触れる指先 偽りの恋
触れたい
それからは怒涛のような忙しさだった。
本社から派遣されてきた斉藤くんは、今年新卒で入社してきた大卒の男の子だ。物腰が柔らかい好青年。本社での研修はひと通り終えたものの、今までの人生で、飲食店で働いた経験が全くないということで、全てを一から教えねばならなかった。
最初は接客のロープレから始まり実践、コンディメントの補充の仕方、ホールのテーブルや椅子の清掃方法、そしてドリンクの作り方、オープンやクローズ作業……思いつく限りの全てを教えなければならない。まずはお手本としてやって見せ、彼が実践する時は当然、真横で様子を見る。自分が接客する機会は減っても、斉藤くんがレジで対応している様子を後ろで黙って見ていなければならないから、一瞬たりとも気の抜ける瞬間がない。
そんなわけで、休憩を取るタイミングも全く同じだ。ひとりになる時間がない。
もちろん休憩時間中は別々に過ごすのだが、斉藤くんは本社でプレッシャーを与えられてきたのか、バックヤードでもいつも真面目にマニュアルを読み込んでいて、そんな後輩をひとり置いて、休憩を満喫する気にはならなかった。自然と、二人で狭いバックヤードで顔を付き合わせて過ごすことになる。
社割で買ったサンドウィッチをぱくつきながら、ドリンクを啜る斉藤くんを視界の隅で窺う。彼は、まだ飲んだことのないメニューがあると言って、毎日店のドリンクを片っ端から注文していた。
「熱心なのも大事だけど、少しは休憩したほうがいいよ」
そう言うと、斉藤くんは「はい」と頷くものの、マニュアルからは目を上げない。
「僕、要領があんまり良くないので」
そう言って、何やらノートに書き込んでいる。
熱心なのは頼もしいけれど、あまり根を詰めすぎるのも心配だ。
これから店頭の仕事だけではなく、社員ならではの発注やアルバイトの管理、店舗研修なんかについても教えなければならない。
本人のやる気が強いことに加え、私が本社へ戻る日まで残りが少ないということもあって、斉藤くんも私も、狂ったように仕事に熱中していた。
斉藤くんのやる気に触発され、私も店舗での勤務が始まったときからつけ始めたノートを、マニュアルとしてまとめ直すことにした。
もちろん、対応はケースバイケースだけれど、迷ったときに資料があるだけでだいぶやりやすくなるはず。斉藤くんがだいぶ頑張って仕事を詰め込んでいる実感があったから、私が本社に戻ったあとも少しでも助けになれば、と思った。
仕事をこなしながら、隙間時間でマニュアルをまとめる。それだけで、一日があっという間に過ぎていった。
貴島さんとは、変わらずメッセージでのやり取りが続いていた。
貴島さんも忙しいらしく、以前のように誘いが来るわけではない。どちらかというと、近況報告が多かった。今週末からは、海外出張に行くらしい。
やっぱり相原さんも一緒なのだろうか。同じプロジェクトだと言っていたし、ここしばらく休憩も同じ時間に取るくらいなのだから、きっと一緒なんだろうな。そう思うと勝手にため息が溢れる。
「武井さん?」
ふと視界が暗くなって、慌てて顔を上げると斎藤くんが立っていた。
「そろそろ休憩終わりますけど、大丈夫ですか?」
「え、あ、ごめん。行こっか」
「あれ、次は在庫管理って言ってませんでしたっけ……?」
と、斉藤くんは管理表を挟んだバインダーを掲げてくる。
「ごめん……そうだった」
教えられる人の方がしっかりしているなんて。これでは指導者失格だ。
肩を落とすと、斉藤くんが「僕が頼りなくてすみません」と謝るので、慌てて首を振る。
「え、斉藤くんは全然頼りなくないよ! 私が最近だめだなあって自己嫌悪してたところ。説明が足りないところあったら、何でも聞いてね」
「はい。ありがとうございます。でも」
斉藤くんがうーん、と苦笑いを浮かべる。
「武井さんみたいになりたいと思っても、教えてもらえるわけにはいかなそうですよね」
「え……?」
「だって武井さんって、やっぱり接客がすごい丁寧じゃないですか。お客様の困ってることとか、すぐ察するし。一体どこを見ていて気づくんだろうって不思議なんですけど。でもそれって、教えてもらってわかることじゃないっていうか」
「そんな大したことじゃないよ」
「いや、僕にはとても真似できないです。でも、だから仕事中に武井さんをめっちゃ観察して、少しでも掴めたらいいなって思ってます」
「……そんなに言ってもらえるようなことはしてないと思うんだけど。でも、ありがとう。慣れて余裕ができたら、きっと斉藤くんは大丈夫。それまでしっかり教えるから」
引き続きよろしくね、と言ってぐっと拳を握ってみせる。
すると斉藤くんは笑顔で「はい!」と拳を握り返してくれた。
本社から派遣されてきた斉藤くんは、今年新卒で入社してきた大卒の男の子だ。物腰が柔らかい好青年。本社での研修はひと通り終えたものの、今までの人生で、飲食店で働いた経験が全くないということで、全てを一から教えねばならなかった。
最初は接客のロープレから始まり実践、コンディメントの補充の仕方、ホールのテーブルや椅子の清掃方法、そしてドリンクの作り方、オープンやクローズ作業……思いつく限りの全てを教えなければならない。まずはお手本としてやって見せ、彼が実践する時は当然、真横で様子を見る。自分が接客する機会は減っても、斉藤くんがレジで対応している様子を後ろで黙って見ていなければならないから、一瞬たりとも気の抜ける瞬間がない。
そんなわけで、休憩を取るタイミングも全く同じだ。ひとりになる時間がない。
もちろん休憩時間中は別々に過ごすのだが、斉藤くんは本社でプレッシャーを与えられてきたのか、バックヤードでもいつも真面目にマニュアルを読み込んでいて、そんな後輩をひとり置いて、休憩を満喫する気にはならなかった。自然と、二人で狭いバックヤードで顔を付き合わせて過ごすことになる。
社割で買ったサンドウィッチをぱくつきながら、ドリンクを啜る斉藤くんを視界の隅で窺う。彼は、まだ飲んだことのないメニューがあると言って、毎日店のドリンクを片っ端から注文していた。
「熱心なのも大事だけど、少しは休憩したほうがいいよ」
そう言うと、斉藤くんは「はい」と頷くものの、マニュアルからは目を上げない。
「僕、要領があんまり良くないので」
そう言って、何やらノートに書き込んでいる。
熱心なのは頼もしいけれど、あまり根を詰めすぎるのも心配だ。
これから店頭の仕事だけではなく、社員ならではの発注やアルバイトの管理、店舗研修なんかについても教えなければならない。
本人のやる気が強いことに加え、私が本社へ戻る日まで残りが少ないということもあって、斉藤くんも私も、狂ったように仕事に熱中していた。
斉藤くんのやる気に触発され、私も店舗での勤務が始まったときからつけ始めたノートを、マニュアルとしてまとめ直すことにした。
もちろん、対応はケースバイケースだけれど、迷ったときに資料があるだけでだいぶやりやすくなるはず。斉藤くんがだいぶ頑張って仕事を詰め込んでいる実感があったから、私が本社に戻ったあとも少しでも助けになれば、と思った。
仕事をこなしながら、隙間時間でマニュアルをまとめる。それだけで、一日があっという間に過ぎていった。
貴島さんとは、変わらずメッセージでのやり取りが続いていた。
貴島さんも忙しいらしく、以前のように誘いが来るわけではない。どちらかというと、近況報告が多かった。今週末からは、海外出張に行くらしい。
やっぱり相原さんも一緒なのだろうか。同じプロジェクトだと言っていたし、ここしばらく休憩も同じ時間に取るくらいなのだから、きっと一緒なんだろうな。そう思うと勝手にため息が溢れる。
「武井さん?」
ふと視界が暗くなって、慌てて顔を上げると斎藤くんが立っていた。
「そろそろ休憩終わりますけど、大丈夫ですか?」
「え、あ、ごめん。行こっか」
「あれ、次は在庫管理って言ってませんでしたっけ……?」
と、斉藤くんは管理表を挟んだバインダーを掲げてくる。
「ごめん……そうだった」
教えられる人の方がしっかりしているなんて。これでは指導者失格だ。
肩を落とすと、斉藤くんが「僕が頼りなくてすみません」と謝るので、慌てて首を振る。
「え、斉藤くんは全然頼りなくないよ! 私が最近だめだなあって自己嫌悪してたところ。説明が足りないところあったら、何でも聞いてね」
「はい。ありがとうございます。でも」
斉藤くんがうーん、と苦笑いを浮かべる。
「武井さんみたいになりたいと思っても、教えてもらえるわけにはいかなそうですよね」
「え……?」
「だって武井さんって、やっぱり接客がすごい丁寧じゃないですか。お客様の困ってることとか、すぐ察するし。一体どこを見ていて気づくんだろうって不思議なんですけど。でもそれって、教えてもらってわかることじゃないっていうか」
「そんな大したことじゃないよ」
「いや、僕にはとても真似できないです。でも、だから仕事中に武井さんをめっちゃ観察して、少しでも掴めたらいいなって思ってます」
「……そんなに言ってもらえるようなことはしてないと思うんだけど。でも、ありがとう。慣れて余裕ができたら、きっと斉藤くんは大丈夫。それまでしっかり教えるから」
引き続きよろしくね、と言ってぐっと拳を握ってみせる。
すると斉藤くんは笑顔で「はい!」と拳を握り返してくれた。