触れる指先 偽りの恋
「春樹が言ってたじゃない。仕事のやり方を考えるようになったのは武井さんに出会ってからだって。だからどんな人なんだろうって思って。あんなに無感情冷徹人間だった春樹を変えたんだから」
「ちょっと待て、会いに行ったって」
「別に、カフェに行ったついでに、ちょっと話しかけただけだよ」
「は? そんなこと……突然話しかけたら驚くだろ」
「でも武井さん、私たちがばったりあったときのことも、お店に行ったときのことも覚えてたわよ」

 そりゃそうだろう。彼女は顧客ひとりひとりをきちんと把握して接客するのだから。知人である俺と一緒にいた人を、忘れるとは思えない。

「確かに、感じのいいひとだった」
 
 美弥子が言うのを聞いて、それは当たり前だろう、と思う。

「忙しそうであんまり話せなかったけど」
「変なこと言ってないだろうな」
「言ってないよ。あ、元カノですって言っちゃったけど」
「は!?」

 さっきより、大きな声が漏れた。
 ずきずきと痛み出した頭を押さえる。
 
「お前、」
「だって、もう話してるのかなって思ってたし」
「そんなこと、わざわざ言うわけないだろ」
「だって初めて会った日、武井さん様子がおかしかったから、とっくにフォローしてるんだと思った。何度も一緒に出かけてるっていうし……」

 確かに言った。美弥子たちと一緒に働くことになった最初に開催された懇親会で。
 気になる人がいて、彼女とは何度か出かけている、と。
 何なら手も繋いでいるし、キスも――。
 もちろん、そこまでは言っていないけれど。
 
「それで何で元カノだって名乗る話になるんだよ」
「いやなんか話の流れで。聞かれたから」

 頭を抱えたくなる。
 確かにこの前駅で美弥子と遭遇したときから、どことなく武井さんの様子がおかしいような気はしていた。
 もしかして、誤解されているのではないか、と思ってはいたのだ。だが詳しく話す前に、このトラブルが起きたせいで、落ち着いて話をすることもできなかった。
 武井さんが自分のことをどう思っているのか、自信がなかったせいもある。
 美弥子との関係を疑って武井さんが苦しんでいるのではないか、なんて自意識過剰な考えに思えてしまって自分から口に出せなかった。
 でも、『恋人のふり』を頼んでいるのだから、美弥子と再会した時点で、すべてをきちんと説明しておくべきだったのだ。
 自分にとって、美弥子と付き合っていたことはすっかり過去の話だったから、落ち着いてからで良いだろう、と話していたのが仇になった。

「美弥子、あのな」
「もう春樹のことは全然好きじゃないし、吹っ切ってるけどさ。それとは違う意味で、やっぱりちょっと許せてないのかも」

 そう言われて、口を噤む。

「でもごめん。武井さんのことそんなに本気で好きだと思ってなかった」
「本気だとか本気じゃないとか関係ないだろ」
「そうだよね。ごめん」

 潔く謝られると、逆に責めにくくなってしまう。自分の非を認められるところが、彼女の良いところだとは思う。

「確かに、別れたときは俺も悪かったけど……」
「本当に、そう思ってるの?」

 美弥子の目がまっすぐに俺を見据えた。
 その冷たい眼差しに、すっと心が冷える。

「思ってるよ。だから、もうああいうことが起きないようにしようって思った」

 美弥子がすっと目を逸らす。

「ごめん。言い方悪かった。私が許せないのは春樹じゃなくて、会社」
「……わかってる。とにかく、帰ってきたら彼女と話すつもりだから、もう余計なことはしないでほしい」
「そうね。でもこのままだと、あの若い男の子に先を越されてしまうかもしれないし?」
「は!?」

 突然いたずらっぽく笑う美弥子に、声が漏れた。

「嘘。そんな感じには見えなかったけど。でも、きっと武井さんのことを好きになるひとは多いと思う」
「わかってるよ……」

 彼女の魅力は誰に説明されずとも、自分が一番よくわかってるつもりだ。
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