天才画家に描かれて、毎晩とろけそうです ―スイートルームで始まる、芸術と恋の独占契約
「ごはん、炊けたよ」

咲良が鍋の蓋を開けると、ふわりと湯気が立ちのぼった。

小さなキッチンに、懐かしい香りが満ちる。
フランス米でも、工夫すれば意外といける――そんな生活の知恵を、咲良はこの数週間でずいぶん覚えた。

「香ばしい匂い……さくら、トレビアン!」

レオンが上機嫌で箸を手にして寄ってくる。
だが彼のくちびるが触れたのは、炊き立てのごはんではなく咲良の頬だった。

「ちょ、熱いし!」

「でも、君のほうがもっと熱い」

「暑苦しいんだよ、バカ……」

そんなやりとりも、すっかり日常になっていた。



昼すぎ、咲良がパンを買いにひとりで外に出た。

ほんの数百メートル先のベーカリー。
観光客も多くない、静かな通りだ。

けれど――

「Bonjour, mademoiselle.」
「Quel regard magnifique…」
「Un café avec moi?」

通りすがる男性たちが、次々に声をかけてくる。

咲良は目を見開き、首を振ってその場を早足で通り過ぎた。
意味はわからない。
けれど、その視線に込められた“好意”だけは明らかだった。

(え、なんで……?)

戸惑いながらパン袋を抱えて帰る途中、背後から何かのフラッシュが光った。

見れば、カメラを構える男が一瞬こちらを見て、すぐどこかへ消えていった。

(いまの、私……?)

ただ歩いていただけなのに。
ただ恋人の家からパンを買いに出ただけなのに。

「誰かの特別」になったということは、
もう「誰でもない存在」ではいられなくなることなのかもしれない。

レオンのアトリエに戻ると、彼は小さなノートにスケッチを描いていた。

咲良の姿を見て、顔を上げ、にっこりと笑う。

「どうだった?パン屋、混んでた?」

咲良は笑い返した。

でもその微笑みの奥で、少しだけ心がざわついていた。
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