触れる指先 偽りの恋
大学院を出たあと、飲食業界に興味があって入社したこのニューグランドでは、最初は本社勤務だった。もともと企画部を志していたこともあり、一年間は本社で仕事を学んだけれど、今年は店舗に出て、現場を学んでこいと言われている。現場のオペレーションを実際に体験してみることで見えてくることもあるから、と。
店舗に出て、接客するのは好きだ。お客様と直接言葉のやりとりができることは楽しい。
この店に配属されてからなるべくお客様とコミュニケーションを取り、どんな商品が人気なのか、どんなサービスがあったら嬉しいのか、なるべく多くの意見をリスニングするようにしていた。
それを持ち帰って、本社では念願の商品開発に関わりたいと思っているからだ。
といってもまだ配属されて数ヶ月。今年度いっぱいは店舗勤務だろう。
店長が本社になんと報告しているのかも気になる。「武井は店舗向きだと思います」と報告されていたら、本社に戻れない可能性もある、と先輩社員には言われていた。
だからと言って、毎日の接客に手を抜いていいというわけじゃない。店長は本人の意向を無視した報告をするような人じゃないと思うから、信じてやるべきことをやろうと思っていた。
あと三十分ほどで上がりの時間、というタイミングで、朝言っていた通り、貴島さんが現れた。
アルバイトさんはちょうど休憩に行ってもらっていたので、私がレジに入る。
「いらっしゃいませ」
普段のようにお辞儀をすると、にこっと微笑まれた。
カウンターの中は小上がりになっていて、私の方が貴島さんより目線が高くなる。今までは大して意識していなかったからか、やけに新鮮に感じた。
「ブレンドで」
財布を取り出したタイミングで「そういえば、朝のレシート持ってます?見せてもらえれば、安くなりますよ」と言うと、貴島さんは目を瞬かせた。
「え?そうなの?」
「はい。あと社員証見せてもらえれば、それも割引になります」
「え?」
「このビルに入っているオフィスの方であれば。無料でサイズアップができるんです」
「へえ。知らなかった」
二杯目が安くなるサービスはともかく、社員証の方は公に告知しているわけではないから、知らないのかもしれない。各社に掲示用の張り紙は渡しているけれど、どれだけ大々的に周知しているかは、会社によるだろう。これは改めて営業した方がよいかもな、と思いながら会計を済ませ、お釣りを返した。
コイントレーの上に、さっと手のひらを広げられたので、そこに小銭をおくと、ほんの一瞬、指同士が触れた。
「すみません、本当はもっと前にご案内すべきだったのに」
「いつもレジであんまり話聞いてないのは俺の方だし。社員証持ってきたこともないし、気にしないで」と貴島さんは微笑む。
今日は無料でこっそりサイズアップしておいた。
ブレンドは商品提供までの待ち時間がなく、レジでそのまま手渡す。ひとつ大きなカップを置くと、貴島さんはちらっとこちらを見上げた。
そっと唇に人差し指を当てて「次からは持ってきてくださいね」と言う。
小さな声で「ありがとう」と返された。
「ミーティング、頑張れそう。気をつけて帰って」と言って、貴島さんは店を出て行った。
慌ただしく立ち去る後ろ姿を見ながら、無理して時間を作ってきてくれたのかな、と思うと胸の奥がくすぐられたような気がした。
退勤時間になってバックヤードで着替えていると、メッセージを受信していることに気がついた。貴島さんだった。
――さっきはありがとう。家に着いたら教えてほしい。
書かれた内容に、どうしたんだろうと思いながら、職場を後にする。
スーパーに寄って帰宅して、冷蔵庫に食材をしまってから、ふと気がついた。よくわからないけど、貴島さんに連絡しておこう。
――お仕事お疲れさまです。買い物して家に帰ってきました。
すぐに既読がつく。まだ二十時前だ。ミーティングじゃなかったっけ、と首を傾げる。返事はないから、確認だけしたのかもしれない。
まあいいか、と思いながら夕飯の支度をして、お風呂に入ったりしていると、すっかりメッセージのことは頭から消え去っていた。
電話が鳴ったのは、二十一時を過ぎたころだった。表示された名前に、慌てて通話ボタンを押す。
「はい」
「もしもし、武井さん?」
貴島さんの低い声が、受話器越しに耳をくすぐる。
「はい、どうしました?」
「うん、ごめんね。仕事が終わって帰ってるところなんだけど。慌ただしくメッセージを送っちゃったから」
「いえ、それは全然。でもどうしたんですか?」
「あー、いや、楢崎が突然話しかけてきたから、大丈夫かなと思って」
「お店では特に見かけませんでしたけど……。貴島さんは大丈夫だったんですか? その、話しかけられて」
「ああ。大きな声で『彼女さん元気ですかって』って話しかけられたから、びっくりしたけど。でもすぐミーティングの準備があったから逃げ出せた。でも彼女が大声で喋ったから、たぶん、カフェに彼女がいるっていうことは、社内の結構な人間に広まってしまって」
「え」
「そんな野次馬みたいな人はいないと思うんだけど、武井さんが嫌な思いをしていないかと思って」
それで慌ただしく連絡をしてくれたのか。
確かに、楢崎さんみたいに露骨な行動に出る人はいないかもしれないけれど、きっと貴島さんことを好きな人は、他にもいると思う。恋愛感情とまではいかなくても、いいなあと思っている人も。だって間違いなく社内でも人気だと思うから。
本人はそんなに意識していないようだけど。
もしかしたら明日以降、貴島さんの彼女を確認しに来る人がいてもおかしくない。
「わかりました。楢崎さん以外の人にも、気を付けるようにしますね」
「本当に申し訳ない」
「いえ、持ちかけたのは私ですし……」
それに明日は土曜日だから、会社に出勤している人も少ないだろう。日曜はカフェも定休日なので、このまま週明けになって話題が引いてくれればいいな、と思う。
「俺、明日は休みだけど、連絡くれたらすぐに動けるようにしておくから」
「ええ!? 大丈夫ですよ。せっかくのお休みなのに」
「どうせ家の中で仕事してるから。何かあったら連絡して」
「わかりました……」
出かけたり遊んだりはしないらしい。家も職場まで三駅と言っていたし、仕事が生活の中心にある人なのかもしれない。じゃなかったら、あの見た目にこの優しい性格で、彼女がいないなんてあり得ないか、と思う。
「そういえば、武井さん日曜は休み?」
「あ、はい……」
「もし予定が空いていたら、ランチでも行きませんか」
突然混ざった敬語に、思わず黙っていた。
「……え?」
たっぷり沈黙が落ちてから、ぽかんと聞き返す。
「あ、いや、忙しかったらいいんだけど。いろいろ迷惑かけているから、そのお礼に」
「そんな、迷惑なんて思ってないですよ」
「じゃあ、普通に誘ってもいい?」
そう言われて、どくりと心臓が跳ねた。
「ごめん、無理強いするつもりはないんだ。せっかくの休みだし、急に誘っても困るよね」
「あ、いえ。そんなつもりはないんですけど」
咄嗟に、否定していた。
「ちょっと、びっくりしただけで」
「明日中に返事もらえればいいから、考えておいて」
「……はい」
そう言って、電話を切った。
ふりから始まる恋があってもいいじゃないですか、と言った木下ちゃんの声が響く。
いやいや考え過ぎでしょ。
そもそもまともに話してまだ二日目なのに。
ぶんぶんと首を振って、立ち上がる。
明日は土曜日で営業時間が短いので、通し勤務だ。余計なことを考えている暇はない。
さっさと寝よう、と言い聞かせベッドに横になると、すぐに眠りに落ちていた。
朝起きると、「家に着いたよ」という連絡がきていた。
まるで学生カップルみたいだなと笑う。おはようございます、これから出勤です、と送ると、昨日より気合いが入る気がした。
店舗に出て、接客するのは好きだ。お客様と直接言葉のやりとりができることは楽しい。
この店に配属されてからなるべくお客様とコミュニケーションを取り、どんな商品が人気なのか、どんなサービスがあったら嬉しいのか、なるべく多くの意見をリスニングするようにしていた。
それを持ち帰って、本社では念願の商品開発に関わりたいと思っているからだ。
といってもまだ配属されて数ヶ月。今年度いっぱいは店舗勤務だろう。
店長が本社になんと報告しているのかも気になる。「武井は店舗向きだと思います」と報告されていたら、本社に戻れない可能性もある、と先輩社員には言われていた。
だからと言って、毎日の接客に手を抜いていいというわけじゃない。店長は本人の意向を無視した報告をするような人じゃないと思うから、信じてやるべきことをやろうと思っていた。
あと三十分ほどで上がりの時間、というタイミングで、朝言っていた通り、貴島さんが現れた。
アルバイトさんはちょうど休憩に行ってもらっていたので、私がレジに入る。
「いらっしゃいませ」
普段のようにお辞儀をすると、にこっと微笑まれた。
カウンターの中は小上がりになっていて、私の方が貴島さんより目線が高くなる。今までは大して意識していなかったからか、やけに新鮮に感じた。
「ブレンドで」
財布を取り出したタイミングで「そういえば、朝のレシート持ってます?見せてもらえれば、安くなりますよ」と言うと、貴島さんは目を瞬かせた。
「え?そうなの?」
「はい。あと社員証見せてもらえれば、それも割引になります」
「え?」
「このビルに入っているオフィスの方であれば。無料でサイズアップができるんです」
「へえ。知らなかった」
二杯目が安くなるサービスはともかく、社員証の方は公に告知しているわけではないから、知らないのかもしれない。各社に掲示用の張り紙は渡しているけれど、どれだけ大々的に周知しているかは、会社によるだろう。これは改めて営業した方がよいかもな、と思いながら会計を済ませ、お釣りを返した。
コイントレーの上に、さっと手のひらを広げられたので、そこに小銭をおくと、ほんの一瞬、指同士が触れた。
「すみません、本当はもっと前にご案内すべきだったのに」
「いつもレジであんまり話聞いてないのは俺の方だし。社員証持ってきたこともないし、気にしないで」と貴島さんは微笑む。
今日は無料でこっそりサイズアップしておいた。
ブレンドは商品提供までの待ち時間がなく、レジでそのまま手渡す。ひとつ大きなカップを置くと、貴島さんはちらっとこちらを見上げた。
そっと唇に人差し指を当てて「次からは持ってきてくださいね」と言う。
小さな声で「ありがとう」と返された。
「ミーティング、頑張れそう。気をつけて帰って」と言って、貴島さんは店を出て行った。
慌ただしく立ち去る後ろ姿を見ながら、無理して時間を作ってきてくれたのかな、と思うと胸の奥がくすぐられたような気がした。
退勤時間になってバックヤードで着替えていると、メッセージを受信していることに気がついた。貴島さんだった。
――さっきはありがとう。家に着いたら教えてほしい。
書かれた内容に、どうしたんだろうと思いながら、職場を後にする。
スーパーに寄って帰宅して、冷蔵庫に食材をしまってから、ふと気がついた。よくわからないけど、貴島さんに連絡しておこう。
――お仕事お疲れさまです。買い物して家に帰ってきました。
すぐに既読がつく。まだ二十時前だ。ミーティングじゃなかったっけ、と首を傾げる。返事はないから、確認だけしたのかもしれない。
まあいいか、と思いながら夕飯の支度をして、お風呂に入ったりしていると、すっかりメッセージのことは頭から消え去っていた。
電話が鳴ったのは、二十一時を過ぎたころだった。表示された名前に、慌てて通話ボタンを押す。
「はい」
「もしもし、武井さん?」
貴島さんの低い声が、受話器越しに耳をくすぐる。
「はい、どうしました?」
「うん、ごめんね。仕事が終わって帰ってるところなんだけど。慌ただしくメッセージを送っちゃったから」
「いえ、それは全然。でもどうしたんですか?」
「あー、いや、楢崎が突然話しかけてきたから、大丈夫かなと思って」
「お店では特に見かけませんでしたけど……。貴島さんは大丈夫だったんですか? その、話しかけられて」
「ああ。大きな声で『彼女さん元気ですかって』って話しかけられたから、びっくりしたけど。でもすぐミーティングの準備があったから逃げ出せた。でも彼女が大声で喋ったから、たぶん、カフェに彼女がいるっていうことは、社内の結構な人間に広まってしまって」
「え」
「そんな野次馬みたいな人はいないと思うんだけど、武井さんが嫌な思いをしていないかと思って」
それで慌ただしく連絡をしてくれたのか。
確かに、楢崎さんみたいに露骨な行動に出る人はいないかもしれないけれど、きっと貴島さんことを好きな人は、他にもいると思う。恋愛感情とまではいかなくても、いいなあと思っている人も。だって間違いなく社内でも人気だと思うから。
本人はそんなに意識していないようだけど。
もしかしたら明日以降、貴島さんの彼女を確認しに来る人がいてもおかしくない。
「わかりました。楢崎さん以外の人にも、気を付けるようにしますね」
「本当に申し訳ない」
「いえ、持ちかけたのは私ですし……」
それに明日は土曜日だから、会社に出勤している人も少ないだろう。日曜はカフェも定休日なので、このまま週明けになって話題が引いてくれればいいな、と思う。
「俺、明日は休みだけど、連絡くれたらすぐに動けるようにしておくから」
「ええ!? 大丈夫ですよ。せっかくのお休みなのに」
「どうせ家の中で仕事してるから。何かあったら連絡して」
「わかりました……」
出かけたり遊んだりはしないらしい。家も職場まで三駅と言っていたし、仕事が生活の中心にある人なのかもしれない。じゃなかったら、あの見た目にこの優しい性格で、彼女がいないなんてあり得ないか、と思う。
「そういえば、武井さん日曜は休み?」
「あ、はい……」
「もし予定が空いていたら、ランチでも行きませんか」
突然混ざった敬語に、思わず黙っていた。
「……え?」
たっぷり沈黙が落ちてから、ぽかんと聞き返す。
「あ、いや、忙しかったらいいんだけど。いろいろ迷惑かけているから、そのお礼に」
「そんな、迷惑なんて思ってないですよ」
「じゃあ、普通に誘ってもいい?」
そう言われて、どくりと心臓が跳ねた。
「ごめん、無理強いするつもりはないんだ。せっかくの休みだし、急に誘っても困るよね」
「あ、いえ。そんなつもりはないんですけど」
咄嗟に、否定していた。
「ちょっと、びっくりしただけで」
「明日中に返事もらえればいいから、考えておいて」
「……はい」
そう言って、電話を切った。
ふりから始まる恋があってもいいじゃないですか、と言った木下ちゃんの声が響く。
いやいや考え過ぎでしょ。
そもそもまともに話してまだ二日目なのに。
ぶんぶんと首を振って、立ち上がる。
明日は土曜日で営業時間が短いので、通し勤務だ。余計なことを考えている暇はない。
さっさと寝よう、と言い聞かせベッドに横になると、すぐに眠りに落ちていた。
朝起きると、「家に着いたよ」という連絡がきていた。
まるで学生カップルみたいだなと笑う。おはようございます、これから出勤です、と送ると、昨日より気合いが入る気がした。