の方がいいのかもしれない。
でも「せっかくだから」と貴島さんから提案された時、嬉しくて、思わず喜んでしまった。