触れる指先 偽りの恋
極め付けは、オンライン打ち合わせに会議室を使用しているときだった。時間より少し前に会議室へ行きパソコンを開くと、コンコンと扉がノックされる。頼んでもいないコーヒーを手にした楢崎が入ってきて、コップを机に置いた。
「これ、よかったら」
「……どうも」
正直、よく知らない人間が淹れた飲み物を飲みたいとは思わないのだが。
彼女は俺の座る椅子の真後ろに立った。パソコンの画面を閉じる。社内の人間とはいえ、部署外の人間に安易に見せられるものではない。
「何か?」
振り返ると、息が届きそうなほど近くに顔があって、思いっきり体を引いた。自分の体がぶつかって、会議室に備え付けられたキャスター付きの長テーブルが、大きく移動する。
立ち上がると、できた隙間に体を滑らせて、扉のすぐ近くまで移動した。
ドアノブに手をかけて、とにかく密室にならないように扉を開ける。
「すまないが、用がないなら……」
「用があれば、いいんですか?」
てらてらしたピンクの口紅が揺れて、頭が痛い。
「いや、何かあるならそちらの課長と一緒に聞くよ。申し訳ないけれど、部下とは二人きりにならないように気をつけているから」
「ええっ。なんでですかあ」
間延びした声が癇に障る。まともな話は伝わらないのだろう。頭が痛い。けれど怒鳴ったりしたら負けだ。
「昨今、パワハラが問題になっているだろう。部下と上司が二人きり、というのは避けるように会社からも言われているし」
そう言って、机に置いたパソコンを取ろうとした腕を掴まれた。
「社内じゃなかったら、いいんですか?」
縋るように腕を掴まれると、力任せに振り払うこともできない。
「そういう問題ではないんだが」
彼女がこちらに顔を寄せるため腕の力が抜けた瞬間、軽く振り払う。パソコンを掴むと、ドアの隙間から滑るようにして廊下へ出た。背後でバタンと扉が閉まる。
頭が痛い。なぜあんな人間を採用したのだろう。見る目がなさすぎるのではないか、と人事部への文句が口をつきそうになる。
後ろを確認して、楢崎が追ってこなかったことに安堵していたのだが――。
まさか、本当に社外で声をかけてくるとは思わなかった。
営業先から戻ってきたら、昼はとっくに過ぎていた。遅めの休憩を取ることにして、ルチアーノへ向かう。先日から、楢崎の視線を今まで以上に感じるようになったので、デスクにいる以外は、なるべく社外に出るようにしていた。
昼のラッシュが過ぎたからだろうか、店内はだいぶ落ち着いていて、カウンターの奥には武井さんがいた。
「いらっしゃいませ」とかすかな笑みを浮かべる彼女を見ると、荒んだ心が潤いを取り戻す。
いつものように、レジからまっすぐに続く通路沿いのソファ席に座る。タブレットをのぞいてメールチェックしながら、サンドウィッチを摘んだ。食べ終わって、あとは作業をしながらコーヒーを、と思ったところで、かつかつと店内をヒールの音が響く。
楢崎が目の前に立っていた。
「貴島課長、探しましたよ〜」
へらりと笑ったかと思うと、あろうことか、ソファの肘掛けに腰掛ける。
どすん、という衝撃でソファが軋んだ。
信じられない思いで呆気に取られていると、楢崎は至近距離で俺に言った。
「好きです。ずっと」
頭が痛い。
告白するにしても、もう少し言い方や態度というものがあるだろう。
それにこれだけ邪険にしてもまるで伝わっていないのだ、ということも驚きだった。
とにかくこの距離が耐えられなくて、俺は即座に立ち上がった。
「申し訳ないが貴女の告白には応えられないし、こうやって話しかけられるのも迷惑だ」
自分の冷たい声は、思った以上に大きく店内に響いたように感じた。元々落ち着いた店なのだ。
それをこんなくだらない諍いで乱すのも憚れられる。なにより、これからこの店に来られなくなったら、どうしてくれるつもりなんだ。そんな苛立ちを含んだ目で楢崎を睨みつける。
けれど楢崎は顔を顰め「そんなに照れなくてもいいじゃないですか、せっかく社外で話しかけたのに。社内では話せないって言われたから、わざわざ追いかけてきたんですよお。だからいいじゃないですか、ねっ。付き合ってくださいってばあ」と言い募ってきた。
だめだ。何を言っても伝わらない。
日本語が通じないとはこのことか、と頭が痛くなってきた。
発想も何もかもすべてが理解できない。
そもそも語尾を伸ばした喋り方が、生理的に受け付けない。
こちらの気力まで削がれる。
「ね、貴島課長」
甘ったるい声でそう言ったかと思うと、楢崎が俺の腕を抱え込んだ。ぎゅっと自分の胸を押し当てるような行動に、全身の毛がよだつ。
素早く腕を引き抜き、ため息を吐いた。さすがに無理だ。人事部長に相談しよう。
そう決意していると、
「貴島さん、どうしたんですか?」
鈴の音を鳴らすような声が聞こえてきた。自分のすぐ近くから。
武井さん、と認識すると同時に、彼女を凝視してしまった。
武井さんはすっと俺の横に並ぶと、触れない程度に腕を寄せ、じっとこちらを見上げてきた。
助けてくれようとしている、とわかった。触れない距離がもどかしい。けれど彼女がそこにいるだけで楢崎に触れられた腕が、浄化されていくようだった。
「え……なに?」
楢崎が武井さんを睨みつける。
と、ぎゅっと背伸びした武井さんが、俺の耳元に口を寄せ「彼女のふり、しますから」と囁いた。
まさか、と思い目を見張る。でも彼女がじっとこちらを見つめてくれたことで、自信が湧いてきた。小さく頷く。
「これ、よかったら」
「……どうも」
正直、よく知らない人間が淹れた飲み物を飲みたいとは思わないのだが。
彼女は俺の座る椅子の真後ろに立った。パソコンの画面を閉じる。社内の人間とはいえ、部署外の人間に安易に見せられるものではない。
「何か?」
振り返ると、息が届きそうなほど近くに顔があって、思いっきり体を引いた。自分の体がぶつかって、会議室に備え付けられたキャスター付きの長テーブルが、大きく移動する。
立ち上がると、できた隙間に体を滑らせて、扉のすぐ近くまで移動した。
ドアノブに手をかけて、とにかく密室にならないように扉を開ける。
「すまないが、用がないなら……」
「用があれば、いいんですか?」
てらてらしたピンクの口紅が揺れて、頭が痛い。
「いや、何かあるならそちらの課長と一緒に聞くよ。申し訳ないけれど、部下とは二人きりにならないように気をつけているから」
「ええっ。なんでですかあ」
間延びした声が癇に障る。まともな話は伝わらないのだろう。頭が痛い。けれど怒鳴ったりしたら負けだ。
「昨今、パワハラが問題になっているだろう。部下と上司が二人きり、というのは避けるように会社からも言われているし」
そう言って、机に置いたパソコンを取ろうとした腕を掴まれた。
「社内じゃなかったら、いいんですか?」
縋るように腕を掴まれると、力任せに振り払うこともできない。
「そういう問題ではないんだが」
彼女がこちらに顔を寄せるため腕の力が抜けた瞬間、軽く振り払う。パソコンを掴むと、ドアの隙間から滑るようにして廊下へ出た。背後でバタンと扉が閉まる。
頭が痛い。なぜあんな人間を採用したのだろう。見る目がなさすぎるのではないか、と人事部への文句が口をつきそうになる。
後ろを確認して、楢崎が追ってこなかったことに安堵していたのだが――。
まさか、本当に社外で声をかけてくるとは思わなかった。
営業先から戻ってきたら、昼はとっくに過ぎていた。遅めの休憩を取ることにして、ルチアーノへ向かう。先日から、楢崎の視線を今まで以上に感じるようになったので、デスクにいる以外は、なるべく社外に出るようにしていた。
昼のラッシュが過ぎたからだろうか、店内はだいぶ落ち着いていて、カウンターの奥には武井さんがいた。
「いらっしゃいませ」とかすかな笑みを浮かべる彼女を見ると、荒んだ心が潤いを取り戻す。
いつものように、レジからまっすぐに続く通路沿いのソファ席に座る。タブレットをのぞいてメールチェックしながら、サンドウィッチを摘んだ。食べ終わって、あとは作業をしながらコーヒーを、と思ったところで、かつかつと店内をヒールの音が響く。
楢崎が目の前に立っていた。
「貴島課長、探しましたよ〜」
へらりと笑ったかと思うと、あろうことか、ソファの肘掛けに腰掛ける。
どすん、という衝撃でソファが軋んだ。
信じられない思いで呆気に取られていると、楢崎は至近距離で俺に言った。
「好きです。ずっと」
頭が痛い。
告白するにしても、もう少し言い方や態度というものがあるだろう。
それにこれだけ邪険にしてもまるで伝わっていないのだ、ということも驚きだった。
とにかくこの距離が耐えられなくて、俺は即座に立ち上がった。
「申し訳ないが貴女の告白には応えられないし、こうやって話しかけられるのも迷惑だ」
自分の冷たい声は、思った以上に大きく店内に響いたように感じた。元々落ち着いた店なのだ。
それをこんなくだらない諍いで乱すのも憚れられる。なにより、これからこの店に来られなくなったら、どうしてくれるつもりなんだ。そんな苛立ちを含んだ目で楢崎を睨みつける。
けれど楢崎は顔を顰め「そんなに照れなくてもいいじゃないですか、せっかく社外で話しかけたのに。社内では話せないって言われたから、わざわざ追いかけてきたんですよお。だからいいじゃないですか、ねっ。付き合ってくださいってばあ」と言い募ってきた。
だめだ。何を言っても伝わらない。
日本語が通じないとはこのことか、と頭が痛くなってきた。
発想も何もかもすべてが理解できない。
そもそも語尾を伸ばした喋り方が、生理的に受け付けない。
こちらの気力まで削がれる。
「ね、貴島課長」
甘ったるい声でそう言ったかと思うと、楢崎が俺の腕を抱え込んだ。ぎゅっと自分の胸を押し当てるような行動に、全身の毛がよだつ。
素早く腕を引き抜き、ため息を吐いた。さすがに無理だ。人事部長に相談しよう。
そう決意していると、
「貴島さん、どうしたんですか?」
鈴の音を鳴らすような声が聞こえてきた。自分のすぐ近くから。
武井さん、と認識すると同時に、彼女を凝視してしまった。
武井さんはすっと俺の横に並ぶと、触れない程度に腕を寄せ、じっとこちらを見上げてきた。
助けてくれようとしている、とわかった。触れない距離がもどかしい。けれど彼女がそこにいるだけで楢崎に触れられた腕が、浄化されていくようだった。
「え……なに?」
楢崎が武井さんを睨みつける。
と、ぎゅっと背伸びした武井さんが、俺の耳元に口を寄せ「彼女のふり、しますから」と囁いた。
まさか、と思い目を見張る。でも彼女がじっとこちらを見つめてくれたことで、自信が湧いてきた。小さく頷く。