触れる指先 偽りの恋

ときめきと不安

 あたたかい、まるでそよ風のようなぬくもりに包まれていた。肌を撫でる空気が気持ち良い。
 ずっとここにいたいかも、と思ってしまう心地よさ。
 遠くから、ぴちゃん、と水の跳ねる音が聞こえてくる。
 その音がだんだん大きくなって、ああ起きなければと思う。
 
 ふいに、目の前に貴島さんが現れた。その瞬間、これは夢だとわかった。
 なぜなら優しい笑みを浮かべた貴島さんが、手を伸ばしてそっと私の頬に触れたから。

 その大きな手のひらを受け入れて、当たり前のように目を閉じる。
 頬を撫でていた手が唇をなぞり――そのまま、そっと唇が重なった。

「ん……」

 思わず声が漏れる。舌で唇を撫でられたからだ。思わず開いた唇の合間から舌が侵入してきて、ぬるりとした感触が――、

 と、頭にぴしりと稲妻が走るように痛みが走った。

「う……ん」

 頭の中をガンガンと打ち付けるような痛みだんだんひどくなって、先ほどまでの快感がどこかへ霧散していってしまう。

 気づけば、私を緩く抱きしめていた貴島さんはいなくなっていた。
 待って、と目を開けて、あれここはどこだろう、と見慣れぬ天井をみつめた。
 異変に気づいて、慌てて起き上がる。
 昨日と同じ服、落としてもいない化粧、そしてここは――

「起きた?」
 
 そう言って声をかけてきたのは、夢ではない本物の貴島さんだった。

「え……え?」
「おはよ」

 窓から射し込む明るい日差し。時間はわからないけれど、とっくに朝になっているのは明らかだ。
 昨日のことが何も思い出せない。いや、何もじゃない。
 久しぶりに、同期との飲み会で。最初は真面目に会社について話していたのだが、途中から恋バナになって。みんなが好きな人いないの、と聞いてくるから、貴島さんを思い浮かべてしどろもどろになってしまった。普段、「全然いない」ときっぱり切り捨ててきたから、すぐに怪しまれ……気になるひとがいる、ということを白状させられたかと思ったら、今度は誰だという質問攻撃が始まったのだ。

 お客さん、というのはまずい。ニューグランドの本社は、私の勤務する店舗と同じ駅にあるのだ。改札の反対側ではあるけれど、直結していることに変わりない。下手なことを言ったら、本社勤めの同期たちが、それこそ店舗まで見にやってくる可能性が否定できない。

 と焦りながらも、なんとか誤魔化そうとお酒を煽っていたら、すっかり酔っ払ってしまったらしい。

「え、っと。あれ……」

 混乱する私に笑いかけた貴島さんは「何も覚えてないの?」と問いかける。

 覚えていないことに加えて、先ほどまで見ていた夢の感覚がリアルに思い出され、まともに顔を見られない。慌てて自分の唇を押さえる。
 ていうか本当に、なんて夢を……。

「はい……えっと電話をかけたっていうのは、なんとなく覚えているんですけど」
「そう。じゃあ大体覚えてるよ。俺に電話してくれて、外にいるっていうから慌てて迎えにいったってだけ」
「ご、ご迷惑をおかけして」
「大丈夫。でも何もなくてよかった」

 貴島さんはそう言って、タオルを渡してくれた。

「顔、洗ってきたら? シャワーするならバスタオルも……」
「いえ、いえいえ! 大丈夫です。ほんとすみません。洗面台だけお借りします」

 そう言って、場所を教えてもらった洗面所を借りた。貴島さんの家は、モノトーンに統一された落ち着いた部屋だった。見えるところにものが出ていない。几帳面なのだろうか。
 大きな鏡を覗き込む。酷いパンダ目こそ避けられていたけど、化粧はよれよれだ。シートタイプのメイク落としを持ち歩いていてよかった。できる範囲で化粧も直して、寝かせてもらっていたリビングに戻ると、毛布は綺麗に畳まれて片付けられていた。

「今日休みだよね? 朝ごはん食べて――」
「だ、大丈夫です! ご迷惑おかけして本当に申し訳ありません。帰ります! 失礼します!」

 一気にそう言うと、鞄を手に取り一目散に玄関へと向かった。
 綺麗に揃えられたパンプスに足を突っ込む。
 急ぎすぎたせいか、玄関の扉にがつんと足をぶつけた。

「いった……っ」
「大丈夫?」

 貴島さんが慌てて追ってくる。

「大丈夫です。あの、本当にすみません」
「待って、駅わかる?」
「多分。何とかします。本当にお邪魔しました」

 そう言って、振り向かずに飛び出すと階段へ走った。
 途中の踊り場で座り込む。

「あー、もう最悪……」

 まさか酔っ払って介抱してもらった挙句、泊まってしまうなんて。
 絶対、だらしない女だと思われた。
 それにあんな夢を見たせいで、気づいてしまった。

 私は、もうとっくにふりじゃなくて、貴島さんのことが好きだ。

 最悪なタイミングで気づいてしまった。
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