触れる指先 偽りの恋

まるで恋のように

「おはよう」

 低い、艶やかな声が囁くように耳に届いて、ぴくんと肩が跳ねた。内心の動揺を悟られないようにテーブルを拭く手を止めて、「おはようございます」と返す。

 コーヒーを受け取り、緩く笑みを浮かべた貴島さんの姿に、思わず見惚れてしまった。
 今日はダークブラウンのスーツに、ライトブルーのストライプシャツを合わせていて、爽やかだ。けれどネイビーのネクタイが浮いた感じを見せず、見事に調和させている。

「今日は早番?」

 そう訊ねられて、こくりと頷く。カフェの仕事はオープンから十八時までの早番と、九時から二十時までの遅番のどちらかが基本で、日によって通しだったり、早上がりだったりの変則シフトがある。

「じゃあ一緒に帰れないな」
 
 残念だけど、と付け加えられて、気づけば手が止まっていた。

「貴島さんは何時までですか?」
「俺は今日、ミーティングがあるから二十時越えそう」
「じゃあ私が遅番だったら良かったですね」

 そう言うと、今度は貴島さんの動きが止まった。

「うん。またの機会にね。ミーティング前にもう一度来るよ」

 貴島さんはそう言って、いつものソファ席に向かった。
 
 時刻は朝九時過ぎ。店内は徐々に空いてくる時間帯だ。
 海外を相手にしているから、定時はあるもののフレックスに近い、と貴島さんは言っていた。今日は夜のミーティングのために出社が遅いのだろう。

 恋人のふりとするためとはいえ、今朝も顔を見ることができて、喜んでしまう自分がいた。

 カウンターに戻ると、事情を説明してある木下ちゃんがすかさず寄ってくる。

「いい感じじゃないですか」とにやにや笑うので、自戒の意味を込めて「ふりだけどね」とすぐに返す。
「でも、ふりから始まる恋もあるかもしれませんよ」とテンション高く言われ、目を見張った。頭の中ではまさか、と思っているのに、そうだったらいいとかすかに願ってしまうことを止められない。

 貴島さんは、どこをどう見てもモテそうだ。もし来るもの拒まずなタイプであれば、彼女には困らないだろう。それでも彼女がおらず女性に付き纏われて困っていたということは、きっと恋人をつくるつもりがないんだろうな、と思った。

「んーでもほら、意外と理想が高いだけとか」
「それだったらもっと論外でしょ」
「そんなことないと思いますけど……」
「とにかく、私は頼まれた役目を果たしているだけだから」

 そう返して、時計を見る。

「ほら木下ちゃん、そろそろ上がる準備しないと、大学遅刻するよ」
「はーい」と返事をして、コンディメントの補充にいく後ろ姿を見送った。

 彼女はオープンからシフトに入って、そのまま授業に行くのだという。年齢は三つしか違わないのにタフだな、と感心する。学生と社会人の違いだろうか。

 木下ちゃんの言葉が頭を過ぎった。ふりから始まる恋、か。そんなドラマみたいな話があればいいのにね、と思う。
 これまでの恋愛を思い返すと、そんなロマンチックなことは現実では起こり得ない気がした。
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