天才画家に描かれて、毎晩とろけそうです ―スイートルームで始まる、芸術と恋の独占契約
「ごはん、炊けたよ」

咲良が鍋の蓋を開けると、ふわりと湯気が立ちのぼった。

小さなキッチンに、懐かしい香りが満ちる。
フランス米でも、工夫すれば意外といける――そんな生活の知恵を、咲良はこの数週間でずいぶん覚えた。

「香ばしい匂い……さくら、トレビアン!」

レオンが上機嫌で箸を手にして寄ってくる。
だが彼のくちびるが触れたのは、炊き立てのごはんではなく咲良の頬だった。

「ちょ、熱いし!」

「でも、君のほうがもっと熱い」

「暑苦しいんだよ、バカ……」

そんなやりとりも、すっかり日常になっていた。

*

昼すぎ、咲良がパンを買いにひとりで外に出た。

ほんの数百メートル先のベーカリー。
観光客も多くない、静かな通りだ。

けれど――

「Bonjour, mademoiselle.」
「Quel regard magnifique…」
「Un café avec moi?」

通りすがる男性たちが、次々に声をかけてくる。

咲良は目を見開き、首を振ってその場を早足で通り過ぎた。
意味はわからない。
けれど、その視線に込められた“好意”だけは明らかだった。

(え、なんで……?)

戸惑いながらパン袋を抱えて帰る途中、背後から何かのフラッシュが光った。

見れば、カメラを構える男が一瞬こちらを見て、すぐどこかへ消えていった。

(いまの、私……?)

ただ歩いていただけなのに。
ただ恋人の家からパンを買いに出ただけなのに。

「誰かの特別」になったということは、
もう「誰でもない存在」ではいられなくなることなのかもしれない。

レオンのアトリエに戻ると、彼は小さなノートにスケッチを描いていた。

咲良の姿を見て、顔を上げ、にっこりと笑う。

「どうだった?パン屋、混んでた?」

咲良は笑い返した。

でもその微笑みの奥で、少しだけ心がざわついていた。
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