触れる指先 偽りの恋
もちろん、付き合っている相手だからと言って監視されるのも怖いけれど、咄嗟の嘘だとばれたら、それはそれで「なぜそんな嘘を吐いたんだ」とか「お前は何様だ」とか、酷く罵倒されそうな気がする。
「それは……確かに」
それまでの彼女の行動を思い返しているのか、貴島さんは露骨に顔を顰めた。
きっと、これまでも相当な迷惑行為を行なっているのだろう。
ちなみに武井さん、と貴島さんが続ける。
「その、失礼なことを聞きますが、お付き合いされている方はいらっしゃいますか?」
「今は、いません……」
いたら、さすがにお客様の恋人のふりをしようとは思わなかったと思う。
「だったら……」
と言うと、貴島さんは一度口篭った。
かすかに躊躇いの色が見える。
けれど次の瞬間、改めて口を開いた。
「もう少し、恋人のふりを続けてもらえないでしょうか」
「え……?」
自分から提案したにも関わらず、思わず声が漏れてしまった。
「と言っても、特別なことをお願いしたいわけじゃないんです。お店に行ったときにちょっと会話をしてもらうとか、こうやって時間が合うとき一緒に途中まで帰るとか。それだけでも彼女……楢崎という隣の課の社員なんですけど。楢崎がどこからか見ているなら、効果はあるのかな、と」
「確かに……」
それなら付き合っているふり、と言っても大した負担じゃないだろう。そのうちに、彼女の気持ちが冷めてくれればいい。
「わかりました」
そう頷いた瞬間、貴島さんの腕が軽く私の肩に触れた。抱き寄せられるように近づいて、どくんと胸が高鳴る。おずおずと見上げると、すぐに私の真後ろをスーツ姿の集団が通り過ぎていった。貴島さんの手があっさりと離れていく。
「す、すみません」
「いえ。やっぱり立ち話じゃない方が良かったですね。こちらこそすみません」
貴島さんはそう謝ってくれたけど、違うのだ。
私が勝手に、抱きしめられるのかと思って、身構えてしまっただけで。
けれど貴島さんに、「本当にいいんですか?」と重ねて訊ねられて、思わず俯いた。
それを躊躇いだと誤解したのか、貴島さんはさらに言い募った。
「すみません、頼んでおきながら、さすがに不躾なお願いだったかなと思ったもので」
やっぱり止めましょう、と続けられて、顔を上げた。
違うのだ。ただ、『恋人のふり』をするだけなのに、舞い上がっている自分を自覚して、空回っているだけ。
ただそう説明するわけにもいかず、慌てて頭を振った。
「全然。いいんです。乗り掛かった船ですから」
「人助け、いつもされてますもんね」
そう言われて、今度はこちらが動きを止める番だった。
「武井さん、お店でいつも、困っている方に手を貸しているなあと思っていたので。重いものを持っているお客さんの荷物を席まで運んでさしあげたり、道案内している姿もよく見かけますし。まさか自分もその困った人に入るとは思いませんでしたが」
「貴島さんこそ、店員をちゃんとご覧になっているんですね」
気をつけなければ、と思う。私たち従業員にとっては一日に何回も繰り返す接客だけど、お客様お一人お一人にとっては、その一回が記憶に残るものなのだ。
「夏穂さんだから、ですけどね」
名前を呼ばれて、思わず見上げる。
そういえば、楢崎さんを追い払うときにも名前を呼ばれた。
でも、名札には苗字しか書かれていないはずなのに、なぜ――?
疑問を口にする前に、「遅くなりましたが、僕は貴島春樹といいます」と言った、貴島さんは胸ポケットから取り出した名刺を渡してくれた。
「春樹さん……」
貴島さんの名刺には、私が勤めているカフェと同じビルの上層階に入っている会社名が書かれていた。営業部国際第三課課長、とある。
「課長さん、ですか……」
そういえば、昼間の女性も貴島課長、と呼んでいた。
そう言うと、貴島さんは苦笑いを浮かべた。
「名ばかりです。人数も少ない課なので」
店で仕事をしている姿を思い浮かべると、きっと謙遜なんだろうな、と感じた。パソコンに向かっている表情はいつも真剣だし、凄まじい勢いでキーボードを叩いているし。電話がかかってきて、店を出て対応している姿を見かけたのも、一度や二度じゃない。
「そういえば……皆さんは名札をつけてらっしゃいますけど、武井さんは何故僕の名前を?」
そう首を傾げられて、しまった、と思うけれど、もう遅い。
「以前、偶然電話に出られるのを聞いてしまって。すみません、立ち聞きするつもりはなかったんですけど」
「そうだったんですか。でもよく覚えてられますね」
「その……一応常連さんのことは、なるべく覚えておこうと思っていて。すみません、いい気持ちしないですよね」
「とんでもない。そのおかげで今日は助かりましたし」
でも謎が解けました、と言って笑う貴島さんにほっとする。
「申し訳ないんですけど、しばらく、武井さんがいる時間にお店に行かせてください」
「もちろんです。いつでもいらしてください」
そう言うと、貴島さんは「商売上手ですね」と言ってまた笑った。
「そういえば、夏穂さんは、その、どんな字を書かれるんですか?」
「あ、はい。夏に、稲穂の穂です」
「ああ、そうだったんですか。それでは、季節がお隣ですね」
「確かに、そうですね」
その表現に、自然と笑みが浮かんだ。なんだか親しみを感じて。
私も貴島さんと同じように「どうして名前をご存知なんですか?」とさらりと聞けば良かったのに、タイミングを逃してしまった。
でももしかしたら同じように、店にいらしているときに私が名前で呼ばれているのを聞いたことがあるのかもしれない。
きっとそれで覚えていたのだろう、と自分を納得させた。
貴島さんは優秀な人に違いないから、些細なことを記憶していても何ら不思議ではなかった。
最初に言っていた通り、一駅分歩きながら話をして、隣の駅から電車に乗った。
同じ方向なので、同じ電車に乗ることになる。帰宅ラッシュで混み合った車内で、貴島さんはやんわりとドア前に誘導し、守るように前に立ってくれた。
「じゃあまた」と言って降りていく姿に、軽く手を振る。貴島さんはホームで遠ざかっていく電車を見守ってくれていた。
最寄駅から家まで歩いている途中に、ぴこんとスマホがメッセージを受信する。
念の為、連絡先を交換した貴島さんだった。
絵文字のない律儀な文面で、今日のお礼と気をつけて帰ってください、と書いてある。
誰かと新しくメッセージのやりとりをする、ということが久しぶりで、思わず笑みが零れた。
駅から十分ほど歩いてアパートに着いたところで、返信を打った。
――無事に家につきました。
と送って、少し考える。
――これから、よろしくお願いします。
こちらからそう送ったら、謝ってばかりの貴島さんが、気にしなければいいなと思った。
「それは……確かに」
それまでの彼女の行動を思い返しているのか、貴島さんは露骨に顔を顰めた。
きっと、これまでも相当な迷惑行為を行なっているのだろう。
ちなみに武井さん、と貴島さんが続ける。
「その、失礼なことを聞きますが、お付き合いされている方はいらっしゃいますか?」
「今は、いません……」
いたら、さすがにお客様の恋人のふりをしようとは思わなかったと思う。
「だったら……」
と言うと、貴島さんは一度口篭った。
かすかに躊躇いの色が見える。
けれど次の瞬間、改めて口を開いた。
「もう少し、恋人のふりを続けてもらえないでしょうか」
「え……?」
自分から提案したにも関わらず、思わず声が漏れてしまった。
「と言っても、特別なことをお願いしたいわけじゃないんです。お店に行ったときにちょっと会話をしてもらうとか、こうやって時間が合うとき一緒に途中まで帰るとか。それだけでも彼女……楢崎という隣の課の社員なんですけど。楢崎がどこからか見ているなら、効果はあるのかな、と」
「確かに……」
それなら付き合っているふり、と言っても大した負担じゃないだろう。そのうちに、彼女の気持ちが冷めてくれればいい。
「わかりました」
そう頷いた瞬間、貴島さんの腕が軽く私の肩に触れた。抱き寄せられるように近づいて、どくんと胸が高鳴る。おずおずと見上げると、すぐに私の真後ろをスーツ姿の集団が通り過ぎていった。貴島さんの手があっさりと離れていく。
「す、すみません」
「いえ。やっぱり立ち話じゃない方が良かったですね。こちらこそすみません」
貴島さんはそう謝ってくれたけど、違うのだ。
私が勝手に、抱きしめられるのかと思って、身構えてしまっただけで。
けれど貴島さんに、「本当にいいんですか?」と重ねて訊ねられて、思わず俯いた。
それを躊躇いだと誤解したのか、貴島さんはさらに言い募った。
「すみません、頼んでおきながら、さすがに不躾なお願いだったかなと思ったもので」
やっぱり止めましょう、と続けられて、顔を上げた。
違うのだ。ただ、『恋人のふり』をするだけなのに、舞い上がっている自分を自覚して、空回っているだけ。
ただそう説明するわけにもいかず、慌てて頭を振った。
「全然。いいんです。乗り掛かった船ですから」
「人助け、いつもされてますもんね」
そう言われて、今度はこちらが動きを止める番だった。
「武井さん、お店でいつも、困っている方に手を貸しているなあと思っていたので。重いものを持っているお客さんの荷物を席まで運んでさしあげたり、道案内している姿もよく見かけますし。まさか自分もその困った人に入るとは思いませんでしたが」
「貴島さんこそ、店員をちゃんとご覧になっているんですね」
気をつけなければ、と思う。私たち従業員にとっては一日に何回も繰り返す接客だけど、お客様お一人お一人にとっては、その一回が記憶に残るものなのだ。
「夏穂さんだから、ですけどね」
名前を呼ばれて、思わず見上げる。
そういえば、楢崎さんを追い払うときにも名前を呼ばれた。
でも、名札には苗字しか書かれていないはずなのに、なぜ――?
疑問を口にする前に、「遅くなりましたが、僕は貴島春樹といいます」と言った、貴島さんは胸ポケットから取り出した名刺を渡してくれた。
「春樹さん……」
貴島さんの名刺には、私が勤めているカフェと同じビルの上層階に入っている会社名が書かれていた。営業部国際第三課課長、とある。
「課長さん、ですか……」
そういえば、昼間の女性も貴島課長、と呼んでいた。
そう言うと、貴島さんは苦笑いを浮かべた。
「名ばかりです。人数も少ない課なので」
店で仕事をしている姿を思い浮かべると、きっと謙遜なんだろうな、と感じた。パソコンに向かっている表情はいつも真剣だし、凄まじい勢いでキーボードを叩いているし。電話がかかってきて、店を出て対応している姿を見かけたのも、一度や二度じゃない。
「そういえば……皆さんは名札をつけてらっしゃいますけど、武井さんは何故僕の名前を?」
そう首を傾げられて、しまった、と思うけれど、もう遅い。
「以前、偶然電話に出られるのを聞いてしまって。すみません、立ち聞きするつもりはなかったんですけど」
「そうだったんですか。でもよく覚えてられますね」
「その……一応常連さんのことは、なるべく覚えておこうと思っていて。すみません、いい気持ちしないですよね」
「とんでもない。そのおかげで今日は助かりましたし」
でも謎が解けました、と言って笑う貴島さんにほっとする。
「申し訳ないんですけど、しばらく、武井さんがいる時間にお店に行かせてください」
「もちろんです。いつでもいらしてください」
そう言うと、貴島さんは「商売上手ですね」と言ってまた笑った。
「そういえば、夏穂さんは、その、どんな字を書かれるんですか?」
「あ、はい。夏に、稲穂の穂です」
「ああ、そうだったんですか。それでは、季節がお隣ですね」
「確かに、そうですね」
その表現に、自然と笑みが浮かんだ。なんだか親しみを感じて。
私も貴島さんと同じように「どうして名前をご存知なんですか?」とさらりと聞けば良かったのに、タイミングを逃してしまった。
でももしかしたら同じように、店にいらしているときに私が名前で呼ばれているのを聞いたことがあるのかもしれない。
きっとそれで覚えていたのだろう、と自分を納得させた。
貴島さんは優秀な人に違いないから、些細なことを記憶していても何ら不思議ではなかった。
最初に言っていた通り、一駅分歩きながら話をして、隣の駅から電車に乗った。
同じ方向なので、同じ電車に乗ることになる。帰宅ラッシュで混み合った車内で、貴島さんはやんわりとドア前に誘導し、守るように前に立ってくれた。
「じゃあまた」と言って降りていく姿に、軽く手を振る。貴島さんはホームで遠ざかっていく電車を見守ってくれていた。
最寄駅から家まで歩いている途中に、ぴこんとスマホがメッセージを受信する。
念の為、連絡先を交換した貴島さんだった。
絵文字のない律儀な文面で、今日のお礼と気をつけて帰ってください、と書いてある。
誰かと新しくメッセージのやりとりをする、ということが久しぶりで、思わず笑みが零れた。
駅から十分ほど歩いてアパートに着いたところで、返信を打った。
――無事に家につきました。
と送って、少し考える。
――これから、よろしくお願いします。
こちらからそう送ったら、謝ってばかりの貴島さんが、気にしなければいいなと思った。