触れる指先 偽りの恋
レジを打ちながらこぼれそうなため息を堪える。
結局昨日は、帰って夕飯を食べる気にもならずにそのまま眠ってしまった。貴島さんとご飯を食べて帰るはずだったのに、一体どうしてこうなってしまったんだろう。
自分が、怖くて逃げ出したからいけないんだけれど。
朝起きると貴島さんからは連絡が入っていた。
また改めて出かけよう、という内容だった。喜んでいいのか、安心していいのか、何もわからない。
とりあえず、楽しみにしています、と無難な返信を打った。
貴島さんのことを好きだと気づいてから、日に日に文面が無難なものになっていく。本音が漏れてしまうのが怖かったし、下手を打って傷つくのが嫌だった。
今日も店には来ないのかなあと思っていると、十五時前に、突然貴島さんが現れた。
知らぬ間に、貴島さんが店に入ってくるとすぐに気づく特別なレーダーを私は身につけてしまったらしい。発注表から顔を上げると、視線のまっすぐ先に、貴島さんがいた。
「いらっしゃいませ」
声が上擦る。清掃ついでに、ホールに降りようとした足が、止まった。
貴島さんの後ろに、昨日駅で会った綺麗な女性がいたからだ。
「春樹、昼食食べながら打ち合わせはいいけど、なんでカフェなの」
「いいだろ、別に」
「いいけど。もっとちゃんと食べたほうがいいよ。もう若くないんだから」
「好きなもの食べるのが一番リラックスできるんだよ。嫌なら休憩の後に改めて打ち合わせでもいいんだけど」
「それは嫌。午後は別の会議の準備があるの」
二人が仲良さそうに話しながら、レジに向かって歩いてくる。
嫌だな。
咄嗟に放り投げた発注表を再び手にとってバックヤードに下がろうとすると、「武井さん!」と声をかけられた。驚いて振り返る。
貴島さんが、レジの列を抜けて声をかけてきたのだ。
「ごめん。仕事中に」
「いえ……」
「大丈夫? 具合悪い?」
私の顔面は蒼白になっていたらしい。
貴島さんが眉を寄せて、顔を覗き込んでくる。
咄嗟に目を逸らして、一緒にやってきた女性の方を見てしまった。
するとその視線に気づいたのか、貴島さんは小さく息を吐いた。
「彼女、昔の同僚なんだ。一緒に仕事してるだけだから」
貴島さんがそう言って、私をじっと見つめる。でも目を合わせていることができず、俯いてしまった。
「あ、はい。大丈夫ですよ。ふりはちゃんと続けますので……」
「そうじゃなくて」
「春樹! 先に座ってるわよ」
番号札を乗せたトレイを持った、あのミヤコさんが声をかけてくる。彼女はすたすたと店の奥に進んでいき、四人掛けのテーブル席に座った。そこは少し奥まっているから、レジからは見えない。
「とにかく、それ以上でも何でもないから」
貴島さんが、ね? と言い聞かせるように呟くので、仕方なく頷く。レジやドリンクを作っているアルバイトさんの視線を感じて、そちらを見やると、話し続ける私たちを、不思議そうな目で見ていた。
その様子に気付いたのか、「また連絡する」と言って貴島さんはレジの列に戻っていった。
貴島さんと、ミヤコさんが店内で軽食を食べながら打ち合わせをしている間、一度だけホールをまわった。ダスター片手にテーブルを拭きながら、やっぱり二人の様子が気になってしまう。ちらりと見た感じ、二人は資料を見ながら確かに仕事の話をしているようだった。
でも、貴島さんのタブレットを二人で覗き込んでいる様子に、どことなく親密さが見えてしまう。仕事だとは、わかっていても。
小一時間ほど経って、退店するタイミングで貴島さんがカウンターの中を覗いてきた。木下ちゃんが気を利かせて場所を変わってくれる。
「ありがとうございました……」
あくまで店員として近づいた私の耳元で、貴島さんが声を顰める。
「今日は遅番?」
「あ、はい……」
「そっか」 貴島さんは少し残念そうに「俺も帰り遅くなるかもしれないから、時間が合いそうだったら連絡するね」と言って、じゃあ、と外へ出て行った。
その背を追っていると、店を出たところで待っていたミヤコさんと、目が合った気がした。
結局その日は、遅番の私の方が貴島さんより早く上がれてしまって、一緒には帰れなかった。
それどころか、その日を境に、貴島さんとは時間が全然合わなくなってしまった。
貴島さんからは「新しいプロジェクトが始まって急に忙しくなった」と連絡があった。土日も視察で出かけるらしい。代休が取れるのは当分先だ、と言っていた。
店には変わらず頻繁に来てくれるけれど、昼時は大体あの女性――ミヤコさんが一緒だった。
心の中に、澱のようなもやもやだけが積もっていく。
いくら元同僚で、それ以上でも以下でもないと言われても、それ以上の関係なのではないかと疑ってしまう。
ただあくまで恋人のふりをしているだけの自分が、貴島さんを問い詰める理由もないのだ。あの人のことを好きだとしても、責めることはできないのだから。
結局昨日は、帰って夕飯を食べる気にもならずにそのまま眠ってしまった。貴島さんとご飯を食べて帰るはずだったのに、一体どうしてこうなってしまったんだろう。
自分が、怖くて逃げ出したからいけないんだけれど。
朝起きると貴島さんからは連絡が入っていた。
また改めて出かけよう、という内容だった。喜んでいいのか、安心していいのか、何もわからない。
とりあえず、楽しみにしています、と無難な返信を打った。
貴島さんのことを好きだと気づいてから、日に日に文面が無難なものになっていく。本音が漏れてしまうのが怖かったし、下手を打って傷つくのが嫌だった。
今日も店には来ないのかなあと思っていると、十五時前に、突然貴島さんが現れた。
知らぬ間に、貴島さんが店に入ってくるとすぐに気づく特別なレーダーを私は身につけてしまったらしい。発注表から顔を上げると、視線のまっすぐ先に、貴島さんがいた。
「いらっしゃいませ」
声が上擦る。清掃ついでに、ホールに降りようとした足が、止まった。
貴島さんの後ろに、昨日駅で会った綺麗な女性がいたからだ。
「春樹、昼食食べながら打ち合わせはいいけど、なんでカフェなの」
「いいだろ、別に」
「いいけど。もっとちゃんと食べたほうがいいよ。もう若くないんだから」
「好きなもの食べるのが一番リラックスできるんだよ。嫌なら休憩の後に改めて打ち合わせでもいいんだけど」
「それは嫌。午後は別の会議の準備があるの」
二人が仲良さそうに話しながら、レジに向かって歩いてくる。
嫌だな。
咄嗟に放り投げた発注表を再び手にとってバックヤードに下がろうとすると、「武井さん!」と声をかけられた。驚いて振り返る。
貴島さんが、レジの列を抜けて声をかけてきたのだ。
「ごめん。仕事中に」
「いえ……」
「大丈夫? 具合悪い?」
私の顔面は蒼白になっていたらしい。
貴島さんが眉を寄せて、顔を覗き込んでくる。
咄嗟に目を逸らして、一緒にやってきた女性の方を見てしまった。
するとその視線に気づいたのか、貴島さんは小さく息を吐いた。
「彼女、昔の同僚なんだ。一緒に仕事してるだけだから」
貴島さんがそう言って、私をじっと見つめる。でも目を合わせていることができず、俯いてしまった。
「あ、はい。大丈夫ですよ。ふりはちゃんと続けますので……」
「そうじゃなくて」
「春樹! 先に座ってるわよ」
番号札を乗せたトレイを持った、あのミヤコさんが声をかけてくる。彼女はすたすたと店の奥に進んでいき、四人掛けのテーブル席に座った。そこは少し奥まっているから、レジからは見えない。
「とにかく、それ以上でも何でもないから」
貴島さんが、ね? と言い聞かせるように呟くので、仕方なく頷く。レジやドリンクを作っているアルバイトさんの視線を感じて、そちらを見やると、話し続ける私たちを、不思議そうな目で見ていた。
その様子に気付いたのか、「また連絡する」と言って貴島さんはレジの列に戻っていった。
貴島さんと、ミヤコさんが店内で軽食を食べながら打ち合わせをしている間、一度だけホールをまわった。ダスター片手にテーブルを拭きながら、やっぱり二人の様子が気になってしまう。ちらりと見た感じ、二人は資料を見ながら確かに仕事の話をしているようだった。
でも、貴島さんのタブレットを二人で覗き込んでいる様子に、どことなく親密さが見えてしまう。仕事だとは、わかっていても。
小一時間ほど経って、退店するタイミングで貴島さんがカウンターの中を覗いてきた。木下ちゃんが気を利かせて場所を変わってくれる。
「ありがとうございました……」
あくまで店員として近づいた私の耳元で、貴島さんが声を顰める。
「今日は遅番?」
「あ、はい……」
「そっか」 貴島さんは少し残念そうに「俺も帰り遅くなるかもしれないから、時間が合いそうだったら連絡するね」と言って、じゃあ、と外へ出て行った。
その背を追っていると、店を出たところで待っていたミヤコさんと、目が合った気がした。
結局その日は、遅番の私の方が貴島さんより早く上がれてしまって、一緒には帰れなかった。
それどころか、その日を境に、貴島さんとは時間が全然合わなくなってしまった。
貴島さんからは「新しいプロジェクトが始まって急に忙しくなった」と連絡があった。土日も視察で出かけるらしい。代休が取れるのは当分先だ、と言っていた。
店には変わらず頻繁に来てくれるけれど、昼時は大体あの女性――ミヤコさんが一緒だった。
心の中に、澱のようなもやもやだけが積もっていく。
いくら元同僚で、それ以上でも以下でもないと言われても、それ以上の関係なのではないかと疑ってしまう。
ただあくまで恋人のふりをしているだけの自分が、貴島さんを問い詰める理由もないのだ。あの人のことを好きだとしても、責めることはできないのだから。