触れる指先 偽りの恋
躊躇いながらも、彼女の肩に腕をまわし、引き寄せた。
初めて触れる彼女の体は、華奢で、あたたかく、触れたところから自分の手のひらが熱くなっていくような気がした。
「彼女と付き合っているので、貴女とは付き合えない」
「え……?」
楢崎の、呆けたような声が響いた。武井さんの体が一瞬こわばったのを感じたけれど、もう引き返せない。
まっすぐに武井さんをみつめてから、楢崎に向き直った。
「わからないなら、もう一度言う。彼女――かほさんと付き合っているので、貴女には興味がない」
「な……!」
手にぐっと力を込め、はっきりそう言うと、楢崎は唇をわなわなと震わせて「信じられない!」と言い残して、走り去っていった。
その姿が見えなくなったところで、武井さんの肩から手を離す。ぬくもりが失われて、ああ、とため息をつきたかった。
「大変、申し訳ありませんでした」
騒ぎを起こしたこと、巻き込んでしまったこと、さらに突然触れたことまで、あらゆる申し訳なさが溢れ出て、頭を下げる。けれど武井さんは、慌てた様子で、
「いえ、すみません、こちらこそ勝手に出張ってしまって……」と手を振っている。
「とんでもない。彼女、同じ会社なんですが、最近毎日あんな調子で、本当に困っていたんです」
ここ最近の楢崎の様子を思い出すと、それだけで苦痛だ。
「お力になれたなら良かったです」
そう言って武井さんはにっこりと笑った。
眩しい笑顔に、自然と表情が緩む。
しかし悲しいかな、午後の会議の時間が迫っていた。
「すみません、改めてお礼に伺います。今日、何時までいらっしゃいますか?」
「十九時まで、ですが……」
「わかりました。では後ほど」
助けてもらっておきならが薄情な態度で申し訳ない、と思いながらコーヒーカップを手に席を後にする。
飲み切ってゴミ箱に投じたカップは、まるでゴールに吸い込まれるかのごとく綺麗に飛び込んでいった。
そうして、怪我の功名といってはおかしいのかもしれないけれど、思わぬ形で武井さんとの距離が縮まった。きっかけをくれたのは間違いなく楢崎なので、その点だけが何とも言えず複雑だ。
楢崎の目を誤魔化すために、恋人のふりをすることに付き合ってもらうことになったのだ。ふりだから、と理由をつけて一緒に帰ったり、店で話しかけたり、メッセージのやりとりをしたり、休日一緒に出かけたり。
それはもうふりではなく、恋人同士なのでは、と錯覚してしまうような日々を送っている。
会えば会うほど、彼女は魅力的だと思う。
本当に付き合ってほしい、と伝えようと、何度も思った。自分は彼女のことをずっと見ていたから募る気持ちは溢れそうなほどだけれど、彼女にとっては青天の霹靂だろう。もう少し、自分を知ってもらってから、ふりのせいではなく彼女自身に惹かれたことをちゃんと伝えてから――きちんと告白しようと思っているうちに、タイミングを逃していた。
もう少しで、楢崎の契約期間が終了する、という理由もあった。
元々、人事としては別の支社に移動してもらう予定だったらしい。彼女の地元の支社で席が空いたので、そちらに移動させるという話が出ていたのだが、そのタイミングで自分が彼女の素行不良を訴えたので、話がいったん止まってしまったのだ。
もういっそ、黙っていたほうが話は早くまとまったのかもしれないが、とても見過ごすことはできなかった。
会社が彼女に対してどのような処置を取るのかを決めて、それから移動の是非が確定することになってしまった。人事部にいる同期の話だと、移動候補先の支社が渋っているらしい。それはそうだろう。一応課長が、ハラスメントにも近い素行不良を訴えているのだから。ただこうなっては本社に置いておくこともできないので、なんとか条件をつけて支社を説得しているようだ。
もし告白して断られたら、恋人のふりを続けてほしいとは頼めない。だから楢崎の移動が確定するまでは待とう、と我慢していた。
断られる、なんて考えたくもないけれど、それでも彼女のことになると平静さを失っている自覚はあった。
自惚れかもしれないが、武井さんは決して自分のことを嫌ってはいないと思う。
根が真面目だからかもしれないけれど、メッセージはどんなに時間が経っても必ず返事があるし、休日の誘いも断られたことがない。別々に帰った日は、夜な夜な電話をすることもあった。
ただ「好き」という言葉は発していないけれど。
もしかしたら、もう伝わっているかもしれない。
それでも一緒にいてくれるのだとしたら、望みがあると思えて安心するのに。
初めて触れる彼女の体は、華奢で、あたたかく、触れたところから自分の手のひらが熱くなっていくような気がした。
「彼女と付き合っているので、貴女とは付き合えない」
「え……?」
楢崎の、呆けたような声が響いた。武井さんの体が一瞬こわばったのを感じたけれど、もう引き返せない。
まっすぐに武井さんをみつめてから、楢崎に向き直った。
「わからないなら、もう一度言う。彼女――かほさんと付き合っているので、貴女には興味がない」
「な……!」
手にぐっと力を込め、はっきりそう言うと、楢崎は唇をわなわなと震わせて「信じられない!」と言い残して、走り去っていった。
その姿が見えなくなったところで、武井さんの肩から手を離す。ぬくもりが失われて、ああ、とため息をつきたかった。
「大変、申し訳ありませんでした」
騒ぎを起こしたこと、巻き込んでしまったこと、さらに突然触れたことまで、あらゆる申し訳なさが溢れ出て、頭を下げる。けれど武井さんは、慌てた様子で、
「いえ、すみません、こちらこそ勝手に出張ってしまって……」と手を振っている。
「とんでもない。彼女、同じ会社なんですが、最近毎日あんな調子で、本当に困っていたんです」
ここ最近の楢崎の様子を思い出すと、それだけで苦痛だ。
「お力になれたなら良かったです」
そう言って武井さんはにっこりと笑った。
眩しい笑顔に、自然と表情が緩む。
しかし悲しいかな、午後の会議の時間が迫っていた。
「すみません、改めてお礼に伺います。今日、何時までいらっしゃいますか?」
「十九時まで、ですが……」
「わかりました。では後ほど」
助けてもらっておきならが薄情な態度で申し訳ない、と思いながらコーヒーカップを手に席を後にする。
飲み切ってゴミ箱に投じたカップは、まるでゴールに吸い込まれるかのごとく綺麗に飛び込んでいった。
そうして、怪我の功名といってはおかしいのかもしれないけれど、思わぬ形で武井さんとの距離が縮まった。きっかけをくれたのは間違いなく楢崎なので、その点だけが何とも言えず複雑だ。
楢崎の目を誤魔化すために、恋人のふりをすることに付き合ってもらうことになったのだ。ふりだから、と理由をつけて一緒に帰ったり、店で話しかけたり、メッセージのやりとりをしたり、休日一緒に出かけたり。
それはもうふりではなく、恋人同士なのでは、と錯覚してしまうような日々を送っている。
会えば会うほど、彼女は魅力的だと思う。
本当に付き合ってほしい、と伝えようと、何度も思った。自分は彼女のことをずっと見ていたから募る気持ちは溢れそうなほどだけれど、彼女にとっては青天の霹靂だろう。もう少し、自分を知ってもらってから、ふりのせいではなく彼女自身に惹かれたことをちゃんと伝えてから――きちんと告白しようと思っているうちに、タイミングを逃していた。
もう少しで、楢崎の契約期間が終了する、という理由もあった。
元々、人事としては別の支社に移動してもらう予定だったらしい。彼女の地元の支社で席が空いたので、そちらに移動させるという話が出ていたのだが、そのタイミングで自分が彼女の素行不良を訴えたので、話がいったん止まってしまったのだ。
もういっそ、黙っていたほうが話は早くまとまったのかもしれないが、とても見過ごすことはできなかった。
会社が彼女に対してどのような処置を取るのかを決めて、それから移動の是非が確定することになってしまった。人事部にいる同期の話だと、移動候補先の支社が渋っているらしい。それはそうだろう。一応課長が、ハラスメントにも近い素行不良を訴えているのだから。ただこうなっては本社に置いておくこともできないので、なんとか条件をつけて支社を説得しているようだ。
もし告白して断られたら、恋人のふりを続けてほしいとは頼めない。だから楢崎の移動が確定するまでは待とう、と我慢していた。
断られる、なんて考えたくもないけれど、それでも彼女のことになると平静さを失っている自覚はあった。
自惚れかもしれないが、武井さんは決して自分のことを嫌ってはいないと思う。
根が真面目だからかもしれないけれど、メッセージはどんなに時間が経っても必ず返事があるし、休日の誘いも断られたことがない。別々に帰った日は、夜な夜な電話をすることもあった。
ただ「好き」という言葉は発していないけれど。
もしかしたら、もう伝わっているかもしれない。
それでも一緒にいてくれるのだとしたら、望みがあると思えて安心するのに。