触れる指先 偽りの恋
 気づけばため息が溢れるような毎日を送っていた、ある日のことだ。
 店がオープンして間もない早朝に、毎日毎日考えてしまう悩みの種が、ひとりで現れた。ミヤコさんだ。店に入ってきた瞬間、いつものオーラに目が吸い寄せられたけれど、気にしないように仕事を続けていたのだけれど。

「武井さん、います?」とレジでバイトの子が聞かれていて、慌ててそちらに向き直る。
「私です」そう名乗ると、彼女はじっとこちらを見つめてから目を細めた。
「やっぱりあなただったの」と言われ、背中に嫌な汗が滲む。

 なんだろう、貴島さんに近寄るな、とか言われるのかな、と思っていると――。

「ごめんなさい、仕事中に。春樹から話を聞いて。一度お話してみたいと思って」
「え……?」

 思いもよらない言葉に首を傾げると、その女性は「あ、ごめんなさい。私、相原美弥子といいます」と頭を上げた。
「あ、武井夏穂です……」とこちらも素直に名乗ってしまう。

「私、三年くらい前まで、春樹と同じ会社で働いていたんです。その時、あの人すっごく他人に冷たくて……。私は途中で転職しちゃったんだけど、でも今回、久しぶりに仕事を一緒にすることになったら、まるで別人みたいに変わっていて。どういう心境の変化なの?って聞いたら、あなたに出会ったからだって言われて」
「え……?」
「それで、一度お話ししてみたかったの」
「人違いじゃないですか? 私が貴島さんとお話しするようになったのって、ここ最近で……」

 と言いかけて、口を噤む。相原さんに対して、私をどのように紹介しているのか、わからなかったからだ。もし「仮の恋人」だと伝えていたら――。

「相原さんは、貴島さんとは、その……」
「当時、付き合ってたの。でもお互い仕事に夢中すぎて、別れちゃったんだけど」

 そう言って肩を竦める相原さんの様子を、ぼんやりと見つめた。
 自分の身体が、内臓の芯から冷えていくような感覚がした。
 でも同時にやっぱり、とも思う。

 貴島さんとの距離感は、ただの同僚だとは思えなかった。
 打ち解けた、信頼感のようなものが感じられたし、それ以上に透けて見えたのは、二人の過去の関係だったのだろう。
 今は、どうなんですか――。
 そう聞きたい気持ちを押し殺していると、自動ドアが開いて、団体客が入ってきてしまった。
 
「すみません……」
「こちらこそ、お仕事中にごめんなさい。また来ますね」
 
 相原さんはそう言って微笑むと、コーヒーを受け取って去って行った。
 その背を見送ってから、急いで二台目のレジを開ける。注文を聞きながら、未だ混乱している頭の中を整理した。
 
 相原さんはもともと貴島さんの同僚で、当時付き合っていた。
 今は、再会して、一緒に仕事をしている。
 どうやら元鞘には戻っていないようだけれど、今、お互いをどう思っているのかはわからない。
 
 貴島さんは、相原さんに私のことを何らかの形で話しているらしい。
 恋人のふりをしている、と説明しているのなら、「もうお役御免で」と言われてもおかしくない。相原さんの方が、私よりよっぽど適任なのだから。
 この前やってきた楢崎さんのことを思い出した。彼女が言っていた「あの女」というのは相原さんのことだろう。楢崎さんの焦った様子を思い出すと、もしかしたら二人はよりを戻そうとしているのかもしれない。

 私はあくまで恋人のふり、だし。そろそろもう、ふりは大丈夫、と言われるのだろうか。

 でも貴島さんのことだから、仕事のパートナーと恋愛関係にはならないような気もする。特に復縁なんていったら、社内でも噂になりそうだし。そういうことはあまり好まないような気もするけれど。何より、一緒に仕事をしているだけで、それ以上ではない、とはっきり言っていた。
 安心したくて、自分の知っている貴島さんからいろいろ思い浮かべてみるけれど。
 
「でも、そもそも付き合ってたんだもんなー……」

 思わず、一番引っかかっていることが口から溢れた。

 それは、貴島さんからは説明されなかった。
 しかもこう言ったら悪いけれど、楢崎さんですら知っていたのだ。おそらく社内でも公認だったのだろう。
 頭が混乱してくる。
 何故、隠されたのだろう。
 素直に、以前付き合っていた、と言われれば、ショックではあっても受け入れられたかもしれないのに。隠したい理由があるのだろうか。考えれば考えるほど、どつぼに嵌っていく。
 
 ミスはしなかったものの、どこか心ここに在らずで働いていると、店長に呼び出された。
 まさか気もそぞろなことがばれたのだろうか、と緊張しながらバックヤードに入るなり、クリップで留められた書類の束を渡される。

「おめでとう。武井。」
「え?」
「来年の新商品の社内応募、出してたでしょ? あれ、通ったから」
「え……!」
「来年初夏のメニュー、通ったの。で、その企画が動き出すのに合わせて、武井は来月から本社に戻ることが決まったから」
「え、え……?」

 突然の通達に混乱する頭で書類を見ると、確かに、一枚目に私が提出した新商品の企画案が、自分の名前とともに載っていた。

「せっかくだから、企画会議から関わってもらいたいって。私からも、上に武井は商品企画が本命だって報告しておいたから」
「え、そうなんですか?」
「そりゃそうでしょ。ま、接客も向いてるけどね」

 そう言いながらも、店長が私の希望を重んじて報告していてくれたことに、胸が熱くなった。

「で、早速だけど明日から、武井のかわりに入ってもらう子が派遣されてくるから。二週間しかなくてタイトだけど、みっちり教え込んでから本社戻ってよね」
「はい!」

 そう言われて、ぎゅっと資料を握りしめる。じわじわと嬉しさが込み上げてきて、恋愛で澱んでいた気持ちが晴れていくのを感じた。
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