恋のレシピは、距離感ゼロで無口な先輩と
「でもさ、橘さんって、ああ見えて人がいいからね」
「優しいのはいいけど、その優しさが甘えに繋がるっていうか」
「ああいうのって、最終的に自分の首を絞めるだけなのにね」
「まあ、私たちは関係ないんだけど」

 ふたりの言っていることが間違っているわけではない。
 実際、小林さんのミスを私がフォローすることは確かに多いし、指導に甘さがあることも自覚している。
 でも、それを指摘されるとやっぱり胸が痛む。自分の至らなさを他人にあれこれ言われるのは、決して気持ちのいいものではない。



 はあとため息をついては壁にかけられた時計を見上げる。
 とっくに定時は過ぎていて、経理部のデスクはすでに全員が帰り静まり返っている。
 私だけが、小林さんの仕事を肩代わりして、キーボードを打つ音だけがぽつりぽつりと響く。

「これ、どうしてこうなってるんだろう……」

 モニターに映る数字の羅列を睨みつけながら、小さくつぶやく。
 小林さんが入力したはずの伝票データに、明らかに計算ミスが含まれている。取引先の名前も誤字があるし、日付もバラバラだ。

「これも直さなきゃ……」

 私は肩を落としながら、一つ一つデータを修正していく。私がカバーできるところはしてあげたい。だけど限界があるのもまた事実だ。

「まだ残ってたのか」

 ふと声がして顔を上げると、そこには成川さんがいた。営業フロアの照明も消えている時間帯に、どうして彼がここにいるのだろう。

「成川さん、お疲れさまです」

 私は慌てて背筋を伸ばし、画面から目を離す。

「残業?」
「ちょっと気になることがあって。成川さんはお仕事終わりました?」
「接待終わって、パソコンだけ置きにきた」

 彼は手に持っていたスーツのジャケットを軽く肩にかけ直しながら、こちらに歩み寄ってくる。
 ネクタイは少し緩められていて、ワイシャツの襟元からは鎖骨が見えていた。私が見てしまってはいけないような気がして、そおっと視線を逸らす。
 髪が少し乱れていて、普段のきっちりとした営業マンらしさからは少しだけ外れた印象だ。
 どの部署も大変だとは、この六年でしみじみ痛感してきたことだけれど、営業部は花形と言われている分、いろいろな負担も多いことも知っている。
 特に、毎日のように接待が重なる日なんかは、さすがの成川さんも今のように、若干の疲れを覗かせていることがある。

「橘はもう終わるのか」

 その視線がまっすぐにこちらに向けられると、思わず体が硬くなってしまう。

「あー……もう少しです」

 苦笑いしながら、手元の資料に視線を落とす。
 そう答えてはみるけれど、「本当に終わるかな」という本音がちらりと頭をよぎる。
 それを表に出さず、ぎゅっと飲み込むことにはもう慣れてしまっている。
 デスクに積み重なった伝票と、未処理のエクセルファイルがそれを証明している。
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