触れる指先 偽りの恋
貴島さんの切れ長の瞳が見開かれる。
どうか、うまく話に乗ってくれますように、と祈るような気持ちで、すっと貴島さんの横に並んだ。
迷惑かなと思いながらも、そっと、触れない程度に腕を寄せ、貴島さんに目配せをした。
「え……なに?」
自然に寄り添えたのだろうか、突然割って入った私に、女性の視線が突き刺さる。
こ、怖い……。
けれど、乗り掛かった船だ。
背伸びして、形の良い耳元に、「彼女のふり、しますから」と囁く。
わずかに目を見張った貴島さんが、私にだけわかるくらい小さく頷いた。
改めて女性を見据え、ぐっと足に力を込めた瞬間、力強い腕で肩を引き寄せられた。
「彼女と付き合っているので、貴女とは付き合えない」
「え……?」
私が思わず高いところにある貴島さんの顔を見上げると同時に、女性の呆けたような声が響いた。引き寄せられた腕が予想以上にたくましく、咄嗟に私も同じような声を出しそうになっていた。心の中だけで収められたことを、安堵する。あと一歩で、すべてをぶち壊しにしていたかもしれないくらいの、衝撃だった。
貴島さんの目線が私の胸元――名札に落ちているのを感じた次の瞬間だった。
「もう一度言う。彼女――夏穂さんと付き合っているので、貴女には興味がない」
貴島さんが、はっきりそう言った。
――え!? なんで……?
貴島さんが突然口にした私の名前に、疑問が兆す。
でもそれを訊ねる前に、口をわなわなと震わせた女性は、「信じられない!」と捨てセリフを吐き捨てた。そして、ハンドバッグを掴み、勢いよく店を飛び出していってしまった。
来店したときとあまりの変わりように、ぽかんと一連の動きを見ていることしかできなかった。
そうしてその背が見えなくなると同時に、肩に触れていた温もりがぱっと離れていく。
「大変、申し訳ありませんでした」
直角に腰を折るとはこのことか、と言わんばかりに、貴島さんは頭を下げた。
「いえ、すみません、こちらこそ勝手に出張ってしまって……」
「とんでもない。彼女、同じ会社なんですが、何を勘違いしたのか俺が彼女に好意を持っていると思い込んでいて。最近毎日あんな調子で、本当に困っていたんです」
そう言う貴島さんの顔はげっそりしていて、大袈裟ではなく本当に大変だったんだな、と感じられた。
「お力になれたなら良かったです」
心の底からそう言うと、貴島さんはようやくほっと息を吐いて、微かに笑みを浮かべた。目尻が少し下がって、いつもよりだいぶ雰囲気が幼くなる。
その変化に、どきんと胸が疼くのを感じた。
「本当に、大変失礼いたしました。その……突然触ってしまって」
何とお詫びをすればいいか、と続ける貴島さんに、慌てて手を振る。
「全然! 大丈夫です!」
咄嗟のことに驚いたのは事実だけど、不快感はまったく覚えなかった。
それどころか、ひどくときめいてしまった――とは、とても本人には言えないけれど。
「すみません、そろそろ戻らないといけなくて。改めてお礼に伺います。今日、何時までいらっしゃいますか?」
「十九時まで、ですが……」
「わかりました。では後ほどまた参ります」
そう言い残すと、貴島さんはカップに残ったコーヒーを一口で飲み切って、トレイごと下げ台に戻すと店内を出て行った。
いつもだったら「カップはそのままでいいですよ」と自然と口をつくのに、その慣れた言葉さえ浮かばず、ただ黙ってその後ろ姿を見送ることしかできなかった。
それからレジに戻ると、案の定、木下さんに洗いざらい何が起きたのか説明させられた。興奮した彼女が上げる静かな歓声を聞きながら、改めて肩に触れた手の感触を思い出してしまい、顔が火照った。
引き寄せられた瞬間、制服越しに伝わる手のひらの熱に、安心感を覚えた。
と同時に、力強い腕に胸は高まるばかりで――。
そこまで考えて、あわてて頭を振る。そうでもしないと、事あるごとに思い返してしまって、とても仕事になりそうもなかった。
「集中集中!」と自分に言い聞かせながら、何やかんやと溜まっていた作業をこなしているうちに、あっという間に十八時半をすぎた。
クローズの引き継ぎをして、店内のテーブルを拭きながらまわっていると、言葉通り貴島さんがやってきた。会釈され、ぺこりとお辞儀を返す。ブレンドを注文した彼は、席に着く前に私のもとへ近づくと、「仕事してますので、ゆっくりで大丈夫ですから」と囁いた。
ありがとうございます、と小声で返す。そのやりとりが、なんだかくすぐったかった。
幸運なことに面倒な引き継ぎもなく、時間ちょうどに退勤してバックヤードで着替えた。
「お疲れさまでした」と最後まで残るスタッフに声をかけて、正面の自動ドアから出ると、向かいの売店の前に貴島さんが立っているのが見えた。
慌てて駆け寄る。
「すみません、お待たせして」
「いえ。店内じゃない方が良いかと思いまして」
その気遣いがありがたく、「助かります」と伝えると、ふっと頭上で微笑む気配がした。
「武井さん、帰りは電車ですか?」
「はい、地下鉄で」
「じゃあ同じですね」
しかも、同じ方向だった。貴島さんはここから三駅、私はそこからさらに二駅先だ。
「あの、良かったら一駅分、歩きませんか?」
電車内だと話もしづらいから、と誘われて、二人で地上に出た。
日中はまだまだ暑いけれど、日が落ちるとだいぶ過ごしやすくなってきた。心地よい夜風が肌を撫でる。
約半日ぶりの外の空気を、すうっと吸い込んで、一歩先をいく貴島さんの後を追いかける。
「先ほどは本当にありがとうございました」と改めてお礼を言われ、いえいえと顔の前で手を振ったものの、少しだけ躊躇って、続けた。
自然と声を潜めてしまう。
「実は……。あの後、夕方またいらしたんです、先ほどの女性……」
「えっ」
貴島さんが、露骨に顔を顰めた。
「お店には入らず、外から様子を見ていただけで。気づいたらいなくなったんですけど……。恋人なんて嘘だと思っているのかもしれません。もしかしたら、しばらくは見張っているつもりなのかも……」
「そうでしたか……」
深いため息を吐いた貴島さんが、足を止めて頭を下げる。
「改めて、本当に申し訳ありません」
「それは全然。こちらからお声をかけたんですし。でもどうしましょう、もうしばらく、ふりはしておいた方がいいかもしれませんね」
そう言うと、うーんと貴島さんは唸って、
「でも、武井さんにそこまでご迷惑をお掛けするわけには……」
「そんな迷惑なんてことはないんですけど」
「けど?」
「正直、ふりだったってバレて、あの人に責められるのも嫌だなあって」
素直な言葉が口をついてしまう。
どうか、うまく話に乗ってくれますように、と祈るような気持ちで、すっと貴島さんの横に並んだ。
迷惑かなと思いながらも、そっと、触れない程度に腕を寄せ、貴島さんに目配せをした。
「え……なに?」
自然に寄り添えたのだろうか、突然割って入った私に、女性の視線が突き刺さる。
こ、怖い……。
けれど、乗り掛かった船だ。
背伸びして、形の良い耳元に、「彼女のふり、しますから」と囁く。
わずかに目を見張った貴島さんが、私にだけわかるくらい小さく頷いた。
改めて女性を見据え、ぐっと足に力を込めた瞬間、力強い腕で肩を引き寄せられた。
「彼女と付き合っているので、貴女とは付き合えない」
「え……?」
私が思わず高いところにある貴島さんの顔を見上げると同時に、女性の呆けたような声が響いた。引き寄せられた腕が予想以上にたくましく、咄嗟に私も同じような声を出しそうになっていた。心の中だけで収められたことを、安堵する。あと一歩で、すべてをぶち壊しにしていたかもしれないくらいの、衝撃だった。
貴島さんの目線が私の胸元――名札に落ちているのを感じた次の瞬間だった。
「もう一度言う。彼女――夏穂さんと付き合っているので、貴女には興味がない」
貴島さんが、はっきりそう言った。
――え!? なんで……?
貴島さんが突然口にした私の名前に、疑問が兆す。
でもそれを訊ねる前に、口をわなわなと震わせた女性は、「信じられない!」と捨てセリフを吐き捨てた。そして、ハンドバッグを掴み、勢いよく店を飛び出していってしまった。
来店したときとあまりの変わりように、ぽかんと一連の動きを見ていることしかできなかった。
そうしてその背が見えなくなると同時に、肩に触れていた温もりがぱっと離れていく。
「大変、申し訳ありませんでした」
直角に腰を折るとはこのことか、と言わんばかりに、貴島さんは頭を下げた。
「いえ、すみません、こちらこそ勝手に出張ってしまって……」
「とんでもない。彼女、同じ会社なんですが、何を勘違いしたのか俺が彼女に好意を持っていると思い込んでいて。最近毎日あんな調子で、本当に困っていたんです」
そう言う貴島さんの顔はげっそりしていて、大袈裟ではなく本当に大変だったんだな、と感じられた。
「お力になれたなら良かったです」
心の底からそう言うと、貴島さんはようやくほっと息を吐いて、微かに笑みを浮かべた。目尻が少し下がって、いつもよりだいぶ雰囲気が幼くなる。
その変化に、どきんと胸が疼くのを感じた。
「本当に、大変失礼いたしました。その……突然触ってしまって」
何とお詫びをすればいいか、と続ける貴島さんに、慌てて手を振る。
「全然! 大丈夫です!」
咄嗟のことに驚いたのは事実だけど、不快感はまったく覚えなかった。
それどころか、ひどくときめいてしまった――とは、とても本人には言えないけれど。
「すみません、そろそろ戻らないといけなくて。改めてお礼に伺います。今日、何時までいらっしゃいますか?」
「十九時まで、ですが……」
「わかりました。では後ほどまた参ります」
そう言い残すと、貴島さんはカップに残ったコーヒーを一口で飲み切って、トレイごと下げ台に戻すと店内を出て行った。
いつもだったら「カップはそのままでいいですよ」と自然と口をつくのに、その慣れた言葉さえ浮かばず、ただ黙ってその後ろ姿を見送ることしかできなかった。
それからレジに戻ると、案の定、木下さんに洗いざらい何が起きたのか説明させられた。興奮した彼女が上げる静かな歓声を聞きながら、改めて肩に触れた手の感触を思い出してしまい、顔が火照った。
引き寄せられた瞬間、制服越しに伝わる手のひらの熱に、安心感を覚えた。
と同時に、力強い腕に胸は高まるばかりで――。
そこまで考えて、あわてて頭を振る。そうでもしないと、事あるごとに思い返してしまって、とても仕事になりそうもなかった。
「集中集中!」と自分に言い聞かせながら、何やかんやと溜まっていた作業をこなしているうちに、あっという間に十八時半をすぎた。
クローズの引き継ぎをして、店内のテーブルを拭きながらまわっていると、言葉通り貴島さんがやってきた。会釈され、ぺこりとお辞儀を返す。ブレンドを注文した彼は、席に着く前に私のもとへ近づくと、「仕事してますので、ゆっくりで大丈夫ですから」と囁いた。
ありがとうございます、と小声で返す。そのやりとりが、なんだかくすぐったかった。
幸運なことに面倒な引き継ぎもなく、時間ちょうどに退勤してバックヤードで着替えた。
「お疲れさまでした」と最後まで残るスタッフに声をかけて、正面の自動ドアから出ると、向かいの売店の前に貴島さんが立っているのが見えた。
慌てて駆け寄る。
「すみません、お待たせして」
「いえ。店内じゃない方が良いかと思いまして」
その気遣いがありがたく、「助かります」と伝えると、ふっと頭上で微笑む気配がした。
「武井さん、帰りは電車ですか?」
「はい、地下鉄で」
「じゃあ同じですね」
しかも、同じ方向だった。貴島さんはここから三駅、私はそこからさらに二駅先だ。
「あの、良かったら一駅分、歩きませんか?」
電車内だと話もしづらいから、と誘われて、二人で地上に出た。
日中はまだまだ暑いけれど、日が落ちるとだいぶ過ごしやすくなってきた。心地よい夜風が肌を撫でる。
約半日ぶりの外の空気を、すうっと吸い込んで、一歩先をいく貴島さんの後を追いかける。
「先ほどは本当にありがとうございました」と改めてお礼を言われ、いえいえと顔の前で手を振ったものの、少しだけ躊躇って、続けた。
自然と声を潜めてしまう。
「実は……。あの後、夕方またいらしたんです、先ほどの女性……」
「えっ」
貴島さんが、露骨に顔を顰めた。
「お店には入らず、外から様子を見ていただけで。気づいたらいなくなったんですけど……。恋人なんて嘘だと思っているのかもしれません。もしかしたら、しばらくは見張っているつもりなのかも……」
「そうでしたか……」
深いため息を吐いた貴島さんが、足を止めて頭を下げる。
「改めて、本当に申し訳ありません」
「それは全然。こちらからお声をかけたんですし。でもどうしましょう、もうしばらく、ふりはしておいた方がいいかもしれませんね」
そう言うと、うーんと貴島さんは唸って、
「でも、武井さんにそこまでご迷惑をお掛けするわけには……」
「そんな迷惑なんてことはないんですけど」
「けど?」
「正直、ふりだったってバレて、あの人に責められるのも嫌だなあって」
素直な言葉が口をついてしまう。