触れる指先 偽りの恋
「み……相原は、」
「あ、さっきの話だけど、私は今の仕事一筋の毎日が幸せ。それを望んでここを辞めたわけだから、本望だけどね。だから貴島さんも、ちゃんと自分の幸せを掴んでよ」

 そう言って美弥子は部屋を出て行った。その後ろ姿に、もう五年も前のことが思い出された。

 美弥子は俺より二歳年下で、それぞれ新卒でこの会社に入社した。だから美弥子は、同期ではなく二つ後輩ということになる。研修を終えると同じ営業部に配属され、俺が教育係になった。初めて受け持った後輩社員だった。
 
 もともと中学から大学までテニス部だったという美弥子は、当時珍しいほど根性の座った女で、極めて仕事の飲み込みが早かった。
 あっという間に同期の男たちを抜き去って戦力とみなされた美弥子は、教育係として俺がつかなくなってからも、同じプロジェクトの担当に指名されることが多かった。元々俺が仕事を教えたこともあるし、美弥子の性質もあったんだろう。
 俺たちの相性はよく、何度も組むことになった。
 多分それは、仕事に対するスタンスが同じだからだ。特に説明しなくとも、初期段階でそこまで詳しく話を詰めなくても、考えていることが手に取るようにわかる。おかげでチームの成績は上々だった。クライアントに他社から契約を乗り換えてもらうことも多々あったし、それが評価されたのか、社内でも何度か社長賞をもらった。

 そんな中で、お互いに好意が芽生え、付き合い始めるのも、時間がかからなかった。似たもの同士だと揉めることも多いというが、仕事に対するスタンスが同じなせいか、上手くいっていたと思う。
 お互いに、それぞれの邪魔をせず、尊重していた。課長になったこともあり、同じ担当という立場で組むことはなくなったが、そのおかげでより付き合いやすくなった。特に隠しもしていなかったので、気づけば社内でも公認の中になっていた。
 そのあたりで、慎重になるべきだったのだ。

 具体的な話は、俺のいない席でされたらしい。
 部長クラスの人間と面談したときに、美弥子は「貴島と結婚したら営業部からどこに移動したい?」と聞かれたのだという。

 それは夫婦で同じ部署に置くことができないという上層部の思いもあっただろうし、結婚したら女性は仕事をセーブするもの、という思い込みもあったのだと思う。

 俺がその事実を知ったのは、だいぶ後だった。
 ただ思い返せばその頃から、美弥子の様子がおかしくなった。
 一緒にいてもぼんやりと何か考え事をしていたり、話しかけても漫ろな返事しか返ってこないことがあった。
 最初は、具合でも悪いのだろうかと心配した。「調子が良くないなら病院に行く?」なんて本気で言っていた自分を、美弥子はどう思っていたのだろう。
 彼女はか細い笑みを浮かべると「大丈夫。もっと仕事頑張らなきゃね!」と自らを奮い立たせるように言っていた。
 でもそう言う本人の気持ちとは裏腹に、だんだんと、美弥子に振られる仕事の質が変わってきた。外野から見ても感じられたくらいだから、本人はもっと早くから痛感していただろう。
 彼女の仕事っぷりは変わらず優秀なのに、なぜ、と疑問を覚えてはいたものの、隣のグループには隣の事情があるのだろう、と特に聞くことはしなかった。
 どうやら面談の後も、「貴島と結婚するんだったら」とことあるごとに言われていたらしい。それは決して悪意に満ちているわけではない。むしろ厚意からもたらされる言葉なのが、余計に辛かった、というのは後で聞いた話だ。

 だんだんと美弥子と、会う頻度が減った。誘っても「友だちとも出かけたい」「資格の勉強したいから」と理由をつけて断られることが増えた。
 彼女の意志を尊重する、そんなつもりで「わかった」と引き下がり、誘う頻度が落ちていった。後で考えれば、もっときちんと話を聞いておくべきだったのだ。

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