触れる指先 偽りの恋
商業施設に入っている店舗は、作業できる時間が決まっているから、一刻を争うのだ。
宣材を抱えた先輩たちが、次々と本社を飛び出していく。
「タクシー飛ばせばギリ間に合いそう! 武井さんほんと助かった!」
「いえすみません。お届けまでできず……」
「何言ってんの。でも来年はこんなこと絶対起きないように気をつけような!」
そう言って出ていく、最後の先輩を見送る。
がらんとしたオフィスは、あちこちに資材が転がっている。まるで学生時代の文化祭が終わったあとみたいだった。
どうせ廃品回収も間に合わないし片付けは明日みんなでやる、ということだったので、私もようやく帰り支度に取り掛かった。
パソコンの電源を落としながらポケットに入れたままになっていたスマホを取り出すと、貴島さんから返事が来ていた。
すっかり忘れていた。
メッセージ画面を開くと「わかった。また連絡します」という簡潔な文面が届いていた。
怒っているだろうか。呆れているかもしれない。
会社を出て、改札までの連絡通路を歩きながら、震える指で通話ボタンを押す。何回か呼び出し音が鳴って、「……はい」と低い声が鼓膜に響いた。
「武井です。今日は本当にすみません、」
言い淀んだら何も伝えられなくなる、と思って勢いよく伝えた謝罪の向こうに、ちりん、というよく知った鈴の音が鳴った。ついで「ありがとうございましたー」とよく知った声が聞こえてくる。
まさか、待っていてくれたのだろうか。こんな時間まで。
期待したくないのに、どうしても期待してしまう。
上手く訊ねられずに黙っていると、柔らかい声が耳を打つ。
「武井さん、大丈夫? お疲れさま」
「すみません。ドタキャンしてしまって……。無事に終わりました」
「そっか、良かった」
「はい、本当にすみません……」
「平気。あ、じゃあ、今からそっち行っていい? 俺の会社と逆方向なんだよね?」
「え、ちょっと待ってください。私がそっちにいきます。貴島さん今、ルチアーノ……ですよね」
そう言うと、息を呑む音がした。
「よくわかったね。もう店出たところだけど」
さっきの店員の挨拶は貴島さんに向けたものだったのか。あれはたぶん、大学生のアルバイトの子の声だ。
「でもこっちまでまわってくるの大変だろうから……じゃあホームで待ち合わせよう。いつものとこで」
「いつもの……。はい、わかりました」
「先についても、電車乗らないでね」
「乗らないですよ! それに貴島さんの方が早く着きそうだし……」
片手で鞄の中から定期を探し出し掴むと、自然と早歩きになる。
待たせたら悪い、という気持ちより、早く会いたいという思いが強かった。
「それはそうかもね。俺もうエスカレーターだし」
「え!」
慌てて駆け出そうとしたところで、「急がなくていいから。転ばないように」と見透かしたように声がかけられる。
また早歩きに戻って、改札を通った。
地下鉄の長い階段を降り始めると、「まだ電車来ないから大丈夫だよ」と言われる。
それはわかったけれど、でも早く会いたいのだ。
階段を駆け降りて、後ろに二車両分戻ったところ。そこが、私たちがいつも電車に乗る場所だ。
「貴島さん!」
電話越しに呼んだはずの声には返事がなく。
「武井さん」
目の前に現れた貴島さんの直接の声が、返ってきた。
「走らないって言ったのに」
くすりと笑いながら、貴島さんが近寄ってきて、すっと私の前髪に触れた。ふわりと乱れていた前髪を撫でつけるようにして、その指はすぐに離れていってしまう。それが妙に淋しかった。
「遅くまでお疲れさま」
「はい。貴島さん、待っててくださったんですよね? こんな時間まで」
「俺が会いたかっただけだから」
「でも……」
くいっと手を惹かれる。そのまま抱きしめられた。ちょうどホームの階段から離れたここは、人気がなくて。
「好きだよ」
耳元で囁かれた言葉に、驚いて顔を上げる。
宣材を抱えた先輩たちが、次々と本社を飛び出していく。
「タクシー飛ばせばギリ間に合いそう! 武井さんほんと助かった!」
「いえすみません。お届けまでできず……」
「何言ってんの。でも来年はこんなこと絶対起きないように気をつけような!」
そう言って出ていく、最後の先輩を見送る。
がらんとしたオフィスは、あちこちに資材が転がっている。まるで学生時代の文化祭が終わったあとみたいだった。
どうせ廃品回収も間に合わないし片付けは明日みんなでやる、ということだったので、私もようやく帰り支度に取り掛かった。
パソコンの電源を落としながらポケットに入れたままになっていたスマホを取り出すと、貴島さんから返事が来ていた。
すっかり忘れていた。
メッセージ画面を開くと「わかった。また連絡します」という簡潔な文面が届いていた。
怒っているだろうか。呆れているかもしれない。
会社を出て、改札までの連絡通路を歩きながら、震える指で通話ボタンを押す。何回か呼び出し音が鳴って、「……はい」と低い声が鼓膜に響いた。
「武井です。今日は本当にすみません、」
言い淀んだら何も伝えられなくなる、と思って勢いよく伝えた謝罪の向こうに、ちりん、というよく知った鈴の音が鳴った。ついで「ありがとうございましたー」とよく知った声が聞こえてくる。
まさか、待っていてくれたのだろうか。こんな時間まで。
期待したくないのに、どうしても期待してしまう。
上手く訊ねられずに黙っていると、柔らかい声が耳を打つ。
「武井さん、大丈夫? お疲れさま」
「すみません。ドタキャンしてしまって……。無事に終わりました」
「そっか、良かった」
「はい、本当にすみません……」
「平気。あ、じゃあ、今からそっち行っていい? 俺の会社と逆方向なんだよね?」
「え、ちょっと待ってください。私がそっちにいきます。貴島さん今、ルチアーノ……ですよね」
そう言うと、息を呑む音がした。
「よくわかったね。もう店出たところだけど」
さっきの店員の挨拶は貴島さんに向けたものだったのか。あれはたぶん、大学生のアルバイトの子の声だ。
「でもこっちまでまわってくるの大変だろうから……じゃあホームで待ち合わせよう。いつものとこで」
「いつもの……。はい、わかりました」
「先についても、電車乗らないでね」
「乗らないですよ! それに貴島さんの方が早く着きそうだし……」
片手で鞄の中から定期を探し出し掴むと、自然と早歩きになる。
待たせたら悪い、という気持ちより、早く会いたいという思いが強かった。
「それはそうかもね。俺もうエスカレーターだし」
「え!」
慌てて駆け出そうとしたところで、「急がなくていいから。転ばないように」と見透かしたように声がかけられる。
また早歩きに戻って、改札を通った。
地下鉄の長い階段を降り始めると、「まだ電車来ないから大丈夫だよ」と言われる。
それはわかったけれど、でも早く会いたいのだ。
階段を駆け降りて、後ろに二車両分戻ったところ。そこが、私たちがいつも電車に乗る場所だ。
「貴島さん!」
電話越しに呼んだはずの声には返事がなく。
「武井さん」
目の前に現れた貴島さんの直接の声が、返ってきた。
「走らないって言ったのに」
くすりと笑いながら、貴島さんが近寄ってきて、すっと私の前髪に触れた。ふわりと乱れていた前髪を撫でつけるようにして、その指はすぐに離れていってしまう。それが妙に淋しかった。
「遅くまでお疲れさま」
「はい。貴島さん、待っててくださったんですよね? こんな時間まで」
「俺が会いたかっただけだから」
「でも……」
くいっと手を惹かれる。そのまま抱きしめられた。ちょうどホームの階段から離れたここは、人気がなくて。
「好きだよ」
耳元で囁かれた言葉に、驚いて顔を上げる。