恋のレシピは、距離感ゼロで無口な先輩と
「あ、そういえばデスクにメモを残したんですが」

 そう言った瞬間、成川さんの顔がどこか強張ったように見えた。

「……ああ、受け取った。今度からはこっちに連絡してもらうように伝えたから」
「そう、ですか。わかりました」

 深入りはしないほうがいいかもしれない。今は目の前の仕事に集中しよう。
 そんな私の心の動きに気づいたのか、成川さんはふと立ち止まった。

「午前中の」
「え?」
「あれ、橘が作ったデータじゃないだろ」

 その言葉を聞いて、思わず手が止まってしまった。
 どうやら、彼には見透かされているらしい。

「……いろいろとありまして。結果的に私が打ち込んでます」

 苦笑いを浮かべながら、デスクの上に広がる書類を慌てて揃え直す。
 今更、小林さんが作りましたなんて言ったところで誰も得をしない。それなら現状を報告するだけで済むはずだ。
 でも、その仕草が逆に「動揺してます」と言っているようなものだと、自分でもわかっている。

「変わらないな」

 そして、成川さんは私のデスクにさらに一歩近づくと、あろうことか後ろから身を乗り出して、パソコンの画面を覗き込むような姿勢に入った。

「な、成川さん……っ⁉︎」

 たまに、成川さんは人との距離感がバグるときがある。周囲に人がいるときは気にならないけど、きっとこれは無自覚でいろいろな人にやっているのかもしれない。これでは人気に拍車がかかる一方だ。
 後ろからふわりと漂ってくる成川さんの香りに、鼓動がさらに早くなる。
 成川さんの髪が微かに私の肩に触れそうになり、なんとか画面に集中する。

「手伝おうか」

 いい声で、成川さんが私の顔を覗き込むようにして言った。
 その瞳がまっすぐに私を見つめていて、心臓が一瞬だけ跳ねる。

「えっ⁉ あ……そんな、営業さんが経理の仕事なんて」
「数字には強い」

 なんとなくそうなんじゃないかとは思っていた。たとえば会話の中で出てきた桁数の多い数字を一瞬で暗算で答えを出してしまうとか。
 経理部にいる私でさえ、そのスピードに追い付けないことが多い。

「お気持ちだけ、しっかりと受け取らせてください。本当にあと少しなので」
「りょうかい」

 ここは私も負けていられない。自分がすると決めた以上、誰かの時間を奪ってまで解決するのはおかしい。

「なので、成川さんはプライベートな時間をゆっくり過ごしてもらって」

 忙しいのはわかっているからこそ、そうしてもらったほうがいいに決まっている。
 プライベートかあ、と呟いた成川さんは「わかった」と最終的に納得してくれた。

「終わるまで待ってる」
「……え?」
「もう少しなんだろ。こっちもちょうど時間を潰せそうな仕事があったし」
「そんなここで片付けなくても」
「すぐ終わるんじゃないのか」

 言われて、はい、と大人しくうなずくしかない。
 ようやく最後の伝票を処理し終え、大きく息をついた。
 時計を見ると、針はもう22時に近づいている。
 デスクに積まれていた書類もひとまず片付き、パソコンの画面も無事にクリアになった。
 ホッと肩を落とし、椅子に深く腰をかけた。
< 9 / 66 >

この作品をシェア

pagetop