恋のレシピは、距離感ゼロで無口な先輩と
 名前が呼べなかったそのときは、キスをしようと言ったのはどっちだったか。
 俺から言い出したとは思いたくないが、もしかしたら俺のほうだったかもしれない。
 離れていく唇に、思わず言葉が漏れた。

「足りない」

 小春がはっとしたように見上げてくる。
 次は、俺の番だ。
 手を伸ばして、彼女の頬に触れる。
 やわらかくて、温かくて、ちゃんとここにいるって確かめたくなる。

「あ、あの、湊さん……」
「次からは、こうして」

 そう告げて、今度はためらわずに唇を重ねた。
 彼女が少しだけ肩を震わせて、でも逃げようとしない。
 俺の胸元をぎゅっと握るその指先が、何よりの答えだった。
 さっきよりも深く、長く。
 言葉じゃ足りない想いを、唇の温度で伝えるみたいに、確かめるようにキスをする。
 ただ触れるだけじゃ足りない。
 彼女の心の奥まで、ちゃんと届いてほしいと願いながら。
 唇を離しても、額をそっとくっつけたまま囁く。

「やっぱり、呼んでもらうのも好きだけど、呼ばれるとこういうことできなくなるな」

 小春は小さく笑った。
 それが、俺の欲をまた煽るのだと、本人はたぶん知らない。

「ごめん、我慢できそうにない」
「え?」
「寝室、このまま連れていきたい」

 キス以上は、今までない。一度すれば、もう制御が効かなくなると思ったから。
 俺なりに彼女のことを大切にしたいと思うひとつの手段として、身体の関係になることを避けていた。
 すると、俺の袖を小春が掴んで、恥ずかしそうに視線を落とした。

「……いきたいです、このまま」

 それが合図だったかのように、俺は小春を抱き上げ、すぐに寝室へと向かった。
 制御なんて、おそらく無理だ。
 ドアを閉めた音が、やけに静かに響いた。
 抱き上げた小春の体は思っていたよりも軽くて、でも、抱きしめるほどに熱を帯びていく。
 ベッドに腰を下ろし、そっと彼女を降ろすと、小春は視線を上げた。
 ふたりの距離は、もうあとほんの数センチ。
 そのわずかな隙間さえ、もどかしくて。
 キスを落とせば、彼女はそっと目を閉じて、受け入れてくれた。
 肌に触れるたび、彼女の熱が自分の体に溶け込んでいく。
 ためらいが、名残のように指先に残っていたけど──それも、次第に消えていった。
 服の布が擦れる音が、やけに耳に残る。
 小春の頬が紅く染まっていくのを、少し距離を取って見つめた。触れていいのか、と最後の確認を込めるように。

「小春」
「……好きです、湊さん」

 その瞬間、理性という名の最後の糸が、静かにほどけた。
 あたたかい。
 肌が触れ合うたび、心までほどけていくようで。
 どちらの息遣いか、どちらの名前か、もう区別がつかない。
 時間はゆっくり流れているようで、気づけば世界はふたりだけだった。
 指先で髪をなぞり、耳元で名前を呼び、唇で気持ちを重ねていく。
 小春は何度も名前を囁いてくれて、それがすべてを肯定してくれた気がした。
 言葉は少なかったけれど、すべてが、伝わっていたと思う。
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