触れる指先 偽りの恋
 休日だからか貴島さんはジャケットを来ているもののノーネクタイだった。髪もいつもよりラフで、休日とも平日ともつかない格好は新鮮だ。
 お蕎麦屋さんは、相変わらず静かだった。土曜日の夜だけれど、大声で話すようなお客さんはおらず、奥の方のテーブル席に案内される。
 いつものメニューを頼んだところで、「お仕事、大丈夫だったんですか?」と訊ねる。

「うん、先方が前倒しで進めてくれてありがたかったんだけど、その分確認が必要になっちゃって」

 まだ謝ろうとする貴島さんを遮って「それはもう大丈夫ですから、私だって同じことをするだろうし」と伝える。貴島さんはくしゃりと笑って、テーブルの上に置いた私の手を取った。

「それに……終わってから連絡もらえたので、嬉しかったです」
「武井さんは思いやりがありすぎるから。理解してもらえるのは嬉しいけど、不満は言ってね」

 はい、と頷きながらも、別の意味で思ったことを口にする。

「でも貴島さんだって、不満があっても言わないですよね」
「俺? 俺は言うよ。今日だって、ドタキャンしたくせにやっぱり泊まりにきてってお願いしたようなものだし」
「そう、ですけど。でもそれは不満じゃないっていうか」
「うーん、でも自分の欲求には素直でしょ。それに、武井さんが怒っても当然だから」
「え?」
「だって、こんなふうに予定がころころ変わったら、普通嫌でしょ」
「それは……でもそれより会えるのが嬉しかった、ので」

 貴島さんの手が離れていき、自分の口を押さえている。

「え?」
「ごめん。すごい嬉しくて、口がにやけそうだった」

 ていうか完全ににやけてた、と言って貴島さんが笑うので、釣られてしまう。

 テーブルの上に置きざりになった私の手に、再び貴島さんの手が伸びてくる。絡めるように繋がれて親指で指の付け根を撫でられた。ぼっと火がついたみたいに顔が熱くなる。顔を上げられず、料理が届くまでその繋がった指を見つめていた。


 蕎麦屋を出ると、貴島さんがお泊りグッズの入った鞄を持ってくれた。仕事用のバッグも持っているんだから遠慮しようとしたのに、貴島さんは無理やり二つのバッグを片方の手でまとめて持って、反対の手はしっかりと繋がれる。
「どこか寄る?」と聞かれたから、ふるふると首を振った。
 そのまま電車に乗って二駅揺られ、貴島さんの家に向かう。前に来たときは完全に酔っ払っていたし、帰りもパニックだったから全然道を覚えていない。
 そう正直に伝えると貴島さんは笑って、「じゃあ今日覚えてね」と言った。
 
「武井さん、酔っ払ったとき可愛かったけど、心配だな」
「え……?」
「人前であんなふうになると思うと」
 
 見下ろされ、慌てて弁解する。
 でも、それは墓穴を掘っただけだったのかもしれない。
 
「普段はあんなに酔わないんですよ?」
「へえ。じゃああの日はなんで?」

 そう聞かれると、黙り込むしかない。
 気まずくて目を逸らすと、じっと顔を覗き込まれた。
 
「それは、その……。みんなに貴島さんのことを聞かれて」
「え、俺?」
「はい……。好きなひといないのかって聞かれたから、それでつい貴島さんの話をしてしまって……。あ、もちろん名前とか会社は言ってないですよ? こういう人が気になってるんだって話をしたら、つい飲みすぎてしまって」
「なんだ、そっか。安心した……」
「え?」
「てっきり他に男がいて、そいつのせいで酔ったのかと思った」
「そんなわけないじゃないですか。その時にはもう、貴島さんのことが気になってたのに……」

 最後の方は消え入るような声になってしまった。
 でも貴島さんは聞き逃さなかったらしい。ふっと笑って、腰を引き寄せられた。
 ちゅっと額に口付けられて、ぱくぱくと口を開けながら貴島さんを見つめる。
 
「俺も、あの時にはとっくに武井さんのことが好きだったよ」
「え……?」

 予想外の言葉に驚いていると、貴島さんは小さく笑う。
 
「でも、俺がいないところで飲み過ぎは禁止ね」
「え?」
「酔っ払った武井さん、可愛すぎて、心配」
「き、貴島さんの前でももうあんなに飲みません……」
「なんで、それはいいよ。飲んで甘えてほしいから」
「え、私、甘えてました……?」
「んー、内緒、かな」
「私、そんなひどいことしたんですか……?」
「だから内緒」

 そう言って貴島さんは、笑みを深めた。
 一体どんな行動を取ったのか、まるで覚えていないとは恐ろしい。
 これからは絶対にお酒は控えよう、と決意した。
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