天才画家に描かれて、毎晩とろけそうです ―スイートルームで始まる、芸術と恋の独占契約
ミットを構える咲良の腕に、少年の突きがまっすぐ入った。

「いいね、今の正面!」
「押忍っ!」

子どもたちの明るい声が道場に響く。
床板に汗が落ち、風が抜ける。
長年しみ込んだ畳の匂いが、どこか懐かしい。

──ただ、もとに戻っただけ。

白帯の子どもたちを相手に、号令をかけ、受け身を見守り、
転んだ子に手を差し伸べる。

何も変わらない。
ここは、いつも通りの「朝比奈道場」。

でも、咲良の中には、ずっと消えない違和感があった。



「咲良」

稽古後、父が声をかけてきた。
寡黙な人だけれど、娘の変化にはすぐに気づく。

「……どうしたんだ。顔が、晴れてない」

「ううん、なんでもない。平気だよ」

そう言って、柔らかく笑ったつもりだった。
けれど、父はなおもじっと咲良を見ていた。

視線に耐えきれず、咲良は軽く頭を下げて道場を出た。



靴を履いて帰ろうとしたとき、ひとりの男の子が近寄ってきた。

「咲良せんせい」

「ん?どうした?」

「……せんせい、わすれものしたの?」

咲良は少し驚いた顔をした。

「え?してないよ。なんで?」

少年は、ちょっと恥ずかしそうに首をかしげる。

「なんか……ずっと、なにかさがしてるみたいだったから」

その一言が、胸に刺さった。

(探してる……?)

「……そう、見えた?」

「うん」

少年はそれだけ言って、駆けていった。

咲良はその場に立ち尽くす。

探してるつもりなんてなかった。
でも、確かに──スマホを手にしている時間が増えていた。

連絡が来るはずもないのに、
レオンの名前が光る画面を、何度も、何度も待っていた。

(わすれもの……)

(大事なもの……)

(……レオン)

それは、忘れようとしていた名前だった。

でも、忘れられなかった。
どんなに現実に戻っても、日常に戻っても、
彼の声も、手も、まなざしも、胸の奥で生きていた。

気づいたときには、涙がぼろぼろとこぼれていた。

止まらなかった。
声も出せなかった。

そのとき、背中に静かな声が落ちた。

「もう……休め」

榊原隼人だった。

厳しくて、いつも冷静で、
でも誰より咲良のことを見ている人だった。

咲良は、ただ頷いた。

泣きながら、頷いた。
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