天才画家に描かれて、毎晩とろけそうです ―スイートルームで始まる、芸術と恋の独占契約
雨の音が、石畳を優しく叩いていた。

咲良は黒い傘を差しながら、静かに歩いていた。
薄曇りの空の下、街はどこかぼんやりして見えた。

それでも彼女の目は、あの路地裏へ向かっていた。
もう一度、あの壁画に会いたかった。
それだけの気持ちが、身体を動かしていた。

通りを曲がる。
細い石畳の小径を、雨の粒が染めている。

(こんな雨の日に、誰かがいるわけ……)

思ったその瞬間だった。

壁の前に、ひとつの影があった。

フードを深くかぶった男が、
膝を折ってスケッチブックを抱え、黙々と鉛筆を走らせていた。

黒のパーカー。濡れた肩。
傘は差していない。
ただ、降る雨をそのまま身に受けていた。

咲良は、はっと息を呑んだ。

(……レオン?)

でも、確信はない。
顔も見えない。
声も聞こえない。

──それでも、心だけが先に答えを知っていた。

雨の音が強まる。
けれど、咲良の足音はその中でたしかに響いていた。

彼の背中に、ほんの一歩、近づいたところで
小さく、でもまっすぐな声で呼びかけた。

「……レオン」

その名は、空気を震わせ、雨をやわらかく裂いた。

男の手が止まる。
そして、ゆっくりと振り返る。

沈黙のなかで、彼の手がフードに触れた。

フードを静かに下ろす。

その瞬間、
金色の巻き毛がふわりと揺れて、雨粒をはじいた。

青い瞳が、まっすぐ咲良をとらえた。

一瞬、世界が止まったようだった。

雨の音も、空の匂いも、
すべてがふたりの間から遠ざかる。

咲良の傘に当たる雨音と、
レオンの肩に滑り落ちる雫だけが、現実の輪郭をなぞっていた。

でも、その視線が交わった瞬間、
ふたりだけの絵が、再び描き始められたような気がした。
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