触れる指先 偽りの恋
 ある日久しぶりに会ったとき、美弥子から見せられたのは、辞表だった。

「私辞めることにした。心機一転頑張りたいから、春樹とはもう別れる」

 抑揚のない声でそう言われて、冷水をぶっかけられたような気持ちになった。

「突然、なんで」

 掠れた声で問いかける。
 最初、美弥子は頑なに何も言わなかった。時間をかけて何度も何度も訊ね、最後にようやく美弥子は震える唇を開いた。

「女だからって、なんで私が仕事を諦めなきゃいけないの?」

 そう叫んだ美弥子の瞳から涙が溢れたのを見て、自分の愚かさに気づく。
 彼女はきっと、ずっと一人で戦っていたのだ。
 そのことに気づいて、呆然とした。
 美弥子の口から、打診された移動の話が次々と溢れ、聞いているのも苦しくなった。
 彼女がどれだけ必死に仕事に取り組んできたのか、一番知っているつもりだったから。
 
 ただその時の俺は、そんな美弥子の思いを痛感したにも関わらず、上を説得することができなかった。いや、しようとしなかった。
 どこかで、上がそう言うのなら仕方ないのだろう、と諦めていた。
 会社の慣例なら従うしかない。
 だからといって、自分が部署を移動したり、仕事を辞めたりするなんて選択肢は微塵も浮かばなかった。
 そんな俺の考えが透けて見えたのだろう。美弥子の心はあっという間に俺から離れていったようだった。
 
 今なら、同じ部署でも業務がかぶらないようにする具体案を出したり、結婚しても彼女には仕事をセーブしてほしくない、と上に訴えることはできるだろう。
 でも当時の自分は、彼女から話を聞いたときに行動すべきとも思わず、ただ彼女の悲しみに自分は応えることができないと思い、別れを受け入れてしまった。

 それ以来、恋愛は面倒だと思ってきた。
 仕事と恋愛のバランスを取るなんて労力は、かけたくない。
 恋愛の最終目的に結婚があるのなら、そこを意識して人生を設計していくことは、自分には難しいと思った。
 武井さんに、会うまでは。
 もちろん、五年前の自分の行動は褒められたものじゃない。あの時美弥子をフォローすべきだったと思っているし、もっとと話し合えば良かったのだという思いもある。

 相変わらず美弥子との仕事はやりやすかった。こちらが別件に慌ただしい間も、彼女になら安心して先方とのやりとりを任せられる。

 でも、仕事以外の面では、もう美弥子と上手くやれる自信はなかった。
 お互いに、自分のやりたいことを中心に据えてしまって、相手を何より重んじようとは思えなかった。それに、俺が武井さんに惹かれていることを知りながら、あっさり自分が元カノだと言ってしまう美弥子は、たとえ本人が否定したとしても、心の奥底でまだ俺を憎んでいるのだろう。そうでもないと、聡い彼女がそんな行動を取る理由が、理解できなかった。
 自業自得なのだから仕方ない。
 
 疲れが、一気に両肩にのしかかってくる。

 武井さんに会いたい。

 全てを説明して謝って、好きだと伝えたい。
 会えない日々が続いたことで、余計に想いが募っていくのを痛感してしまう。



 翌朝、早番かどうかもわからないのに、ルチアーノに寄った。
 昨日も終電を逃してタクシーで帰ったので、朝は1秒でも長く寝ていたかったけれど、武井さんの顔を見たいという欲が勝った。

「いらっしゃいませ」

 店内に入ると、朗らかな声が響く。
 ――いた。
 姿だけでも見ることができそうで、安堵の息を吐く。
 自分でもだいぶ重症だと思うが、逸る気持ちは抑えられなかった。
 レジに並ぼうとして、足が止まる。

 武井さんの隣には、長身の若い男がいた。おそらく二十代前半、研修中のバッジをつけている。武井さんからメッセージで「新人の育成を任されました」と聞いていたので、ああこの子か、と合点がいく。

 ただ性別は書いていなかったので、その時初めて男だったのか、気づき、頭を殴られたような衝撃が走った。昨日相原が言っていたのも、彼のことなのかもしれない。
 ドリンクを作っているらしく、ひとつひとつの作業をその彼に説明しながらこなしていく武井さんには、とても話しかけられそうもない。
 最後にドリンクを提供する際、一歩後ろに下がった武井さんが、にこっと微笑んでくれたことが、唯一の喜びだった。
 店内で休んでいきたいけれど、そういうわけにもいかない。後ろ髪をひかれる思いで店を出て、最後に振り返ると、武井さんはメモを取る男に何かを説明しているところで、目線が交わることはなかった。
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