天才画家に描かれて、毎晩とろけそうです ―スイートルームで始まる、芸術と恋の独占契約
咲良は、それからというもの、毎日のように近所の裏通りを歩いていた。

住宅街の奥。人通りも少ない、あの小さな壁の前。

──彼と、初めて出会った場所。

あのとき、夜の帰り道で出会った「不審者」。
──背負い投げて、彼の腕を折って。
──それが、全部の始まりだった。

今思えば、ありえないくらい不器用な出会いだった。
だけど、あの夜に戻れるなら、もう一度、あの人にぶつかりに行きたい。
そんな気持ちで、咲良は何度もその場所に立った。

いつ行っても、彼の姿はない。
でも、それでいいと思っていた。

すれ違った風や、壁に残る虹のストリートアート。
その痕跡に触れることで、ふたりの時間を確かめていたのかもしれない。

絵は、少しずつ色褪せていた。

雨風に削られ、線の輪郭はぼやけ、
最初に見たときの鮮やかさは、もうなかった。

けれど──咲良の目には、かつての色がくっきりと浮かんでいた。

レオンが、初めてこの街に描いた「祈りの虹」。

きっと、彼も同じように、あの日、何かを願っていたのだ。

(……どうして、あのとき気づけなかったんだろう)

そして、ある晴れた日。
咲良がいつものように足を運ぶと、ふと、目を凝らした。

虹の下に、なにかが描き足されている。

(ん……?)

目を細めて近づくと、そこにはひとりの女性の後ろ姿。

──誰かが、いたずらで描き加えたのだろうか?

けれど、さらに数歩、近づいた瞬間。

咲良の足が止まった。

その後ろ姿──肩の形、結んだ髪、立ち姿。

(……わたし?)

描かれたばかりの絵の具は、陽に照らされてまだわずかに光っていた。
油彩特有のにおいが、風に混じって漂っている。

レオンの線だった。

咲良は息を飲んだ。
胸の奥に、何かが弾けた。

(いる──)

(ここにいた。今、すぐそばまで来ていた)

理屈じゃない。
確信だけが、彼女の心を打った。

次の瞬間、咲良は駆け出していた。

住宅街の道を抜けて、角を曲がり、細い裏路地へ。
あの日ふたりがすれ違った、あの光景を胸に焼き付けながら。

(まだ、間に合う)

(どうか、間に合わせて)

走る風の中に、懐かしい匂いが混ざっていた。
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