天才画家に描かれて、毎晩とろけそうです ―スイートルームで始まる、芸術と恋の独占契約
夜のアトリエに、時計の音だけが響いていた。

レオンは窓際に座り、描きかけのキャンバスに向かっていた。
でも、筆はもう何分も止まったままだった。

後ろで食器を片づける音がする。
咲良が、静かにテーブルを拭いている気配だけが、空気をかすかに動かしていた。

──あの夜以来、ふたりの間に流れる沈黙は、長くて、重たかった。

咲良はもう、レオンに余計なことを言わなくなった。
まるで、自分の存在をできるだけ小さくして、そばにいるようにしている。

でもそれが、レオンには痛かった。

(何をしても、君の背中ばかり見ている気がする)

ようやく絞り出すようにして、咲良が口を開いた。

「……ねえ、レオン」

「なに?」

「そろそろ……帰る準備、したほうがいいかな」

レオンは、手にしていた筆をゆっくりと置いた。

「ビザ、あと一週間でしょ。
 フライトも探しておかないと、ぎりぎりになるから……」

咲良は淡々と話していた。
でも、その声の端に、ふるえるものがあった。

レオンは、それを止めることができなかった。

止めたいと思った。
けれど──何と言えばいいのかわからなかった。

「……うん。わかった」

その言葉を選んだ自分自身に、レオンはひどく傷ついた。

咲良はそれ以上なにも言わず、黙って皿を重ねていった。

テーブルクロスの端が揺れ、レオンの視界がぼやけた。

(こんなふうに終わるなんて、思ってなかったのに)

でも、いまはもう何も描けない。
咲良を引き止める言葉さえ、作品のように作り物に思えてしまって。

愛しているのに、彼女の手を、もう握ることができなかった。
< 42 / 63 >

この作品をシェア

pagetop