天才画家に描かれて、毎晩とろけそうです ―スイートルームで始まる、芸術と恋の独占契約

第7話 レオンという画家

レオンが絵筆を握ったのは、三歳の誕生日だった。

ろうそくを吹き消したあと、プレゼントされた真新しいスケッチブックと水彩絵の具。

幼い手は震えることなく、最初の線を描いた。

それは花瓶の中の一輪のカサブランカだったが、父は息を呑み、母は目を潤ませた。

その日から、彼の人生は変わった。

「うちの子は天才だわ!」

両親は、口を揃えてそう言った。
そして次第に、「天才」を囲う檻を築きはじめた。

国際的な子ども絵画コンクールで次々と賞を取り、名だたる美術館から招待が舞い込むようになると、
父は仕事を辞め、母はレオンの「マネージャー」を名乗った。

「いいから、今日はあと三枚仕上げなさい。ね、あなたの才能を信じてるのよ」

褒め言葉が、いつのまにか命令に変わっていた。

彼が描く一枚は、高級車よりも高い値段で取引され、そのたびに両親の笑顔は醜く歪んだ。

彼らの目には、もう息子ではなく「金を生む筆」しか映っていなかった。

十五歳のある日、レオンはアトリエから逃げ出した。

家を出て、名前を捨て、顔も隠して、ただ“描く”ことだけを続けるようになった。

それが、覆面アーティスト“L”の始まりだった。

絵だけを信じて、絵だけに救われて、
路地裏に静かに残す祈りのような絵が、自分にとって唯一の居場所だった。

だが、孤独はしみつく。
誰にも名前を呼ばれないまま過ぎていく歳月のなかで、
「レオン」はこの世界から少しずつ消えていった。

──咲良に出会うまでは。

彼女は、僕の正体を知らなかった。
絵の価値にも、世間の評価にも目を向けなかった。

「……すごい。なんで、こんなふうに描けるの?」

初めて見せたとき、そう言って泣いた。

彼女は、僕の線を、まっすぐに見てくれた。
値段ではなく、感情で見つめてくれた。
過去でも未来でもなく、「今ここにいる僕」を肯定してくれた。

──それなのに。

(咲良……僕の絵を値踏みしなかった、ただ一人の人だったのに。
 僕は、その手を離してしまった)

ひとり、パリのアトリエ。
咲良がいなくなった部屋で、レオンはキャンバスの前に座っていた。

描けなかった。
どれほど手を動かしても、彼女のいない空白が埋まらなかった。

指が止まり、やがて、涙が頬を伝った。

音もなく、淡く、
筆先に落ちて紙を濡らした。

(君が僕のすべてだったんだ)

しばらくして、レオンは立ち上がった。

カーテンを開ける。
明け方のパリ。
眠らない街が、うっすらと光を帯びていた。

その光を見ながら、レオンは静かに決めた。

(拠点を日本に移す。そして、人目から隠れる日々を終わらせて、
 本当の「レオン」として、咲良にもう一度向き合う)

覆面を外し、名前を取り戻す。

それは、芸術家としての生まれ変わりであり、
愛する人への贖罪と、誓いでもあった。

朝がくる。
この光のなかで、もう一度、自分を描き直す。

「僕は、レオン。君が出会ってくれた、ただの男だ」

その名を胸に、彼は日本行きのチケットを手に取った。
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