触れる指先 偽りの恋

触れた指先から伝わる愛

 貴島さんは結局、お茶を一杯飲んで、帰っていった。
 いやお茶を飲むよりキスをしている時間のほうが長かったけれど。
 躊躇いがちに私の身体に触れては、「これ以上触ったらほんとうにやばい」と言って何度もため息を吐いていた。
 肩口に顔を埋めて、気だるげに息を吐くから、何度も「いいですよ」と言いそうになったけれど。明日も仕事だし、何より正式に付き合った初日だし……と思って、私も開きかけた口をなんとか噤んだ。
 でも――。もしかしたら、そのまま勢いに乗ってしまったほうが、良かったのかもしれない。
 
 土曜日、正式な恋人になって初めてのデートをする予定だったのだが、貴島さんが急遽出勤になってしまったのだ。
 その日は「泊まっていって」と言われていて、一週間ずっとドキドキしていたのだけれど、朝から会えなくなってしまっては仕方ない。予定がまるまる空いてしまい、緊張が一気に抜けてしまった。
 部屋の隅に、お泊りグッズをまとめたバッグが寂しそうに転がっている。

 でも、私だって急遽トラブルがあったら、貴島さんに説明して仕事に向かうだろう。そういう意味では、似たもの同士と言える。考え方が同じだという実感があるから、寂しくはあっても不満はない。ただ、ふとしたときに気になってしまうのは、相原さんのことだった。
 綺麗なあの人とまた一緒に仕事をしているのだろうか、と思うと胸がざわつく。
 どんなに気持ちがないと言ったって、五年以上付き合っていたというのだから、関係も深かったんだろうし。
 
「五年も付き合ったのか……」
 
 思わず口をついた。別れてからしばらく経っているとはいえ、五年は長いと思う。私はひとりの人と五年も付き合ったことはない。ざっと計算して、貴島さんは二十代の半分以上をあの人と過ごしたのだと考えると、ただただ嫌だな、と思ってしまった。
 私がまだ気ままな学生だった頃、貴島さんは既に働いていて、相原さんと付き合っていたということだ。
 もしかしたら、結婚を意識したこともあったかもしれない。
 年齢差を考えたら当たり前なのだけれど、どこか距離を感じてしまう。
 
 ベッドの上に出しっぱなしになっていた、さんざん悩んで今日着ていこうと決めた服を見つめた。花柄のスカートにパフスリーブのブラウス。
 相原さんだったら、もっと大人っぽい、落ち着いた格好をしているかもしれない。
 服だけではなく、靴も。いつも細いヒールのお洒落なパンプスを履いていた。
 私だって今日はスニーカーではなく、せめてバレエシューズを履こうと思っていたけれど、ぺたんこ靴にかわりはない。シューズラックに入った靴も、ほとんど同じようなものだ。せっかくだから、新しい靴でも買いにいこうか。
 せめて足元だけでも、相原さんを見習って。ヒールを履けば、貴島さんとの身長差も縮まるし。
 そう思って、着ていく予定だった服を手に取った。
 近くには良い店がなかったので、会社の最寄駅まで出た。駅ビルの中の靴屋を何店か覗く。その中で、ピンクがかったベージュのパンプスを見かけた。ヒールは高さがそこそこあるものの、太いソールなので、バランスも取りやすそうだ。試しに履いて、店の中をあちこち歩いてみる。サイズもぴったりだった。これなら、今日着ている服にも、手持ちの数少ないスカートにも合う気がする。
 良い買い物ができてほくほくしながら家に帰ると、すぐにスマホが震えた。貴島さんからのメッセージだった。
 今日のお詫びと、もし良かったら夕飯を食べに行かないか、という誘いだった。

 ――それなら、久しぶりにお蕎麦屋さんに行きたいです。

 そう返信すると、すぐに返事がある。

 ――すぐ迎えに行くから、待ってて。

 どうやら貴島さんは家まで来てくれようとしているみたいだったけど、駅まで行きますよ、と伝えて、買ったばかりの靴を箱から取り出す。
 家を出る直前に、「良かったら、泊まる支度してきて」というメッセージが届いて、慌てて部屋の隅に転がったバッグを手に取った。
< 39 / 44 >

この作品をシェア

pagetop