触れる指先 偽りの恋
 電灯の光に照らされた武井さんは、かくんと船を漕いでいたけれど、ふいに目を開けてじっとこちらを見つめると、ぱっと表情を輝かせた。まるで自分を見つけたからそんな顔をしたように感じられて、都合よく誤解してしまいそうになる。

「あ、貴島さん――」

 まだ繋がっていた受話器と、目の前にいる本人の声が、二重に聞こえてきた。
 へにゃりと笑った武井さんの顔は、酔いせいかうっすらと紅潮していた。いつもより垂れた目元が可愛い。普段だったらまずしないだろう、顔の横で嬉しそうに手を振ってくれる様子に、柄にもなくときめく。
 慌てて携帯をポケットに突っ込み、「大丈夫?」と駆け寄ると、ふふふと笑った武井さんが腰に抱きつくように両腕を伸ばしてきた。
 軽く腰を掴まれて、どくんと身体が疼く。心臓が跳ねるみたいにばくばくと打ち出して、冷静さを取り戻すために小さく息を吐いた。

「帰れそう?」
「うん」

 訊ねると、武井さんは大きく頷く。いつもより、少しだけ警戒心の解けた返事に、まるで距離が縮まったような錯覚を覚える。
 彼女の横にはカバンと飲みかけの水のペットボトルが置いてあったのでそれを掴んで、手を差し出す。細い指が重ねられて、どきんと胸が鳴る。俺の手をぐいっと引っ張って、武井さんは立ち上がった。

「武井さん、酔うとこんな風になるんだね」

 指先を絡めることはなかったけれど、ぎゅっと握った手をぶらぶらと揺らしながら武井さんが歩いていく。

「えー?」
 
 きょとんと首を傾げる彼女に、可愛いけれど心配で仕方ないな、という気になってくる。これからは飲み会には行ってほしくない。と思って、彼氏でもないのに何を考えているんだろう、と自分の思考に呆れ返る。

 大通りに出て、タクシーを捕まえた。
 と、乗ってすぐに、彼女はこてんと頭を俺の肩に預けてくる。

「武井さん、住所言える?」

 肩をゆすっても、むにゃむにゃと聞き取れない言葉を発するのみだ。
 仕方ない。
 自業自得だよ、と思いながら、運転手に俺の家の住所を告げた。

 すっかり寝入ってしまった武井さんを抱えて家に帰り、リビングのソファに寝かせる。タクシーから降りて家に入るまでの間、誰にも会わなくてよかった、と胸を撫で下ろした。これだけ熟睡している彼女を抱えているところに鉢合わせたら、強引に家に連れ込んだと疑われても仕方ない。

 明日の土曜日は休みだと言っていたから、多少寝過ごしても大丈夫だろう。
 寝室から毛布を持ってきて、寝転がる武井さんにかける。ん、と身動ぎするたびに、スカートから白い足がちらちら見えて落ち着かない。
 冷蔵庫からペットボトルを取り出して、「武井さん、水、飲んだほうがいいよ」と上半身を起こして手渡した。
 相変わらず聞き取れない言葉を発しながらも素直に受け取った彼女は、蓋を開けようとしているけれど、力が入らないのか、何度もキャップを空回りさせている。
 手から抜き取り、蓋を開けて手渡そうとすると、ぐにゃりと体が揺れる。水が溢れそうになって、咄嗟に倒れてきた身体を支えながら、ペットボトルを遠ざけた。

「あっぶな……」
 
 思わずそう口に出すと、武井さんは小さく笑っている。
 とろんとした目でこちらを見る武井さんは、普段と全く違って可愛いのだけれど、へなへなと力が抜けた体は、ぽすんとこちらに向かって倒れてきた。

「あー」

 まるで抱きつくように倒れ込んでくるので、思わず天井を見上げた。
 落ち着け。相手は酔っ払っていて、しかもほとんど寝てるんだから。
 とんとんと軽く背中を叩いて、とりあえず離してもらおうとするけれど、武井さんの腕は、しがみつくように俺の身体にまとわりついてきた。

 このまま眠りに落ちそうな彼女に、それはそれでいいかと思いながら、いやいやと考え直す。

「武井さん……寝てる……?」

 返事はない。

「水、飲める……?」

 今度は、こくりと頭を揺らすように無言で返事があった。

 手に持ったペットボトルから水を一口含み、武井さんの肩を掴んで、少しだけ上向かせる。
 微かに開いた唇に舌を滑らせ、口を開かせる。そのまま喰むように口付けて、水を移していく。武井さんの喉がわずかに動いて、こくんと水を飲み込んだ。

「もっと……」

 強請るような声がして、身体の奥が疼く。だめだと思っているのに、「ん」と唇を突き出されたら、我慢できなかった。あと少しだけ、と自分に言い聞かせ、もう一度水を含んで口付ける。
 今度は少し量が多かったのか、つーと垂れた水が顎を伝ってしまい、慌てて舌で舐めとる。
 
「ん……」
 
 武井さんの眉が顰められて、我に返った。
 自分は一体、何をした。思い返して、背筋に冷や汗が流れる。

 武井さんを覗き込むと、彼女の身体からはそのまますとんと力が抜けて、今度こそ眠りに落ちていった。
 その身体を慌ててソファに横たえて、そっと毛布をかけた。
 すやすやと穏やかな寝息を立てている武井さんを見つめる。
 まだ上気した頬。濡れた唇。
 それらのパーツを見つめるたび、身体の奥から突き上げるような痛みが迫ってきて、慌てて武井さんから目を逸らしたのだった。
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