触れる指先 偽りの恋
咄嗟に呼び止めそうになって、用もないのに何を考えているんだ、と慌てて口を噤んだ。
それ以来、彼女の姿を目で追うことが増えた。
自分の仕事では今まで必要とも思ってこなかった、どんな相手にも気を遣って接客する姿に、何度も自分自身の仕事の取り組み方や、部下への接し方を考えさせられた。
そもそも、自分はあまり感情表現が豊かな方じゃない。特に仕事では、常に冷静であれと自分自身に言い聞かせていることもあって、部下や同僚に厳しいと思われている自覚はあった。
それでも、仕事のクオリティを優先すべきなのが社会人である、と思っていたから、職種が違うとはいえ、人当たりの良さと、業務のクオリティを両立させているように見える彼女は、とても眩しかった。
いくら見ていても飽きない。
仕事が捗るからこの店を選んだはずなのに、いつしか彼女の姿を見る為に足を運ぶようになっていた。
といっても、ただの店員と客だ。特に会話を交わす必要もきっかけも存在しない。
ただある日、レジに並ぶと担当が彼女だったことがあった。自分が行く時間は、あまりレジに立っている姿を見なかったから、幸運だったのだと思う。そこで名札をちらりと確認し、彼女の名前が武井さん、であることを知った。お金を払い、商品を待っている間、彼女が同僚に話しかけられているのが聞こえてきた。
「かほさん、タンブラーの在庫がないんですけど……」
「え、うそ。ちょっと確認してくる、レジお願いしていい?」
そう言って彼女はあっという間にバックヤードに引っ込んでしまった。けれどそこで彼女の名前が、かほであることを知った。フルネームを1日で知ることができるなんて、運が良い。かほ、はどんな字を書くのだろう。
歌うように接客しているから、かは歌だろうか。笑顔がぱっと咲くようだから、花かもしれないし、華かもしれない。
そんなことを考えていると、知らず口元が緩んでいた。
彼女を見かけるだけで些細な幸せを感じていた頃、社内で困った問題に直面することになった。といっても仕事に関してではない。だからこそ余計に頭が痛いのだが。
隣の部署で営業アシスタントとして雇われている女性に、やたらと付き纏われるようになったのだ。いつも小綺麗な格好をしている二十代前半のその女性は、確か楢崎由紀と言う女性で、男性社員からの人気も高かった。
ある日、隣のチームと合同で会議があり、その時に資料を準備してくれたのが彼女だった。今だにアナログな年配社員の多いその会議の資料は、紙で用意されており、楢崎さんが一人分ずつ配布していた。たまたま前の打ち合わせが早く終わったので、会議室に向かい、ドアを開けると、ちょうどその目の前の席に資料を配っていた彼女にぶつかってしまったのだ。
「申し訳ない。大丈夫ですか」
謝りながら、屈んで彼女が取り落とした資料を拾う。じっとこちらを見つめる目線に気づいたときには、彼女の手が俺の手の甲に触れていた。
咄嗟に、手を引く。ぞわりと悪寒のようなものが背筋を走った。
「大丈夫です。ありがとうございます」
そう言って笑う楢崎からは、特に他意は感じられなかったので、気のせいか、と思っていると
「むしろ、貴島課長と二人になれるなんて、ラッキーでした」
ピンクに彩られた唇がゆっくりと弧を描いた。
やはり直感は当たっていた。
「そうか。お世辞だと思って、ありがたく受け取っておくよ」
そう言って立ち上がり、拾った資料は机に置いた。
じゃあ、と言って会議室を出る。わざわざデスクに戻っても、すぐにまたこの会議室に足を運ばねばならない。会議の後の打ち合わせの準備をしようと思っていたのに、とため息を吐きながらエレベーターのボタンを押したのだった。
それからも、休憩室にいる時や、エレベーターを待っている間など、一人になる瞬間を鋭く見極めては、楢崎に話しかけられるようになった。
それ以来、彼女の姿を目で追うことが増えた。
自分の仕事では今まで必要とも思ってこなかった、どんな相手にも気を遣って接客する姿に、何度も自分自身の仕事の取り組み方や、部下への接し方を考えさせられた。
そもそも、自分はあまり感情表現が豊かな方じゃない。特に仕事では、常に冷静であれと自分自身に言い聞かせていることもあって、部下や同僚に厳しいと思われている自覚はあった。
それでも、仕事のクオリティを優先すべきなのが社会人である、と思っていたから、職種が違うとはいえ、人当たりの良さと、業務のクオリティを両立させているように見える彼女は、とても眩しかった。
いくら見ていても飽きない。
仕事が捗るからこの店を選んだはずなのに、いつしか彼女の姿を見る為に足を運ぶようになっていた。
といっても、ただの店員と客だ。特に会話を交わす必要もきっかけも存在しない。
ただある日、レジに並ぶと担当が彼女だったことがあった。自分が行く時間は、あまりレジに立っている姿を見なかったから、幸運だったのだと思う。そこで名札をちらりと確認し、彼女の名前が武井さん、であることを知った。お金を払い、商品を待っている間、彼女が同僚に話しかけられているのが聞こえてきた。
「かほさん、タンブラーの在庫がないんですけど……」
「え、うそ。ちょっと確認してくる、レジお願いしていい?」
そう言って彼女はあっという間にバックヤードに引っ込んでしまった。けれどそこで彼女の名前が、かほであることを知った。フルネームを1日で知ることができるなんて、運が良い。かほ、はどんな字を書くのだろう。
歌うように接客しているから、かは歌だろうか。笑顔がぱっと咲くようだから、花かもしれないし、華かもしれない。
そんなことを考えていると、知らず口元が緩んでいた。
彼女を見かけるだけで些細な幸せを感じていた頃、社内で困った問題に直面することになった。といっても仕事に関してではない。だからこそ余計に頭が痛いのだが。
隣の部署で営業アシスタントとして雇われている女性に、やたらと付き纏われるようになったのだ。いつも小綺麗な格好をしている二十代前半のその女性は、確か楢崎由紀と言う女性で、男性社員からの人気も高かった。
ある日、隣のチームと合同で会議があり、その時に資料を準備してくれたのが彼女だった。今だにアナログな年配社員の多いその会議の資料は、紙で用意されており、楢崎さんが一人分ずつ配布していた。たまたま前の打ち合わせが早く終わったので、会議室に向かい、ドアを開けると、ちょうどその目の前の席に資料を配っていた彼女にぶつかってしまったのだ。
「申し訳ない。大丈夫ですか」
謝りながら、屈んで彼女が取り落とした資料を拾う。じっとこちらを見つめる目線に気づいたときには、彼女の手が俺の手の甲に触れていた。
咄嗟に、手を引く。ぞわりと悪寒のようなものが背筋を走った。
「大丈夫です。ありがとうございます」
そう言って笑う楢崎からは、特に他意は感じられなかったので、気のせいか、と思っていると
「むしろ、貴島課長と二人になれるなんて、ラッキーでした」
ピンクに彩られた唇がゆっくりと弧を描いた。
やはり直感は当たっていた。
「そうか。お世辞だと思って、ありがたく受け取っておくよ」
そう言って立ち上がり、拾った資料は机に置いた。
じゃあ、と言って会議室を出る。わざわざデスクに戻っても、すぐにまたこの会議室に足を運ばねばならない。会議の後の打ち合わせの準備をしようと思っていたのに、とため息を吐きながらエレベーターのボタンを押したのだった。
それからも、休憩室にいる時や、エレベーターを待っている間など、一人になる瞬間を鋭く見極めては、楢崎に話しかけられるようになった。