触れる指先 偽りの恋
 ある朝、「今日は珍しく同期と飲み会です」とメッセージが送られてきた。

 早番の日の武井さんの朝は早い。俺がまだ寝ている間に、昨夜の返信が送られてきている。朝、アラームを止めてからそのメッセージを確認するのが、一番の楽しみだった。楽しみすぎて、アラームより早く起きてしまうこともあるくらいだ。

 早番で上がって飲み会に行ってきます、と書いてあった。つまり今日は俺の上がる時間が何時であれ、一緒に帰れないという意味だろう。
 残念だな、と自然にそう思っている自分に気づき、苦笑いが漏れる。たった一日会えないだけなのに、すぐに物足りなく感じてしまう。最近はどうも浮かれすぎだ。
 今日は早く上がれそうだったけれど、せっかくだから溜まっている作業をこなしてから帰ることにしよう。せめて顔だけでも見たいから、昼は必ずルチアーノで食べよう。そう心に決めて、出勤の準備を始めたのだった。

 しかしこういう日は重なるのか、ルチアーノに行ったタイミングで、運悪く武井さんは不在だった。
 レジでよく見かける彼女より少し年下と思われる女性が、こっそり「夏穂さん、休憩中で外出してます」と教えてくれた。
 残念だが仕方ない。顔が見れないだけでこんなに物足りなく感じるなんて。
「ありがとう」とお礼をいったものの、なぜ彼女はわざわざ教えてくれたのだろう、と思って、眺めてしまう。するとこちらの目線に気づいて「ふふっ」と訳知り顔で笑われた。
 事情を知られているのだろうか。若干の恥ずかしさを覚えて、小さく会釈をして会社へ戻った。
 
 そのあとは慌ただしくて、もう一度ルチアーノに赴く時間は作れなかった。
 突然起きた仕入れ先のトラブルに対応し、部下とともに謝罪に向かい、戻ってきたときには定時はとっくに過ぎていた。やろうと思った事務処理も、まだ一つも進んでいない。
 携帯を開くと、武井さんから「さっきいらしたそうですね。会えなくて残念でした。飲み会に行ってきます」と律儀にメッセージが入っていて、それでやっと少しだけ気持ちが浮上する。

 それからしばらく作業をしていると、気づけばオフィスから人気がなくなっていた。
 時計を確認すれば、もう二十二時を過ぎている。
 さすがに帰るか、と思ったその時、鈍い機械音が響いた。
 机の上で、スマホが振動している。

 表示されている名前にどきりと心臓が跳ねた。武井さんからの電話だった。

「もしもし」
 
 考える前に、通話ボタンを押していた。

「あ、もしもしー? 貴島さん?」

 いつもより間延びした、少し高い声。

「武井さん、どうしたの?」
「ふふ。飲み会が終わって、帰りますって送ろうと思ったんですけど、上手く打てなくて。電話しました」

 えへへと笑う彼女は、上機嫌で、だいぶ酔っているようだ。

「え、一人? 大丈夫?」
「大丈夫ですよー。みんなとはお店で解散しましたから」
「今、どこ?」
「えーっと、どこだろ、中央公園、かな?」
「ちょっと待ってて、すぐ行くから。電話切らないで」

 こんな時間にひとりで公園にいるなんて。しかも結構酔っ払っているように聞こえる。不安がよぎって、あわててカバンに荷物を突っ込むと、オフィスを飛び出した。
 中央公園は会社のある駅からすぐで、広い芝生がありよく若者の溜まり場になっている。急げば5分もかからないだろう。
 いつも二人で出かけたときは、こんなに酔っ払ったりしない。お酒は飲んでも、せいぜい一杯だった。
 自分と会うときは気を遣っていたのだろうかと思うと胸が痛んだが、今はそれどころじゃない。

 どうやら公園のベンチで座ってひと休み――本人曰く、だが――しているらしい。

 同期の友人とやらは、なぜこんな状態の武井さんを放り出したんだ、と思ったが、もし男がいたら、逆に危なかったかもしれない。送り狼がいたら、と思うと冷や汗が流れた。

 こんなことなら、店の名前を聞いておくんだった。迎えにいったのに、と後悔しているうちに、電話口が静かになる。「武井さん?」と呼びかけると、向こうからすーすーと一定の寝息が聞こえてきた。

「嘘だろ」

 そこまで寒くないとはいえ、夜の公園で女性がひとり眠ってしまうなんて危険極まりない。ある意味、普通に酔っ払うよりよほど酒癖が悪い。
 もう外で飲まないで、と言いたい気持ちを抱えながら、公園前の道のりを急ぐ。
 信号に引っ掛からなかったおかげで、公園にはすぐに到着できた。だが都心のわりには敷地は広い。いったいどこに……と思いながら進むと、案内板の近くのベンチに腰掛けている武井さんの姿を見つけた。
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