触れる指先 偽りの恋

眠るきみに秘密の恋

 武井さんの様子が、おかしい。

 彼女のことを、気づけば目で追っていた。
 実は、武井さんに話しかけられたあの日より、ずっと前から。
 
 カフェなんて、正直どこでも良かった。どの店でも飲むのはどうせブレンドだし、豆にこだわったりもしない。苦いほうが好きだけれど、産地ごとの違いはよくわからない。飲む理由のほとんどは気分転換なのだから、なんなら缶コーヒーでもいいくらいだ。
 ただ缶コーヒーを持って会議に出るのは心象があまりよくないということと、あとは純粋に容量の問題だった。
 カフェルチアーノに通うようになったのは、職場から一番近い店だったから。ただそれだけだ。

 昼食は、会食でもない限りゆっくり食べる習慣がない。コーヒーを片手に摘めるものがあれば十分だ。だから必然と、会社の直下にあるカフェに通う頻度が上がっていた。
 どこでも良い、と言っておきながら、考えてみれば、座り心地の良い椅子、仕事をしやすい落ち着いた雰囲気のその店は、自分の求めるものすべてが備わっている空間だった。

 武井さんのことを初めて見かけたのは、ゴールデンウィーク明けだった。それまでも、店にはいたのかもしれないけれど、正直なところ店員ひとりひとりを認識してはいなかった。
 レジで注文する時も、大体片手間でメールを確認していたし、席に座れば手元の資料に没頭していた。
 
 今では、武井さんとよく話している大学生くらいの女の子、妙に距離の近い若い男の子、あまり喋らないけれどよく武井さんを目で追っている背の高い男、と見分けがつくようになったけれど。
 ともかく最初は、俺にとってのこのカフェは、仕事も食事もカフェイン摂取もすべてが一度に叶う店、という認識でしかなかった。
 
 十二時より遅れて昼休憩を取ることが多いせいか、いつ来ても店はさほど混んでいなかった。
 店内は、壁際にぐるっとソファ席があり、中央には大きなテーブル席、それ以外に二人掛けのテーブル席が散らばっていた。どの席にもコンセントがついている。ソファ席は、喫茶店にありがちな、座ると机とのバランスが悪いものではなく、ソファに座っても作業のしやすい高さのテーブルなので、その点も都合が良かった。
 
 ある日、いつもの通り、レジから少し離れたソファ席に座っていると、下げ台にトレイを置こうとしている年配のご婦人がいた。

 髪をひとつに纏め、黒いエプロンをつけた武井さん――その時は名前を認識していなかったけれど――は、素早く女性に近寄り、腰をかがめて話しかけると、トレイを受け取ってするっと下げ台に置いた。
 そのご婦人は「ありがとう」と言って、それから何やら取り出したハガキを見せ始めた。「ここに行きたいんだけど……」と指をさして何やら必死に訴えている。

「じゃあ反対側から出た方がいいですよ。こっち側から出ると、歩道橋を渡らないといけないんで」
「あ、そうなの……?」
「はい、構内をぐるっとまわるのでちょっと距離はありますけど、エスカレーターで出られるので」
「ありがとう」
「あ、待ってください。ご案内しますから」

 彼女はそう言って微笑むと、出入り口に向かってさり気なく先導していく。

「ごめんなさいね、お仕事中なのに」
「気になさらないでください。この駅、ややこしいですもんね」

 二人は会話をしながら、店外に出ていった。
 特に何も考えず、二人のやりとりを目で追ってしまったけれど、姿が見えなくなったところで我に返った。慌ててサンドウィッチを摘みながら、持ち歩いているタブレット端末に目を落とした。けれどなぜだか、彼女が最後に見せた柔らかい表情が、頭のなかから消えない。

 まるで集中できないことに戸惑いながらコーヒーを啜っていると、しばらくして、彼女はひとり戻ってきた。
 とりあえず仕事をしなければ、とメールを確認していたのだけれど、「戻りました!」と言う彼女の声が耳に飛び込んできて、はっと顔を上げていたのだ。
 よく通る綺麗な声だとは思うけれど、決して大きな声ではない。
 それでも、自分の耳は無意識に彼女の声を捉えてしまう。

 その後もレジで、メニューがわからないという客に根気よく説明したり、テーブル席に座っていた客に、ソファ席空きましたよ、なんて声をかけてまわっていた。
 目の前の通路を通りかかったタイミングで、ちらりと目線を走らせる。
 一本たりとも落ちてこないようにぴっしりとまとめられた髪。前髪もしっかり留められているので形の良い眉と大きな瞳がよく見えた。少しだけ下がりがちの目は、優しさを醸し出している。

 素直に、可愛い子だな、と思った。
 年は20代半ばくらいだろうか。
 白いシャツに黒いエプロンが、優しい顔立ちにきりっとした雰囲気をもたらして似合っている。
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