恋のレシピは、距離感ゼロで無口な先輩と
 買い物袋いっぱいに詰めて私が向かったのは、成川さんの自宅だった。
 本当は連絡ひとつするべきだとわかっている。それでも、不確かなものでいいからこそ、ここに来てみたかった。
 成川さんの部屋はまだ灯りがついていない。まだ仕事が終わっていないのかもしれない。
 ……連絡、入れたほうがよかったかな。
 婚約者の一件から、気になって成川さんこ様子を見てみたかったけど、私がここまで心配することはなかったかもしれない。
 それでも、誰かとの縁を断ち切ろうと思うほどの決断をすることは、そう簡単なことではない。
 言葉ではあんな言い方になってしまったけど、それでも、完全に割り切れるものでもないはずだ。

「橘?」

 どこで待っていようかと思っていたとき、ちょうど成川さんが歩いてくるのが見えた。

「どうした? 約束してたか」
「あ、いえ。私が勝手に来てしまって……すみません」

 成川さんは私が持っていた買い物袋を見て、すかさずそれを持ってくれる。

「上がって」

 誘われるままに、成川さんの部屋へとお邪魔する。
 いつ来てもここは整理整頓されている。無駄なものがなく、そして落ち着く。

「本当は、ご飯を作りたかったんです。でも、何を作ったらいいかわからなくなって……そもそもレパートリーなんてないに等しいんですけど」

 まとまりがないものばかりを取り出す。野菜なんて、何に使うか決めていないものばかりだし、お肉も魚も、目に入ったものを手に取っただけだ。

「それでも……ご飯を作りたくて。押しかける形になりました」
「いや、ひとりでいるよりも気が紛れる」

 それに、と成川さんは野菜の中でもジャガイモを手にした。

「今日のお礼がしたいから、俺がご飯作ってもいいか」
「え、でもいきなり来てご飯作らせるなんて、人としてどうかと思うので」
「俺が作りたいって思ったんだよ。付き合え」

 少し強引なお誘いに、笑みがこぼれる。はい、と頷けば、あとは全部、成川さんの手によって調理されていく。
 こんなにも、誰かが台所に立つ音が、心を穏やかにさせるなんて思ってもみなかった。
 じゃがいもの皮を剥く音。
 鍋の湯気が上がる音。
 成川さんの背中から漂う、ごく自然な落ち着き。
 私はテーブルの上で、買ってきた野菜の残りを並べながら、それをただ眺めていた。
 そして、ほどなくしてテーブルに並べられたのは――
 肉じゃが、鯖の塩焼き、豆腐とわかめの味噌汁。炊きたてのご飯。

「……わあ」

 感嘆の声が自然とこぼれた。
 懐かしくて、やさしくて、心がほどけていく。
「いただきます」と声を揃えて箸を取る。ふたりで並んでご飯を食べるだけなのに、どうしてこんなに胸がいっぱいになるんだろう。
 箸を動かしながら、私はそっと視線を成川さんを見た。

「ご飯、美味しいです。ほんとに」

 自分でもわかるくらい、声がやわらかくなっていた。

「そうか」

 それだけ言って、成川さんは少し照れたように笑った。
 その表情を見た瞬間、ずっと言いたかったことが胸の奥からするりと出てきた。

「……今日、職場でちょっとうれしいことがあったんです。先輩も後輩も、前向きにいろいろと取り組んでもらえて、なんかここで働けてよかったなって初めて思ったというか」

 人間関係で悩むことばかりだった。仕事をするためだけなのに、どうして仕事以外のことで悩まないといけないのかと気分が落ち込む毎日で。

「よくよく考えたら、成川さんのご飯を食べることができたから乗り越えられたんだなと思って。温かいご飯がこんなにも大事だったことを忘れてました」

 言ったあと、少しだけ恥ずかしくなって、味噌汁をすする。
 でも、そんな私を見ていた成川さんが、ぽつりと呟いた。
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