恋のレシピは、距離感ゼロで無口な先輩と
「ふう……やっと終わった」

 私が小さくつぶやくと、隣に座っていた成川さんが軽く息をはいた。

「〝あと少し〟ね」

 その言葉に、ぎくっとしてしまう。あと少しどころか、余裕で二時間は過ぎてしまった。

「……思ったよりも時間がかかりました、すみません」
「いや、あの量を考えたら早く終わったほうだろ」
「そー……ですかね?」

 最近はこの仕事量が当たり前になってるから、感覚がおかしくなってるのかも。

「……」
「成川さん?」
「……いや」

 何か言いたげな顔を見せた成川さんは、それらを飲み込むように「んじゃ帰るぞ」と立ち上がる。

 会社を出ると、夜風が頬を撫でていく。

「お疲れさ……」

 と、言うつもりだった。
 それが出来なかったのは、ふらりと視界が揺れ、足元から力が抜けるような感覚に襲われたから。
 あれ、なんだろう。ちょっとまずいかも。
 睡眠を削ったから? もしくは体にまともなものを入れていないから? あとはなんだろう。思い浮かばないけど、思い当たる節はたくさん出てきそうで。

「橘!」

 がしっと抱きとめられる感覚に、一瞬で意識が戻った。
 目の前には、成川さんの驚いた顔がある。
 あれ、成川さん……さすがにこれは距離が近すぎる。
 その腕がしっかりと私の体を支えていて、彼の胸に顔が触れそうなほど近い。
 なんでこんなことに……。
 その温もりに触れた瞬間、さっきまでのふわふわとした感覚が一気に現実に引き戻される。

「あ……すみません、ご迷惑を」

 慌てて彼の腕から離れようとするけれど、足元がふらついて思うように力が入らない。
 再び倒れかけた私の体を、彼がさらに強く支える。

「おい、どう見ても大丈夫じゃないだろ」

 その低く優しい声が耳元で響き、またしても心臓が跳ねる。

「ちょっとふらついただけで……休憩すれば戻るので」

 必死に笑顔を作りながら、なんとか立ち直ろうとする。
 でも、成川さんの腕がまだしっかりと私の肩を支えているせいで、どうにも落ち着かない。
 彼の体温が、じんわりと私に伝わってくる。

「とりあえず座ったほうがいい」

 近くのベンチに腰をつけると、次第に眩暈は薄くなっていく。

「ありがとうございます。落ち着きました」
「早すぎだろ。俺のこと気にしてんなら平気だから」

 人とは距離を取るはずなのに、私といることを強制してしまうことが申し訳ない。

「ここ最近の残業時間は」
「……ええと、できるだけ定時は目指してまして」
「朝も早いみたいだけどな」

 そこまで言われてしまうと何も言えない。
 どうやら朝早く出社していることも知られてしまっているらしい。成川さんを見かけたことはないのにどうしてだろう。

「……夜は冷えるな」

 ぼそりと聞こえたそれに夜空を見上げる。10月。日中は比較的暖かいけれど、夜になると気温がぐんと減る日も増えた。

「あ、本当にもう大丈夫なので。行きましょう、成川さんは電車ですか?」
「いや、近く」
「徒歩なんですね。羨ましいです」
「……」

 成川さんは少し考えた素振りを見せた。
 どうしたんだろう、何かまずいことでも言っちゃったかな?

「橘、俺の家に来い」
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