触れる指先 偽りの恋
「春樹?」
落ち着いた女性の声が聞こえて、はっとそちらを見やる。
「美弥子……」
隣から貴島さんの固い声が聞こえて、胸が軋んだ。今、間違いなくこの人の名前を呼んだ。嫌な予感でいっぱいになって、呼吸が浅くなる。
「やっぱり。久しぶり」
朗らかな声で近寄ってきた女性は、白いパンツに、ネイビーのジャケットを羽織った、いかにも仕事ができる雰囲気を醸し出した女性だった。裾から見える足首がほっそりしていて、スタイルの良さを際立たせている。
顎のラインで切り揃えられた前下がりのボブは、手入れが行き届いているのが見て取れるほどツヤツヤだった。
彼女が一歩踏み出すたびに、耳元で大振りのピアスが揺れる。
「今日はもう帰り? 早いじゃん」
「あ、ああ……なんで」
呆然といった様子で問う貴島さんの様子に、私の頭の中でサイレンが鳴り始める。警戒して。いや違う、警戒しても、もう遅い、と。
「お宅の会社と仕事をすることになったの。その打ち合わせ。もしかしたら、春樹と組むのかなって思ってたけど」
「いや、聞いてないけど。ああ、もしかして部長が帰りがけに新業務って言っていた件……」
「今日は挨拶だけだから。もしかしたら、そうかもね」
ふふふ、と笑う唇は鮮やかな赤で染まっている。
呆然としている私たちを余所に、「そうなったらよろしくね」とその女性は、貴島さんの腕をぱしんと叩いた。その気軽な様子に、やっぱりただならぬ関係性を感じて、ぼんやりと貴島さんを見上げる。
するとその時になってようやく気づいたのか、女性の目が私を捕えた。
「あら、ごめんなさい。誰かと一緒だって、全然気づかなくて」
「い、いえ……」
「いっつもこうなの、すぐまわりが見えなくなるって怒られちゃって」
そう言って微笑む女性に見下ろされる形になって、彼女の履くパンプスが細いヒールで支えられていることに気づいた。
「全然、大丈夫です。すみません、貴島さん。私、帰りますね。久しぶりにお会いになったようですし。私はここで」
二人に向かってお辞儀をすると、私は急いで改札に向かって駆け出した。
「え、武井さん!」
背後で、貴島さんが呼ぶ声がする。
でもスニーカーのおかげで、すぐに改札を通り抜け、階段を駆け降りることができた。ちょうどホームに来ていた電車に滑り込む。
閉まったドアに寄りかかって、荒い息を吐いた。
顔を手で覆う。綺麗な女性だった。それも貴島さんと親そうな……ミヤコ、と呼んでいたし、貴島さんのことも名前で呼んでいた。お互い名前で呼び合うなんて、相当親しかった証拠だろう。いや、今でも親しそうだった。
まるで阿吽の呼吸のように、ぽんぽんと交わされる会話。当たり前のように触れ合う近い距離。
目を閉じても、脳裏に二人の様子が思い浮かぶ。
逃げてきてしまった。
恋人はいない、と言っていたから、考えたこともなかったけれど、ずっといなかったわけではないだろう。当たり前だ。
あの距離感は、やっぱり元カノ、だろうか。しかも平然と話しかけた女性の雰囲気から、二人の関係が透けてみえるようで、もしかして今も――という疑いが過ってしまう。
もし貴島さんが彼女のことを好きだったら。
そう思うと、指先が冷たくなっていく。
隣でこわばった表情を浮かべた貴島さんの顔が、頭から消えない。
バッグから携帯を取り出す。何度も確認したけれど、その日新しいメッセージは届かなかった。
落ち着いた女性の声が聞こえて、はっとそちらを見やる。
「美弥子……」
隣から貴島さんの固い声が聞こえて、胸が軋んだ。今、間違いなくこの人の名前を呼んだ。嫌な予感でいっぱいになって、呼吸が浅くなる。
「やっぱり。久しぶり」
朗らかな声で近寄ってきた女性は、白いパンツに、ネイビーのジャケットを羽織った、いかにも仕事ができる雰囲気を醸し出した女性だった。裾から見える足首がほっそりしていて、スタイルの良さを際立たせている。
顎のラインで切り揃えられた前下がりのボブは、手入れが行き届いているのが見て取れるほどツヤツヤだった。
彼女が一歩踏み出すたびに、耳元で大振りのピアスが揺れる。
「今日はもう帰り? 早いじゃん」
「あ、ああ……なんで」
呆然といった様子で問う貴島さんの様子に、私の頭の中でサイレンが鳴り始める。警戒して。いや違う、警戒しても、もう遅い、と。
「お宅の会社と仕事をすることになったの。その打ち合わせ。もしかしたら、春樹と組むのかなって思ってたけど」
「いや、聞いてないけど。ああ、もしかして部長が帰りがけに新業務って言っていた件……」
「今日は挨拶だけだから。もしかしたら、そうかもね」
ふふふ、と笑う唇は鮮やかな赤で染まっている。
呆然としている私たちを余所に、「そうなったらよろしくね」とその女性は、貴島さんの腕をぱしんと叩いた。その気軽な様子に、やっぱりただならぬ関係性を感じて、ぼんやりと貴島さんを見上げる。
するとその時になってようやく気づいたのか、女性の目が私を捕えた。
「あら、ごめんなさい。誰かと一緒だって、全然気づかなくて」
「い、いえ……」
「いっつもこうなの、すぐまわりが見えなくなるって怒られちゃって」
そう言って微笑む女性に見下ろされる形になって、彼女の履くパンプスが細いヒールで支えられていることに気づいた。
「全然、大丈夫です。すみません、貴島さん。私、帰りますね。久しぶりにお会いになったようですし。私はここで」
二人に向かってお辞儀をすると、私は急いで改札に向かって駆け出した。
「え、武井さん!」
背後で、貴島さんが呼ぶ声がする。
でもスニーカーのおかげで、すぐに改札を通り抜け、階段を駆け降りることができた。ちょうどホームに来ていた電車に滑り込む。
閉まったドアに寄りかかって、荒い息を吐いた。
顔を手で覆う。綺麗な女性だった。それも貴島さんと親そうな……ミヤコ、と呼んでいたし、貴島さんのことも名前で呼んでいた。お互い名前で呼び合うなんて、相当親しかった証拠だろう。いや、今でも親しそうだった。
まるで阿吽の呼吸のように、ぽんぽんと交わされる会話。当たり前のように触れ合う近い距離。
目を閉じても、脳裏に二人の様子が思い浮かぶ。
逃げてきてしまった。
恋人はいない、と言っていたから、考えたこともなかったけれど、ずっといなかったわけではないだろう。当たり前だ。
あの距離感は、やっぱり元カノ、だろうか。しかも平然と話しかけた女性の雰囲気から、二人の関係が透けてみえるようで、もしかして今も――という疑いが過ってしまう。
もし貴島さんが彼女のことを好きだったら。
そう思うと、指先が冷たくなっていく。
隣でこわばった表情を浮かべた貴島さんの顔が、頭から消えない。
バッグから携帯を取り出す。何度も確認したけれど、その日新しいメッセージは届かなかった。