恋のレシピは、距離感ゼロで無口な先輩と
「……いいんですか? ものすごくラブリーなものを選んでも」
「橘が使いたいならなんでもいい」
「……ずるいですよ、そんなかっこいいこと言われたら、ふつうに惚れます」
「惚れてんだろ」

 軽く額にデコピンをすれば、「また惚れました」とさすりながら微笑む。
 きっと、こういうことを幸せというのだろうな。
 相手が橘でなければ、こんなことを思うこともなかったのだろう。
 自分の心境の変化に戸惑いながらも、ただぽつんと、好きだという気持ちだけが残っていた。
 店内には淡いジャズが流れていて、照明は柔らかく、どこか時間の流れまでゆるやかに感じる。
 かつての自分なら、間違いなく落ち着かない場所だったはずだ。
 橘の後ろを歩いていると、なんとなくマグカップのコーナーが視界に入る。その中でも別に選んで手に取ったわけではないが、淡いグレーの、重すぎず軽すぎないマグカップがどうもしっくりきた。
 橘にも合いそうな色だな。

「いいですね、そのマグカップ」

 すかさず横から覗き込まれて、なぜか少し焦る。

「いや……まあ、うん」
「じゃあ私も同じものにしようかな」

 カラー展開がいくつかある中でも、彼女は俺と同じ色を選んだ。

「その色でいいのか」
「はい、成川さんと同じ色にしたいので」

 躊躇うことなく、ハッキリと言われるものだから、こちらが何も言えなくなる。

「あ、でもどっちがどっちかわからなくなるか」
「どっちでも使えばいいだろ」

 そのとき、自分が選んでほうで。そう続けようかと思ったが、言わずにいた。

「……ふふ、そうですね。どっちも、私たちのマグカップってことで」

 そうすることがどこか抵抗したい気持ちもあったのに。どうしてだろうか、橘といるとそんな抵抗がどんどん消えていくのは。
 ふたり並んで家に帰ると、ただいま、と橘が何気なく口にした。
 ──俺の家で同棲するようになって一か月。仕事が終わったあとや、休日出かけ先から戻ると、彼女は必ず「ただいま」と言う。

「おかえり」
「成川さんも、おかえりなさい」

 今まで一緒に出かけていたというのに、この挨拶はどうなのだろうか。今までの自分では考えられない。浮かれているといえばそうなのだろう。
 玄関にはふたつのスリッパが並んでいる。これも橘が新しく持ち込んだもので、成川さんの家で使うのは不思議だと楽し気に言っていたことを思いだす。
 こうやって家の中に、俺だけではない、誰かのものが増えた。
 洗面所に同じメーカーで、色だけが違う歯ブラシが隣り合って並びあっている。
 最初は、歯ブラシスタンドに無理やり差しただけのそれが、気づけばきちんと定位置になっている。適当に片付けていたものが、橘が片付けてくれるおかげで、新しい場所が定まっていく。
 キッチンの引き出しには、自分用の黒いエプロンと、小ぶりで淡い水色のエプロン。
 取っ手の小さな鍋や、シンプルだけど可愛らしい柄の箸置き。
 リビングの片隅には、一緒に選んだクッションカバーが、そっと並べられていた。
 どれも、俺の趣味ではない。
 でも、見るたびに不思議と落ち着く。
 この家に、彼女の色が混ざっていくのが、悪くないどころかうれしいとさえ感じる。

「観葉植物、増えましたね」

 今日新しく迎えたガジュマルのほかに、パキラやサンスベリアがこの部屋を鮮やかに彩る。この趣味も、俺ではないが、橘のものでもなかった。
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