天才画家に描かれて、毎晩とろけそうです ―スイートルームで始まる、芸術と恋の独占契約
夜のセーヌ川は、静かだった。

橋の上を歩く人々の足音も、遠くの観光船の光も、
すべてが淡くにじんでいた。

咲良は、レオンと並んで歩いていた。
ふたりの影が、水面にそっと揺れている。

川のそばに降りた遊歩道は、しっとりと湿っていた。

けれど、もう冷たくはなかった。

レオンが足を止める。

咲良も、それに合わせて立ち止まる。

「……ここ、好きなんだ」

レオンが、川の向こうを見ながら言う。

「子供のころ、ひとりでよく来てた。
 描くことしかなかったから。
 でも、ここだけは、『描かなくてもいい』場所だった」

咲良は、その言葉の意味をゆっくり咀嚼した。

沈黙が、そっとふたりを包む。

そして、レオンが向き直る。

「咲良」

咲良も、まっすぐに彼を見た。

「君を描けなくなったとき、君に会えなくなったとき、はじめて知ったんだ。
 僕が描きたかったのは、『線』じゃなくて――君だった」

そのまなざしに、咲良の胸がぎゅうっと締めつけられる。

「今度は──君の前から、もう立ち去ったりしない」

レオンの声は、決意よりも祈りに近かった。

「線も、記憶も、気持ちも……全部。
君を描き続けていたい。そばにいてほしいんだ」

咲良は、すぐには返事をしなかった。

けれど、ゆっくりと目を伏せ──
一歩、歩み寄る。

ためらいも、迷いも、すべてその足音に溶かしながら。
彼の胸元に、ことり、と身を預けた。

ふいにまわされた腕は、強くも、甘くもなかった。
けれど、どこまでも静かで、しっくりと馴染んだ。

ふたりの輪郭が、ぴたりと重なる。

「……本当に?」

咲良の声は、小さな息のようだった。

レオンは何も言わず、咲良の髪にくちびるを触れさせる。

そのまま、そっと囁いた。

「何度でも描く。君のすべてを……
今度は、愛で塗り重ねながら」

その言葉に、咲良の肩がすこしだけ揺れた。

ふたりの間に、あたたかい笑いがこぼれる。

それは音にならない、安堵の吐息のような笑みだった。

やがてレオンが顔を上げ、咲良の頬にそっと手を添える。

その手のひらには、ためらいも、遠慮もなかった。

ひと呼吸。

ふたりの影が、ゆっくりと重なる。
そして、唇が触れ合う。

セーヌの水面が、黄金の光を受けてきらめいていた。
風が、ふたりの背をそっと押すように吹き抜ける。

そのキスは、誓いではなかった。
未来の約束でもなかった。

ただ、「今、ここにいる」という、静かで確かな答えだった。
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